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鳥取県 湯梨浜町 東伯郡 旧東郷町 伯耆国

倭文しとり神社

式内小社
一宮
国幣小社
(県社)
別表神社
国宝を出した伯耆国の一宮。

湯梨浜・倭文神社

鎌倉時代の有名な史料『東郷庄下地中分絵図』に描かれているのがこの倭文神社である。この東郷にある倭文神社は、少なくとも1103年の時点では伯耆国の「一宮」だったことがわかっており、ずっと伯耆国一ノ宮と呼ばれてきた。

所在

鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内
鳥取県東伯郡東郷町字宮内小字宮坂

創建

祭神

建葉槌命(たけはづちのみこと)(別名:倭文神、天羽雷命、天羽槌雄神)
下照姫命、建御名方命、天稚彦命、事代主命、少彦名命、
建葉槌命は『日本書紀』に登場する織物の神様。「建葉」を「武刃」として武神とみなす説もある。
鳥取には有名な「倭文神社」が3社ある。伯耆国一宮であるこの倭文神社(河村郡)と、伯耆国三宮である倉吉市の倭文神社(久米郡)、鳥取市倭文地区にある倭文神社である。3社とも延喜式神名帳に出ている式内社で、古いものでは斉衡3年(858年)に伯耆国の「倭文神」に関する史料があるのだが、これが河村郡の倭文神社と久米郡の倭文神社のどちらを指すのか判別できず、よくわかっていない。

明確にこの東郷の倭文神社を指しているとわかる最古の言及は、康和5年(1103年)のもの。なにしろこれはこの神社の境内から発掘された文書だし、「伯耆国河村郡東郷御坐一宮大明神」と書かれている。これがこの神社が「一宮」であったことを示す最古の史料でもある。

 湯梨浜町(ゆりはま-)は平成の大合併で誕生した町で、「湯梨浜」というのは、温泉の湯、梨、浜で採れる海の幸を表す造語地名である。合併前は海に近い泊村、東郷池の東岸の東郷町、西岸の羽合町(はわい)だった。一帯は古代の条里制が今でも残る水郷地帯であるが、山の斜面では二十世紀梨の栽培が行われており、鳥取県を代表する梨の産地でもある。
▲二十世紀梨の花は鳥取の風物詩。これは御冠山の裏手の梨畑。この梨畑の前を旧山陰道が通っている。
 湯梨浜町のあたりは、江戸時代には河村郡と呼ばれていて、旧伯耆国のなかではいちばん東の位置にあった。ここから山陰道で峠を越えると因幡国である。明治時代に、河村郡・久米郡(いまの倉吉市一帯)・八橋郡(倉吉市の西方)が合併して東伯郡となった。
 
▲東郷湖の湖上に湧くはわい温泉
湯梨浜の観光資源の一つが東郷湖一帯で湧く温泉。もともと東郷湖の湖底から湧き、江戸時代には湯桶を載せた舟を浮かべて入浴していた。西岸の羽合町では「はわい温泉」と言い、珍名地「日本のはわい」として一部では知られた存在だった。

 倭文神社の主祭神は、織物の神である倭文神である。「倭文」という字は、「しとり」のほか、「しとおり」「しずおり」「しずり」「しず」などの読み方もあり、いずれにせよ織物技術をもった新羅からの渡来者の集団を指す言葉だったという。鳥取市(旧因幡国)倭文地区は、実際にそういう渡来者集団が住んでいた土地だっただろうと考えられているのだが、この東郷の倭文神社については、なぜ倭文神がここで祀られているのか、神社に関して倭文神や織物についての伝承がまったくなく、わからないそうだ。

 倭文神は建葉槌命 (たけはづちのみこと)という異称もあるのだが、建=タケ=武、葉=ハ=刃に通じることから武神と解釈する考え方もある。『日本書紀』や『古事記』によれば、大国主命の国譲りによって大和政権が支配者になったときに、これに従わなかった土地へ武神・建葉槌命を派遣したのだ、とする説もあり、この神社で祀られていたのはそういう性格のものだろうという。

