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鳥取県 岩美町 岩美郡 因幡国
御湯神社 -
式内小社
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旧郷社
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山陰最古と言われる岩井温泉に祀られる神社。
岩井温泉は旧山陰道沿い温泉宿である。京都から但馬国を経て蒲生峠を越え、因幡国に入ると最初の宿であり、鳥取を治める大名も湯治に訪れる賑わいをみせていた。
創建 伝811年(弘仁2年)
所在 鳥取県岩美郡岩美町岩井
祭神 大己貴命(大国主の異名。)
八上姫命(大巳貴命の妻。)
御井神(大巳貴命と八上姫の子。)
猿田彦命
大己貴命は「オホナムチ」と読み、「因幡の白兎」で兎を助けた出雲のプリンスの本名である。のちに大国を築いたことから「大国主」とも呼ばれる。八上姫はその最初の妻で、因幡国のプリンセス。
社格 式内社・旧郷社
例祭 4月25日・10月13日

 八上姫は古代因幡を治めるお姫様で、絶世の美女だった。出雲国の皇子たちがこれを妻にしようとはるばるやってくる。その途中、海岸で傷つき倒れたウサギと出逢うが、皇子たちはウサギを欺き嘲って、傷つくのを眺めて悦に入った。その一行から遅れて、皇子たちの荷物運びをさせられている「大己貴命(おおなむちのみこと)」という人物が通りかかる。彼はウサギに親切にし、治療してやった。これが有名な『因幡の白兎』のお話である。

 さて実はこのウサギ、八上姫の飼いウサギだった。ウサギから事情をきいた八上姫は、出雲の皇子たちには目もくれず、大己貴命を婿とすることにした。これを機に大己貴命は大成するのだが、これを妬んだ皇子たちは大己貴命を殺そうとする。八上姫の助けで難を避けた大己貴命だが、皇子たちの執拗な攻撃を避けるために「黄泉の国」へ逃げることにする。この「黄泉の国」は、現在の米子のあたりのことだったとされている。

 「黄泉の国」を治めていたのはスサノオだった。大己貴命はスサノオの娘、須勢理姫に気に入られ、これを正妻とすることでスサノオの剣を手に入れ、国を治めるだけの力を手にする。スサノオは、「俺の娘の婿に相応しい、大国の主となるがよい」と言い、大己貴命は「大国主命」となって大帝国を築くのである。

 この須勢理姫はたいへん嫉妬深い妻だった。須勢理姫よりも先に妻となり子を設けていた八上姫は、須勢理姫によって身に禍が及ぶのを恐れ、大己貴命のもとを離れて因幡国へ帰っていった。そのときに、大己貴命とのあいだの子を木の俣においてきた。これが御井神(別名「木俣神」)である。

 『御湯神社本紀』(延享元年、1732年)によると、大己貴命と八上姫のあいだには9柱の神が生まれたとされ、御井神(木俣神)はその第一子であったという。『本紀』では、生まれた御井神は岩井温泉の湯で清められたとされている。

 鳥取県(旧因幡国)の東部から兵庫県にかけての日本海側の海岸は、浦富海岸や但馬御火浦、香住海岸などの断崖絶壁が続く。この海域は海路の難所であり、容易に陸へ近づけないために、海岸に平家の隠れ里なども残っている。

 山陰道はこれらの嶮所を避けるため、因幡国東部の岩美のあたりから蒲生川に沿って内陸に入り、蒲生峠を越えて但馬国へ入る。この山陰道に沿った地域を、古くは「巨濃郡」(このこおり)と呼んでいた。

 巨濃郡の郡衙のあった場所ははっきりしないが、一節では今の岩井温泉のあたりだったともされている。このあたりは蒲生川に長谷川(ながたに-)、真名川、瀬戸川などが合流する地点になっていて、谷が開けた平地が形成されている。

▲愛宕山から眺める岩井地区。山陰道は写真右奥の谷へ向かう。写真中央付近の山裾に御湯神社がある。
 
 ここから一つ峠を越えると、但馬国(兵庫県)である。京都から下ってくると因幡国で最初の、京都へ上る際には因幡国で最後の宿場だった。明治期には近くに鉱山が開かれ、大正時代には鉄道も開通し、芸者も集まって温泉街は大変な活況だったという。

 神社のすぐ隣にあるコンビニには、「鳥取県最後のコンビニ」の看板が。

神社名のよみがなについては、文献によっていろいろある。
「みゆじんじゃ」「おんゆじんじゃ」「おゆじんじゃ」などが見受けられる。

本来は「御井神」(みいのかみ)を祀った「みいじんじゃ」だったものが「御湯」に転嫁したのだ、という説もある。それだと温泉はあまり関係ないような感じもするが、果たして。

