ホテルエレファント/現地版

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ホテルエレファントの持ち主の変遷

1547 wurde Weimar zur Residenz der ernestinischen Fursten bestimmt.

1547 Weimar was determined the residence of the Ernestine princes.

1547年、ワイマールにエルネスティン家の邸宅ができた。


Der heutige Marktplatz der Stadt Weimar, das Zentrum der Stadt, wurde 1554 das erste Malgepflastert, erhielt 1564 seinen Brunnen und bald saumten ihn Renaissancebauten.

Today's market place of the city of Weimar, the center of the city, was in 1554 the first Malgepflastert, received in 1564 its fountains and soon saumten him renaissance.

現在のワイマール中心部にあるマルクト広場は、1554年に石畳が敷かれ、1564年に噴水が整備された。まもなく、広場に面してルネサンス様式の建物が立ち並ぶようになった。


Zu ihnen gehorte auch der Sudseite das Haus Number 19, eines der wenigen Weimarer Patrizierhauser, 1561 erstmals erwahnt in einer Urkunde des Kurfursten Johann Friedrich des Mitteren, Herzog zu Sachsen.

To them belonged also the south side the house Number 19, one of the few Weimar patrician houses, 1561 for the first time mentioned in a document of Elector Johann Friedrich of Mitteren, Duke of Saxony.

それらのうち、19番地の南側は、ワイマール貴族の家が数軒立ち並んでいた。1561年にヨハン・フリードリヒ (ザクセン選帝侯)の邸宅に関する最古の記録がある。その時点で、その建物はかなり古くからあった。

その次の文献記録は1696年1月24日付の領収書である。マリア・クリスティナ・ハルスマン(Maria Christina Hülsmann)なる人物が、ワイマールのマルクト広場に面した彼女の家を売却したというもので、その家はMagister Faselioの家と「月輪熊亭(Zum Schwarzen Baren)」の間にあった。家は家具その他の付属品完備、修繕済みで、生け垣に囲われ、木が植わった裏庭も備え、すぐにでも宿屋を営むことが可能な状態にある。買い主はクリスチャン・アンドレアス・パリティヒ(Christian Andreas Parittig)といい、宮廷献酌官であり宿屋の主人である。買値は1600マイセンギルダーだった。

パリティヒは宿屋の経営は2軒めだった。パリティヒはサクソン・ワイマール公(en:William Ernest, Duke of Saxe-Weimar)の宮廷からさまざまな利権を獲得しており、

1696年2月17日が書面で裏付けられたエレファントホテルの開業日である。開業に際し、公から祝辞が届いている。「この地方を旅する貴人へじゅうぶんな安寧や急速を提供するのがこの王都の懸案でした。ただ広いだけの宿屋なら既にあるけども、商取引や旅で我が町を訪れる人々へ食事を提供し、ひいてはこの町の経済発展を助けるような宿は不足していた。(中略)私は今日ここに、「エレファント」の設立許可を与えます。」

サクソン・ワイマール公はさらにパリティヒとその後継者に与えた。長年にわたり、あらゆり便宜を。広場に宿の看板を出す許可を与え。そしてさらに宿を引き継いだ所有者に。

最初の30年、パリティヒのもとで、エレファントは大いに成功した。パリティヒは徐々に敷地を拡張していった。1725年、彼は「front,rear and side buildings , yard and stables and adjacent garden」(本館と別館、庭、馬屋、隣接する庭)をキッチィンゲン(de:Kitzingen)の商人ゲオルグ・フリードリヒ・クラウゼ(Georg Friedrich Krause)へ売却した。買値は4900帝国ターラー(de:Reichstaler)、それに税が12スピツェ・ターラー(speziestaler)。

この価格にはすべての権利・醸造権、すべての固定資産や構造、および旅館のすべての部屋のテーブル、金属補強材やインレイと木製のベッドと椅子3脚などの特権が含まれていた。

1741年から、宿は駅逓も兼ねるようになった。

クラウゼが死ぬと、ホテルは駅逓の係員だったJohann Michael Braunへリースされた。

1746年には駅長のクラウゼの未亡人がホテルをJohann Friedrich Müntzelnへ売却した。Müntzelnは「黄金の太陽亭(Zur Goldenen Sonne)」の亭主である。一方、Braunはこれに抗議して建物内に居座った。最終的に1748年の暮れにBraunは追い出されたが、すぐに彼は東に隣接する敷地を購入し、「エルブ王子亭(Zum Erbprinzen)」という宿屋を開いた。Braunの激しい対抗意識によってエルブ王子亭は大いに繁盛し、 隣のMüntzelnの宿を上回る成功をおさめた。