 一方、祭神の下照姫 については、江戸時代中期に編纂された『伯耆民諺記』(寛保2=1742年)のなかで、当社は下照姫を祀り、もともと出雲国神門郡(かんど-)から移ってきたものだとしていて、古くから安産の神として崇敬されていたという記述がある。

 下照姫については当地にいろいろと伝承がある。そもそも下照姫というのは、大国主命の娘である。母はタキリ姫(多紀理毘売命)といい、「多霧」に通じることから海上交通と関係があると考えられている。その下照姫が出雲国から伯耆へ船でやってきて、仮が屋崎に着いた。姫は御冠山を住まいと決めたのだが、姫にちなむ「腰掛岩」や「化粧岩」がある。

 倭文神社がある御冠山の麓には昔の山陰道が通じていて、ここは山陰道と伯耆国国府に近い要衝の地だったとも言われている。古い時代には数多くの神宮寺を荘園として傘下にもち、1000石の神領を持っていた。平安時代、この「伯耆国一宮大明神」を頂点とする社領は皇室に属していた。

 史料では、鳥羽天皇(在位1107-1123年)の皇后である(安楽寿院)が、自領の伯耆国一宮を役人が荒らしていると訴えている記録がある。その後も皇室領伯耆国一宮の取扱を示す史料がいくつかみつかっており、皇室のうちの誰のものであるかは時々変わっているとしても、皇室の荘園であることは変わらなかったようだ。

 しかし、中学校の日本史で習ったと思うが、平安時代の終わりごろから、そうした荘園が地方の武士集団に乗っ取られるようになる。彼らは源頼朝が全国に派遣した地頭であり、皇室・公家や寺社の荘園を押領してまわり、各地で衝突が起きた。その問題を解決するために行われた手法が「下地中分」といい、要するに領地を半々に分け合う取り決めである。

 その下地中分を示す一級の史料として、中学校の教科書や資料集に必ず出ている絵図がある。『東郷荘下地中分絵図』である。この東郷庄というのが、おおむね現在の湯梨浜町全域に相当するのだ。
 図面をみると、東郷湖の周辺にあった荘園を、領家(荘園)の取り分と地頭(武士)の取り分とに赤い線を引いて分けている。湖の左側には森のある御冠山 が描かれ、そこに朱塗りのお宮が2棟描かれている。これが倭文神社である。
 拡大するとこんな感じ。「一宮」とはっきり記されている。

 その下に馬が3頭描かれているが、このあたりは古代から馬の産地でもあり「馬野」と呼ばれていた。

 この絵図面には馬が全部で12頭描かれていて、地頭と領家に6頭づつ行き渡るように線が引かれている。

 絵図面の下の方(下が北なので、日本海側になる)には、「馬ノ山」がある。馬ノ山は山陰地方最大級の前方後円墳や、日本最大級の石室を備えた古墳など22基が見つかっているところで、少なくとも3世紀からこの一帯の有力地だったのだろうと考えられている。
 しかし、鎌倉時代の半ば以降にどうなったのかは、史料に欠きよくわからない。戦国時代になると、大永年間に戦火で焼けたが、尼子氏によって再建されたとある。尼子氏は大永年間に出雲から侵攻して一ヶ月で伯耆国全土を掌握したという「大永の五月崩れ」という伝承があり(史実かどうかは議論がある)、たぶんその時のことなのだろう。

 その後、東郷湖の背後の山に羽衣石城を築いて本拠とした南条氏 が一ノ宮として保護したことが記録されている。南条氏というのは、もとをたどると鎌倉時代の出雲国の守護、塩冶氏に遡る。塩冶氏は、鎌倉時代の終わりに足利尊氏に味方して出雲国と隠岐国を安堵されたが、尊氏の重臣・高師直と対立して謀殺された。史実かどうかはわからないが、塩冶氏の妻がとんでもない美女で、それに横恋慕した高師直が妻を強奪しようとして殺した、ということになっている。この話は、江戸時代には「忠臣蔵」の芝居として演じられている。というのも、リアルで赤穂浪士が討ち入りをやった直後の時代には、その話を芝居にするのはヤバすぎるので、「高師直に罠にはめられて無念の死を遂げた塩冶氏の仇を討つ話」という設定に変更して演じられたのである。