式内社 御湯神社
鎮座地 岩美町岩井字宮谷
御神紋 丸に三つ巴
例祭日 四月二十五日
秋祭  十月 十三日

式内社は延喜式神名帳に記載された神社で当御湯神社は遠く古代からこの地域(巨濃郡大野郷)の中心として鎮座した由緒ある神社とされている。

創建  平安初期の弘仁二年(八一一年)と推定される

御祭神 御井神   大国主命の御子
    大己貴命  大国主命の別名
    八上姫命  御井神の母神
    猿田彦命  天孫降臨の先導役の神

また、境内には拝殿の右に稲荷、左に藤ヶ森の境内社と能登守平教経の矢研石(伝承)がある

稲荷神社  御祭神 宇賀魂神
藤ヶ森神社 御祭神 別雷神

神社に伝わる棟札には、文久元年(1861年)が「創建1050年」の年であったと記されている。

『山本家文書』によると、実際に創建記念祭が執り行われたのは文久3年(1863年)だった。祭りの予算として岩井温泉の宿場から銀400匁を出資し、3昼夜にわたって盛大な祭りが行われたそうだ。芝居の興行もあったという。

江戸時代には伊勢宮と呼んでおり、その頃の祭神は猿田彦命だったそうだ。また、少彦名命を祀っていた時期もあるとも記録されている。鳥取藩主の池田氏によって、御湯神を主神、左右に因幡の大巳貴命と伊勢の猿田彦命とを配することになった、とも伝えられている。

 巨濃郡には、蒲生、大野、宇治、日野、石井(いわい)、高野の6郷があった。このうち、現在の御湯神社がある蒲生川右岸は「大野郷」に相当すると考えられている。

 もともと大野郷には「大野ノ宮」(伊勢宮)があった。『岩美町誌』などでは、これは「大之宮」のことであり、延喜式神名帳に掲載されている巨濃郡の9つの神社のうち「大神社」に相当するとしている。

 大野郷を蒲生川を挟んだ対岸にあたる石井郷では、8世紀の終わり頃か9世紀の初め頃、温泉が発見された。発見したのは、京都の宇治から流れてきた藤原冬久という人物である。冬久は左大臣を務めた藤原冬嗣(775-826)の子孫とされ、京都の宇治出身である。

 冬久はひどい皮膚病(天然痘とも)を患い、人前に出るのがはばかられるような姿になってしまった。世を儚んだ冬久は流浪の旅に出て、山陰道を下ってきた。因幡国に入り石井郷に来たところで天啓があり、温泉を発見したのだという。湯に浸かると皮膚病が治り、冬久は弘仁2年(811年)に御湯神社を創建した。

 そのうち、温泉のある石井郷(=岩井宿)は栄えるようになり、対岸の大野郷は衰微していった。江戸時代中頃の元文年間(1736-1741)には、ついに大野郷は無住となった。それで宝暦2年(1752年)に、大野宮があった場所に御湯神社を移し、両社を合祀してあらためて御湯神社とした。これが下内の御湯神社の濫觴である。

現在の岩井温泉周辺には、「宇治」や「岩井」などの地名はあるが、「大野」という地名はない。『鳥取県の歴史散歩』では、「大野」は「巨濃(おおの)」のことだとして、このあたりをかつての巨濃郡(この-)の中心地だったのではないか、としている。

いずれにせよ「大野」は江戸時代にいちど消滅した集落ということになる。ここから上流側へ1kmほどいくと、長谷(ながたに)地区があり、いまの神社のあたりは「長谷口」と呼ばれているのだが、この長谷口が「大野」だったとする説もある。


国道9号線(山陰道)に面して、参道の入口がある。

神社の手前には、白鳳時代(7世紀後半)に建立されたと推定されている弥勒寺の史跡(岩井廃寺跡)がある。これはかなりの規模を有するものだったとされており、現存するのは三重塔の礎石だけなのだが、これが幅2間(約3.6m)、長さ約2mあり、日本最大級である。かつては「鬼の碗」と称されたという。
のちにそこに岩井小学校が築かれたが、今は廃校になっており、校舎や校庭だけが跡地として面影を伝えている。

小学校の跡地。後者の一部だけが現存する。



こちらが神社へ向かう参道の石段。
石段の先の随神門。
そのさらに向こうに、石段と拝殿が見える。

手水舎に最初の試練が待ち受けていた。

鉢には水がちょっとづつ注がれているのだが、その水の中に、なにかの幼虫だったもの(クワガタの幼虫的なもの)が浮かんでいたり、裏返しにおいてあった柄杓をとると、中に黒い毛虫がびっしりと張り付いていたりと、心を折りにきたのである。