1766年、 Müntzelnは経営に失敗し、権利を手放さざるをえなくなった。所有権は2700帝国ターラーで売りに出された。それによると「大部屋14室、小部屋14室、厨房1、ワイン貯蔵庫1、ビール貯蔵庫3、3階建て、別館への渡り廊下2本、本庭1、噴水1、100頭以上ぶんの馬房、四阿3棟つきの庭1。」

権利は Müntzelの未亡人Anna Barbaraを経て、1778年にJohann Christian Funkに渡った。その未亡人Maria Rosina Funkinが1784年まで宿を営んだ。

宿は馬車便の停車駅や荷貨の取次駅としての機能を維持し、それによって宿としての価値を保った。イェーナルドルシュタット(de:Rudolstadt)やバートベルカ(de:Bad Berka)を往来する小売商や行商人、特使が利用した。


1797年から宿の主人はJohann Karl Christoph、「Old Schwanitz」。

詩人ヴィーラントは1800年の書簡(Fräulein von Göchhausenあて)のなかで、最高のアドバイスを受けたと記している。そのアドバイスとは、「ホテルエレファントで、快適なベッド2つがある温かい部屋をとりなさい」というものだったという。


このワイマールの古典主義時代と19世紀のロマン主義時代を通じて、「エレファント」は町で最もパトロンに恵まれた施設の一つだった。 (ドイツ文学#ヴァイマール古典主義(1786年 - 1805年)も参照)


ゲーテはエレファントを常宿にし、エレファンテンケラーに入り浸ってマデイラ・ワインをあおっていた。そこは彼が80歳の誕生日を祝った場所でもある。


ワイマール王家の代表者だけでなく、当時の偉大な詩人・思想家など、多くの人々が当時の街の魅力に惹きつけられて、知識人たちに会うためにワイマールを訪れた。


音楽家のフェリックス・メンデルスゾーンは12歳のときに家庭教師カール・フリードリヒ・ツェルターに連れられてワイマールに滞在。

そのほか、当時の客は以下の通り。


ワイマールのガイドブックには1836年版から「マルクト広場にあるエルブ王子亭(Zum Erbprinzen)やエレファントでの文壇の大御所たちの食事会と、そこで提供される良質な食事と飲み物には必ずや驚きと満足が得られるだろう」と記されている。


Johann Theodor Braunは、1833年から1837年のオーナーである。

1838年から1839年にかけて、その未亡人であるCharlotte Caroline Friderikeが、Johann Karl Gottieb Martinに売却した。

1865年にはCarl Seebergが宿を買収し、1882年にその未亡人Linaが宿を取り仕切るようになった。

テンプレート:ホテルエレファントの持ち主の変遷

その2

1893年4月15日 Paul LeutertがLina Seebergからホテルを買収。

Leutertは老朽化してきた建物の全面改装に踏み切った。

新装のエレファントはまず、ワイマール市民にお披露目された。

エレファントホテルは、ベッドが50、最新式の水と湯の水道を完備し、美食を提供するレストランを備えていた。エレファントホテルは、隣のエルブ王子亭とともに、ワイマールの最高のホテルの一つとして、数々のガイドブックに紹介されるようになった。

1910年から1914年の記録によれば、宿泊費は2.5マルクから4マルクだった。それが6-8マルクにあがり、さらに7-8.5マルクにあがっている。

画家リオネル・ファイニンガー(Lyonel Feininger )は、1906年2月にワイマールへの彼の最初の訪問で2週間エレファントに滞在した・


1919年に国会はワイマールで開催され、ホテルやゲストハウスは、数週間から数ヶ月の滞在客で満室となった。

ヴァルター・グロピウス夫妻によってワイマールにバウハウスの学校ができると、ヨハネス・イッテン(Johannes Itten)やその妻Hildegard、オスカー・シュレンマー(Oskar Schiemmer)、ロタール・シュライアーen:Lothar Schreyerらがホテルの長期滞在客になった。