その塩冶氏の忘れ形見が成長したのが南条氏の祖だということになっている。南条氏は、室町時代に有力になった山名氏に臣従して生き残り、この湯梨浜の武将となったのだ。
 戦国時代末期になると、このあたりは、山名氏、尼子氏、毛利氏の勢力争いの境目になって、南条氏は面倒な状況に追い込まれた。南条氏は尼子についたり毛利についたりしたが、豊臣秀吉の時代になると秀吉についた。秀吉は大軍で毛利配下の鳥取城を取り囲んで兵糧攻めを行い、城を落としたあとは伯耆国に攻め込もうとした。

 それを手引したのが羽衣石城の南条氏だったのだが、秀吉は倭文神社のある御冠山まで進軍したところで、伯耆入りを目前にして引き返してしまった。そのため、はしごを外された格好になった南条氏の羽衣石城は毛利の軍勢に攻め落とされてしまった。

倭文神社のある御冠山は東郷湖畔にある。ただし、主要道路からは外れた場所にあり、農道のような小路を登っていった行き止まりに神社がある。

 行き止まりにはそこそこの駐車場が整備されていて、「国幣小社倭文神社」の立派な柱が立っている。
 
最初の石段を登ると、鳥居が見える。御冠山の中腹にある神社だが、駐車場があるところまでは車で来れるし、そのあとは石段がちょっとしかない。

だから、しんどい思いをして石段を登らなければいけない山の中の神社とちがい、苦労もなく参拝できる。


鳥居の社額には「伯耆国一宮倭文神社」と書かれている。

その柱部には、

一宮大明神

享保十二

と書かれている。

享保12年は1727年。

このあたりに山へ入っていく脇道があり、その先に経塚がある。
そこが国宝が出土した「伯耆一ノ宮経塚」だ。

が、その国宝は、貴重すぎるがゆえにここにはなく、
東京の国立博物館にある。

なにがどう国宝かというと、
金銅や銅の仏像各種のほか、銅鏡、瑠璃、銅銭、漆器など
奈良時代のいろいろな作品が一式出土していて、
一式まとめて国宝だ。

この経塚、もともとは下照姫命のお墓であると言い伝えられてきた。
大正時代に盗掘があり、それで思い切って掘り返してみたら、
お宝が出てきたというわけである。

さて、狛犬が護る随神門。


狛犬は、一部に赤い塗装が行われている。

ユニコーンガンダムみたいでこれはカッコイイと思う。

得てして、かつて行われた塗装が禿げてみすぼらしくなっているものがよくあるが、ここでは手入れが行き届いているのか、綺麗だ。
配色は同じなのだが、口を開けたことで赤面積が大きくなっている。そうするとカッコイイバランスが崩れてしまっているように思う。難しい。


伯耆国一ノ宮倭文神社
一、通称 伯耆一ノ宮
一、祭神 建葉槌命(主神) 下照姫命 外五柱
一、例祭日 五月一日
一、由緒
  伯耆国の一ノ宮として御冠山の中腹に位置し、広く安産の神として信仰されている。創立年代は不明であるが、出雲大社御祭神大国主命の娘下照姫命が出雲から当地に移住され、安産の普及に努力された。
  創立当時、当地方の主産業が倭文(しずおり)の織物であったので倭文部の祖神建葉槌命に当地と関係の深い下照姫命を加えて祭神としたもので、その後倭文の織物が姿を消し、安産信仰だけが残り、安産守護として崇敬され、参道横には安産岩も伝えられている。
  平安時代延喜式神名帳(西暦九二二年)には当神社の名がみえ、神階は度々昇進し、天慶三年(西暦九四〇年)には従三位から正三位に進んでいる。その後正一位に昇進されたとみえ「正一位伯州一宮大明神」と刻した勅額と称する古額が現存している。
  住吉の社殿広大で、千石の御朱印地を有したと伝えられ、鎌倉時代の東郷荘絵図には、東郷湖付近に点々と一ノ宮領の文字がみえている。
  然し戦国時代荒廃、天文二十三年(西暦一五五四年)尼子晴久社殿を造営神領七十石寄進。後神領中絶したが、元亀元年(西暦一五七〇年)羽衣石城主南条宗勝これを復旧した。
  天正年間羽柴秀吉を迎え討つべく、吉川元春(毛利の武将)橋津の馬ノ山に在陣するや、当神も兵営とせんとしたが、元春の子元長は霊夢を感じて、兵を馬ノ山に引いている。その後御冠に入った秀吉との対陣は有名である。
 羽衣石城の南条元続当社の荒廃を嘆き、神領を収め、新地を寄せ代官をして社領の監査を厳ならしめたという。
  徳川時代は池田藩主の祈願所となり、天正年間の戦乱で中絶した神輿渡御を延享二年(西暦一七四五年)再興し、藩老和田氏から境内警備のため鉄砲六人を附されている。
  明治以降県社であったが、昭和十四年国幣小社となった。

