XI 狼と四つの港 ―Side Colors―


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さて、今回は、この深浦についての予習じゃ。



まあ、ぬし様のことじゃ、「深浦」、なんて町のことは知らぬのじゃろ?

この津軽の国にはの、津軽四浦、と言われし港がありんす。

その名の通り、津軽を代表する四つの大きな港じゃ。



その昔、といっても、聖徳太子のおったころはの、今の「津軽平野」は存在せんかった。
全て低湿地じゃった。石炭になり損ねた泥炭が見渡す限りに広がり、
どこまでか海で、どこからが陸なのかもはっきりわからん。
徳川家康が入封する前の江戸と一緒じゃ。
今で言えば、そうじゃな、さしずめ釧路湿原というところかや。
もちろん、ぬしら人が住むのは無理なところじゃ。



じゃから、その頃「津軽」といえば、山のあたり、今の深浦や鰺ヶ沢の辺りを指しておった。
今の「津軽平野」やその先の三厩の辺りはの、深浦や鰺ヶ沢みて、泥炭の海の向こうの「ワタリ」の「島」じゃ。
つまり「渡島」というわけじゃ。
わかるかや?
今の龍飛岬と北海道は同一視されておったのじゃ。

それから何百年か時が流れての。
人の手による開墾と、岩木川が毎年運ぶ土のおかげで、津軽平野は今のようななだらかな平原となった。



<十三湊>

ぬしの遠いご先祖様 ― と言ってもわっちからみればまだまだひよっこじゃがの ―、
平安時代が終わり、武士の時代になると、安東と名乗る連中が津軽の十三湊を根城にこの辺りに睨みを利かすようになった。
十三湊(とさみなと)は、岩木川の河口にできた汽水湖じゃ。美味い貝がよく穫れるうえ、天然の港にはもってこいの地形じゃ。
北の地に住む異教の民との交易で潤っての。わっちの故郷じゃ。
博多に匹敵する港湾都市じゃった。
遠く沿海州、樺太や現在のロシアとも交易をしておった。



・・・。

じゃがの、やがて、十三湊は南部からやってきた月を狩る熊に襲われ、

衰えたのじゃ。
湖は砂で埋まり船の往来には適さなくなった。

<鰺ヶ沢>

鰺ヶ沢はの、その名の通り、立派な漁港じゃ!
聖徳太子の時代に、阿部比羅夫がここを根城にしてロシアまで遠征を行ったそうじゃ。

上で書いたように、その昔は「津軽平野」が泥湿地で人の住む場所ではなかったのわけじゃから、
ここが事実上の「最北の港」じゃったわけじゃな。

詳しくは行っとらんのでわかりんせん!

<青森>

行っとらんのでわかりんせん!


<深浦>

深浦は天然の良港じゃ。

湾内は差し渡し300尋(約600メートル)ほどの広さがあり、
岩崖がそのまま海に落ちているからの、大きな船が泊まるにも十分な深さじゃ。
さらに、周囲を岩山に囲まれて風を防いでおる。




深浦が「天然の良港」なのは、地形だけではありんせん。


深浦の港の沖合、わずか3,40キロほどのあたりを、北に向かって流れるものがおる。
対馬海流じゃ。
深浦は、この対馬海流が本州に最接近するポイントなのじゃ。
鰺ヶ沢や十三湊では、海流から離れ杉じゃ。




対馬海流は、だいたい時速2ノットで流れておる。
わかりやすく言うとだいたい時速4〜5キロじゃ。

この海流に乗って、内地の民は古くから北を目指しおった。
畿内から瀬戸内を通り、山陰、北陸を経由して出羽国、
そして北海道、さらには樺太やロシア大陸を目指したのじゃ!

深浦におれば、その対馬海流まではすぐじゃ。
風が吹いて海が荒れれば深浦湊に逃げ込み、風が凪ぐまで待てばよい。
よい風が吹けば港を出て海流に乗れば、北海道の海の幸までひとっ飛びじゃ。

深浦は、内地の行商人にとって最北の交易拠点じゃったのじゃ。



江戸時代に発展した北前船の船主は大阪の商人が多かったからの、
深浦には、そういう上方の連中が常にたくさんおったということじゃ。
じゃからこそ、深浦は、陸奥の果てであるにもかかわらず、上方の文化が伝わったというわけじゃ。


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