1932年、トーマス・マンは、ゲーテの死から100周年を記念した祭りのためにワイマール滞在したあと、「もしエルブ王子亭かエレファントに泊まることができていたら、最高だったのになあ」と述べた。彼の「ワイマールのロッテ」のなかで。この本は彼がアメリカに亡命中に出版されたもので、彼はエレファントで起きた文学史上の出来事を本にしたのである。


このノーベル文学賞受賞作家が、もしも1920年代からエレファントの常連客になっている人々を知っていたならば、この作品に登場するエレファントホテルは、もっと違った姿で描かれていたかもしれません。


つまり、アドルフ・ヒトラー。

ナチス党はワイマールをチューリンゲン地方での宣伝の拠点に据えていた。というのも、ミュンヘン一揆で投獄され、さらに政府を批判したヒトラーには各州の政府から演説禁止処分がなされていたのだが、ワイマールだけはその禁止処分を行っていなかったのである。

1926年のナチ党党大会はワイマールで開かれたが、これはたまたまその場所が選ばれたのではなかった。ここが選ばれたのは当時のテューリンゲン州がヒトラーの演説を許していた数少ない州だったためである

ワイマールでのこの出来事の間、ヒトラーの名前は1926年7月3日の宿帳に残されており、「アドルフ・ヒトラー、職業:作家、住所:ミュンヘン」と記されている。ただしこの宿帳は現在は非公開になっている。ヒトラーはこの日、エレファントで夜明かしをした。

ヒトラーは、過去にエレファントホテルの宿泊客に名を連ねた無数の有名人たちの中に、自分の名前も加えようと、意図的にエレファントホテルに宿泊したのだった。

ヒトラーが何回ワイマールに宿泊したか、その正確な日数を報じることは禁じられていたので、正確にはわからない。が、少なくとも35回、ワイマールに泊まっている。これは他の町に比べて明らかに多い数で、そのうちかなりの数がエレファントでの宿泊だった。ワイマールでの宿泊が多いので、ヒトラーはワイマール市内に別宅を構えることを考えたという。

ホテルの主人のLeutertは、徐々に国家社会主義運動に傾倒していき、ヒトラーの便宜を図るようになっていった。ヒトラーが菜食主義者だと知ると、「ワイマール風パンスープ」を出した。やがて、ホテルとレストランは「ユダヤ人お断り」になった。1935年にLeutertが死んだ時、ヒトラーは個人的に遺族にあてて弔電を打った。 ヒトラーが居住していた時はいつでも1933年までのホテルでは、党本部と地域の拠点として役立ちました。


国立劇場の支配人だったde:Hans Severus Zieglerは、ヒトラーのお気に入りの場所を次のように書き残している。

  • 上層階の客室の隅に置かれたテーブル
  • ロビーの右手にある小さな会議室と書きものスペース
  • 階段の右側にある2台の電話のブース
  • 最初の頃に総統がよく利用した2階の小さな客室


ヒトラーとチューリンゲン大管区指導者フリッツ・ザウケル(Fritz Sauckel)と徒党のリーダーたち、その他のゲストたちは、彼らの「円卓」会議をホテルの円卓で行った。この時期は、ワイマールにとっては古い時代に逆戻りしたみたいだった。ドイツ人のなかには、ゲーテがエレファントを隠れ家にしたのと同じように、ヒトラーがエレファントを隠れ家にしているのだと譬えるものもいた。


ホテルは、チューリンゲン地方でのナチス党の躍進につよく結びついていたので、ホテルは「ナチス党の旧本部(Party's traditional central office)」とさえ呼ばれるようになった。


1933年に、ホテルの所有権が社団法人ワイマール・エレファント会(Verein Elephant Weimar e.V.)に変わったあとも、それまでのナチス党との「提携」関係を維持するように、強い圧力があったという。

ほどなくして、Sauckelはホテルを取り壊して建て直したいと思うようになった。

ヒトラーはその計画を承認し、党も基金を拠出した。それで、400年の歴史をもつ建物は急遽、全面修復されることになった。


ホテルと東隣の2棟の建物は、1937年7月に、鉄球クレーンの餌食になった。解体作業は8月15日に完了した。

その3

生まれ変わったホテルは、ミュンヘンの建築家Hermann Gieslerによって図面がひかれた。その基本設計にあたっては、ヒトラーからも直接注文があってそれが反映されている。エレファントは「the most modern hotel in Europe and a pioneer in trems of architecture and furnishings」(欧州で最新のホテルで、建築の面でも内装の面でも先進的である)った。ヒトラーは「modest」「ささやかな」希望として、エレファントの裏庭に面してヒトラー専用の建物を所望したという。