一、安産岩
  神社境内に至るまでの参道横にある。
  昔常に難産に苦しむ婦人が、古来から安産の神として信仰の厚い伯耆一ノ宮に願いをかけて日参し、満願の日下照姫命の霊夢を感じ、参詣の帰途この岩で安産したので、以来安産岩と称するようになったという。

一、下照姫命御着船の地
  羽合町宇野と泊村宇谷の中間の御崎に、出雲より御着船されたと伝えられるが、その近くに化粧水と称し、船からおあがりになって化粧を直すのにお使いになった水が伝えられている。

一、国宝 伯耆一ノ宮経塚出土品(東京国立博物館に展示されている。)
一、史跡 伯耆一ノ宮経塚
(附)馬の山古墳群は、当神社より丘続きの位置に存在する。

昭和五十四年三月 湯梨浜町教育委員会

「御冠に入った秀吉との対陣は有名」とあるけれど、有名か?たぶん今はもう鳥取県民でも、歴史好きでなければ知らないだろうと思うが・・・。

これを少し補足説明すると、戦国時代、中国地方制覇をめざす豊臣秀吉は、因幡国の鳥取城を包囲し、兵糧攻めにして陥落させた。逃げ出そうとする民を城の中に追い返して、食料が早く無くなるようにしむけたもので、城の中はとんでもないことになった。どのぐらいとんでもないかというと、NHKの大河ドラマでは放送できないような事態になってしまったのだ。これは鳥取市民は誰でも知っていることだが、食料が尽き、木の根や蛙も食べ尽くしたあとは、人の死体を食べ始めたである。いろいろな悽惨な逸話が残されているが、そこらへんは省略するけども、結局、城守である吉川経家が切腹して詫びを入れ、開城した。それで因幡国は秀吉のものになったのである。

で、毛利元就の次男で、吉川家に入った吉川元春は、鳥取城を救援しに行くところだったが、間に合わなかった。落城を知ったのが、この湯梨浜の馬ノ山だった。馬ノ山からは、天神川を渡らなければ伯耆国に戻れない。そこで元春は、馬ノ山に全軍を集めて陣を敷き、背後の天神川の橋を焼き落とした。自分たちが伯耆国へ逃げ帰る退路を断った、いわゆる背水の陣である。(いまの天神川は東郷湖の西で直接海に注いでいるけれど、これは江戸時代に作られた新流路である。それ以前の天神川は、東郷湖に注ぎ、それから馬ノ山の麓で海へ注いでいた。)

秀吉は因幡を落としたあと、イケイケで伯耆国へ攻め込もうとして、馬ノ山の隣の御冠山(倭文神社がある)まで来て、前方で吉川元春が背水の陣を敷いているのを見た。秀吉は、これ以上進むとまたクソ面倒くさいことになると悟り、伯耆進軍をあきらめて引き返したのである。この「戦わずに秀吉を諦めさせた毛利元就の次男スゲー」が「有名」なのだ。

なお、この結果として、伯耆国のなかで秀吉に味方していた羽衣石城(東郷湖の南にあった)の南条氏が八方塞がりになり、毛利氏に攻め落とされている。気の毒に。


「参道に安産岩がある」と書いてあったけど、
さすがにこんなところで産んだらそれはもう安産じゃなくね?って思ったら、
これは安産岩じゃないっぽい。
実は、神社の入り口まで山を登ってくる途中の道端にある。