それでも、今回の因幡遠征第一弾の神社ということもあり、何度も洗って使った。

いちおう、口にも含んで濯いだのだが、1週間たっても体調に変化はなかったので、たぶん大丈夫だったのだろう。
その手水舎のとなりには、「松魂慰霊碑」なる石碑がある。

かつて御湯神社の境内は、松、杉、椎、樅の古巨木が生い茂り、郡内一の森と評されていたのという。ところが昭和50年頃にマツクイムシが異常発生し、樹齢400年を超すような大木が次々と蝕まれていった。

それでやむなく切り倒したのだという。

切り倒された大木は、神社庁の許可を得て売却した。その浄財で拝殿の屋根の銅葺きや手水舎の造営が行われたそうだ。

松魂慰霊碑の由来

御湯神社は今を去る千数百年前創建され(平安時代初期)延喜式神名帖にのる由緒ある神社でその境内は松杉椎樅等の老木が鬱蒼と繁茂し森厳幽邃その社叢は郡内随一と云はれ神社の歴史を物語って居る

昭和五十年頃より全国の松林に発生した松喰虫の被害は不幸にして当神社の社叢の松にも及び仝五十四年には樹齢四百年の松の老木も次々とこの被害にかこり遂に伐採するの運命に至ったのである

当神社総代会に於ては之を運営委員会にはかり神社庁の了解の許に被害木を伐採売却して此れが浄財の一部を以って多年の懸案であった手水舎を建て併せて拝殿の屋根を銅板に葺きかへ永久に松の魂を祀る事とし此の慰霊碑を建立した次第である

昭和五十七年四月吉日
御湯神社宮司


訪問したのが梅雨時ということもあって、社殿へ向かう石段は苔がびっしり生えていて美しい。

だがよく滑る。

うっかり滑ると命に関わるのでびびる。

というわけで、拝殿。

左右両翼に石畳が続いている。
それぞれの先には境内末社が置かれている。

無人のように見えるが、きれいで手入れの行き届いたオヤシロだ。

せっかくなので脇へ回って本殿も拝見しておこう。

向かって左側にある境内末社、藤森神社(藤ヶ森神社)。

 
こちらは右側の稲荷神社。
 

それから、これは境内社というわけではないのだけれど、

拝殿の脇にある「能登守平教経卿矢研石」。

平教経は清盛の甥に当たる武将。

源平合戦の平家方のヒーローで、平家随一の弓の名手。木曽義仲との合戦では、これを撃退している。

壇ノ浦の戦いで源義経に一騎討ちを挑むが、義経は八艘飛びで逃げてしまう。敗戦を悟った教経は、敵兵3人を抱え込んだまま海に飛び込み最期を遂げる。
その教経とこの神社との関連性はよくわからない。

まあおそらく「伝承」ということであって、本当にここに来たということではないのだろうと思うが…?

石灯籠には大正11年の銘がありました。



【鳥取県神社庁誌データ】
名称 御湯神社 No

所在 鳥取県岩美郡岩美町岩井141番 TEL
FAX
例祭日 4月25日・10月13日
社格
祭神 大己貴命
八上姫命
御井神
猿田彦命
交通 JR山陰本線「岩美」から約4.5km
社殿
境内     
氏子世帯 崇敬者数 
摂末社
備考 

西暦 元号 和暦 事項 備考
   
811 弘仁 2     藤原冬久が御湯神社を創建。  
 
927 延長 5     『延喜式神名帳』に「御湯神社」が式内小社として採録。  
             
  江戸       伊勢宮と称した。  
1752 宝暦 2     現在地へ遷宮し、大野ノ宮と合祀。  
             
1861 文久  1     棟札による創建1050年の年。   
1863 文久 3     千五十年祭を開催  
1868 明治  1     御湯神社に改称  
1872 明治 5 郷社となる。
1907 明治 40 神饌幣帛料供進神社となる。  
1917 大正 6 白地の白地神社、小山神社、長谷の岡森神社、真名の真名神社を合祀。  
             
1949 昭和 24     白地神社・小山神社・岡森神社を分祀。  
1950 昭和 25     真名神社を分祀。  
             
1963  昭和 38 千百五十年祭  
1982 昭和 57     マツクイムシの被害により境内の松を伐採。木材の売却金で手水舎などを整備する。  
             


【参考資料】
『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』(平凡社、1992)
『日本地名大辞典31 鳥取県』(角川書店、1982)
『鳥取県の歴史散歩』(山川出版社、2012)


【リンク】

*延喜式神社の調査(御湯神社)
*ちょっとお茶する?(御湯神社)

 

参拝日:2015年06月16日
追加日:2017年02月15日