ワイマールの古典的な町並みの中心部に建てられた新しい建物は、総統のために建てられたのだった。建築の観点からはワイマールの不可侵の中心地はこうして第三帝国の象徴となった。ここにこの建物ができるということは、ワイマールが持っている歴史的な重みを利用するものだった。ふたたび、ワイマールにある歴史的建造物とおなじように、その時代を表す重要建築物となった。当時の権威は、将来、それが振り返られたときに成功だったと思われるだろう、と考えた。

エントラスの上にあった、ホテルのエンブレムである象の像は、帝国の鷲に置き換えられ、ルネサンス風のアーチ上の覆いは、高くアングルの着いたdoorwayになり、当時のナチス党が作った建物の典型なのだが、バルコニーがその直上に設けられた。この計画では庭やカンファレンスルームに地下に、ホール、レストラン室が新設され、地下の駐車場と自動車用昇降機、給油設備、洗車設備、修理工場、ボーリング場、1Fにはレストラン、バー、ワイマールの芸術家用の部屋が整備された。

101室(ダブル36、シングル65)、全室にお湯と水の水道完備、さらに46室にはバスタブまで備えていた。全室には、戸棚・電話・ラジオがセットになったボードが据え付けられた。全ての階の南西のウィングに、スイートが2部屋(それぞれ、2室とバスルームつき)。バス・シャワー付きの客室も惜しみなくつくられたが、もっと簡素な部屋も数多く作られた。

最新式の駐車場を建設するため、旧エレファントと隣接する2つの建物に加えて、隣のホテルエルブプリンツ(Hotel Erbprinz of Wolfgang Vetter)も、かなりの部分を放棄することを余儀なくされた。

Sauckel は 1937年11月3日に礎石をいれ、上棟式は1938年4月20日、ホテルの開業は1938年11月5日だった。

ホテルの建て直しの件は、建築界でも注目を集め、近傍ではこれを真似する建物も出た。

Gieslerは、従前の建物よりも広く、1階層高い建物にすることに成功したが、最上階はそのひとつ下のフロアよりも狭かった。ファサードの特徴だった、マルクト広場に面した入り口は、少し後ろ庭側に後退した。

1938年の新装オープンセレモニーは、ナチ党の面々も顔を揃え、ナチスの会合のようだった。

その日、ヒトラーも出席することで、このホテルがヒトラーと深いつながりがあることがアピールされ、また、ヒトラーがワイマールやチューリンゲンに深いつながりがあると宣伝された。


新しいホテルの所有者は、a National Socialist foundation named after the Gauleiter and eich Governor Fritz Sauckel(大管区指導者であり、テューリンゲン州国家総督(de:Reichsstatthalter)であるフリッツ・ザウケルにちなんで名付けられた国家社会主義基金)で、その基金の一部はvolutary contributions from the Thuringian business community.(チューリンゲン商工会からの寄付金・義援金)で賄われていた。

nationalsozialistischen Stiftung, die den Namen des Gauleiters und Reichsstatthaiters Fritz Sauckel

freiwilligen Beitragen der thuringischen Wirtschaft


再オープンのニュースは、チューリンゲンの「ガウの日」のお祝いの日にあたり、ワイマール中に告知された。「フェルキッシャー・ベオバハター」紙は特別版を出した。その3日後、ヒトラーはミュンヘンへ向かってワイマールを離れた。その日の夜が、水晶の夜である。

そのあとの、ホテルの様子については記録がほとんど現存しない。

1943/44年に、空襲に備えて、ホテルの地下階からマルクト広場に通じる避難トンネルが掘られた。

1945年4月15日の宿帳には、アメリカ軍の士官モーリス・ド・ローチ(Maurice de Loach)なる人物の名前が残されている。それが、1938年以降、通常の宿帳に残る最後の宿泊者である。

120から150の連合軍士官が、1945年の春までにここを利用した。

ホテル内には、アメリカ軍によって食料の補給廠が設けられた。

アメリカ軍が離れると、ソビエト軍がやってきた。当時のホテルの支配人、Hadeckeは、Erich Bannierに置き換えられた。Bannierは国際経験のあるホテルマンである。しかし彼もすぐに80名のスタッフを指揮することを辞めさせられた。ロシア人はほぼ全室を占領した。すぐに、ソビエト軍の陸軍のチューリンゲンにおけるhead であるIvan Sosonovich Kolesnitchenko将軍がはいり、彼がこの地方の総督になった。