どっちにしろこんなところで産んでる時点で安産じゃない気もするが・・・。

明治5年(1872年)に築かれたという随神門。
一般に、明治の建築は江戸時代の建築に比べるとふたまわりぐらい簡素化されている傾向にあるけれど、これは江戸時代の感じがそのままだ。明治5年というのはまだ全然江戸時代気分だったろうし、江戸時代の職人がそのまま現役だったのだろう。
象の鼻がすごいことになっている。
口の中とかどうやって彫ったのかわからないぐらい彫り込んである。


さて、門をくぐって境内へ。
各地の「一ノ宮」とされるところには、旗とか看板とかいろいろ賑々しいところもあるが、
ここは静かできれいな境内だ。




  この社殿は文政元年(1818年)のもの。
割とシンプルで落ち着いたつくりだ。





こちらは社務所。社殿と違って、赤瓦できらびやかなつくり。
 
これは「かほり袋」
お守りを二種ゲット!
御朱印。




【鳥取県神社庁誌データ】
名称 倭文神社 No
所在 鳥取県東伯郡百合浜町大字宮内754 TEL 0852-32-1985
FAX
例祭日 5月1日
社格 式内社・伯耆国一宮・県社・国幣小社・別表神社
祭神
交通 JR山陰本線「松崎」駅から車で10分
バス・松崎駅前から「藤津入口」停留所で降り、徒歩20分
社殿
境内     
氏子世帯 崇敬者数  3000
摂末社
備考 

西暦 元号 和暦 事項 備考
   
             
858 斉衡 3 8 5 倭文神が従五位下を叙される(『文徳実録』)  
940 天慶  3 9 4 従三位から正三位に加叙(『日本紀略』)   
1080 条暦 4 6 10 倭文神に中祓を修すことが奏上される  
斜字は、久米郡の倭文神社といずれを指しているかは未確定。  
             
1103 康和  5 10 3 釈迦入滅後2052年につき、「伯耆国河村東郷御坐一宮大明神」神前において、僧京樽により供養された如法経(法華経)が埋納される。  
             
1159 平治 1 9 29 鳥羽天皇皇后が、伯耆国一宮に役人が乱入して強奪していると訴える。
伯耆国一宮は京都伏見の安楽寿院の御塔領(皇室料)であり、年貢はムシロ100枚。
 
1188 文治 4   国衙によって伯耆国一宮の年貢が停止。安楽寿院の領地は河内国に変更となるが、伯耆国一宮は引き続き皇室領となる。  
           
1258 正嘉 2     『東郷庄下地中分絵図』に描かれる。   
             
1306 嘉元 4 6 12 安楽寿院の女院庁の所領に伯耆国一宮があげられる。   
             
             
1521
-
1528
大永        兵火によって社殿を焼失。   
1554 天文 23     尼子氏によって社殿が造営される。70石を寄進。  
1570 元亀 1     南条氏が伯耆国一宮を安堵。  
             
             
    鳥取藩から社領4石9斗を認められる。  
1694 元禄 7     竹内自安が神社を訪れる。  
1739 元文 4     鳥取藩の在中祈願所のなかに「宮内村一宮大明神」があげられる。  
1743 寛保 3     「殿様御婚礼」による祈祷を行う。  
1753 宝暦 3     『河村郡村々明細帳』では祭神を下照姫命としている。   
             
             
1818 文政 1     本殿(現在のもの)を築造。  
             
             
1872 明治 5     随神門を築造。  
             
             
1915 大正 4     経塚が盗掘される。そこから遺物が発見され、国宝となる。  
             
             
             
             



【参考資料】
『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』(平凡社、1992)
『日本地名大辞典31 鳥取県』(角川書店、1982)
『鳥取県大百科事典』(新日本海新聞社、1984)
『鳥取県の歴史散歩』(山川出版社、2012)


【リンク】
*玄松子の記憶(倭文神社)
*

 

参拝日:2013年08月10日
追加日:2017年02月21日