1946年1月1日から、Rudolf Paulがラジオの送信機を設置した。これは、1945年10月から行われていたこの地方(Gau)でのラジオ放送を改良したものだった。「ベルリン放送ワイマール支局」の最初の放送は1945年12月1日から行われた。


1945年10月には、エレファンテンケラーが一般向けに再開された。1946年11月21日には、チューリンゲン地方議会がホテルの会合室で開催された。1946年9月、ホテルのマネージャーのHerr Randigは一般市民のためにホテルのメインホールを融通してやった。(アフタヌーンティーと、夜のコンサートのために)


ただ、この時点では、ホテルの正当な所有者が誰なのか、明確な根拠がはっきりしなくなっていた。ナチスの根城になった頃から、所有権はチューリンゲンの領主のものになっているはずだった。が、1947年7月1日、ロシア人がホテルを占拠し、一般人立入禁止と宣言してしまった。それから1951年9月まで、ホテルはロシア人の客しか受けなくなった。



ホテルは、新たに設立された教師養成期間( Instituts fur Lehrerbildung 、(英訳)Teacher Training Institute)の建物として利用され、常時300名の教師の玉子が使用するようになった。(彼らはロシア語を勉強した)

以前のホテルのマネージャーをしていて、その後エアフルト(東ドイツ時代のチューリンゲン県の県都)のホテルの監督をしたオスカー・ジーベルト(Oskar Siebert)が、ホテルを面倒見ることになった。彼はホテルに必要なものをリストアップし、バーの再開に必要な飲み物をみつくろった。銀の食器やテーブルクロス、ナプキン、は確保できたが、ベッド用のリネンは却下されてしまった。(教師養成所には不要ということで)。シーツと毛布は生徒たちに与えられた。その生徒たちというのは、皆ほとんどきのみきのままで、自分のものを何も持っていなかったのだから。

有料の一般客を受けなくなってから約10年後、ホテルが本来の機能を取り戻すのに、トーマス・マンほと貢献した人物はいない。トーマス・マンは、シラー賞の受賞(シラー没後150年記念)にあたり、エレファントホテルの部屋を取ろうとした。

トーマス・マンの友人で、詩人でありGDRの文部大臣でもあったJohannes R Becherは、トーマス・マンの希望は叶うだろうと伝えた。1955年5月16日、ワイマールのマルクト広場に面した古宿のドアが再開され、世界中の旅人を受け入れることを再開した。

新しい宿帳の最初に記された名前は、トーマス・マンのほか、Anna Seghers、Arnold Zweig,Becher,Hans Mayer,Erwin Strittmatterである。1950年代と1960年代は、鉄のカーテンの両側から、作家たちがワイマールのエレファントホテルを目指してやってきた。そこはPEN Clubとなった。そして、やってきたのは文筆家だけではない。ワルシャワ条約機構の上層部は、「October Storm」と呼ばれるワルシャワ条約機構の大演習のときに(1965年)、ホテルにやってきて、その料理に舌鼓を打ち、素晴らしいサービスを満喫した。

1966年12月20日、HO(Handels Organisation、業界団体) ホテルエレファントは、エアフルト県の最初のインターホテルに指定された。インターホテルグループのなかでは15番目。社会主義じゃない国からの旅行客もバンバン受け入れる。

ベッド数は170に増えた。シングルルームは1泊12マルクから80マルク。全室に電話、テレビ、ラヂオを備え、多くの部屋が風呂かシャワー付。ホールはコンサートやダンス会が開かれた。レストランのメニューは色々な言語で用意されている。エレファンテンケラーではチューリンゲン料理を出す。

さまざまな文学で言及されたバーや応接室、暖炉付きの「バーチルーム(樺の間)」、暖房付きの車庫、天気が良い日には庭やテラス。

従業員はスイス製の皿洗い機の導入のお陰で楽になった。ホテルにはサッカーチムがあり、ワイマールのさまざまなチームと対戦したばかりでなく、カールツァイスイエナ(Carl Zeiss Jena)のようなプロリーグのチームとも対戦した。