ウィリアム1世 (イングランド王)

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ウィリアム1世(William I 、1027年 - 1087年9月9日)は、イングランド(在位: 1066年 - 1087年)。通称は征服王 (William the Conqueror) あるいは庶子王 (William the Bastard) 。ノルマンディー(ギヨーム2世、在位: 1035年 - 1087年)でもあった。イングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、ノルマン朝を開いて現在のイギリス王室の開祖となった。

ウィリアムは英語式であるが、フランス出身であり、彼自身も周囲の人もフランス語を使っていたため、むしろフランス語式にギヨーム (Guillaume) と呼ぶ方がふさわしいという見解もある。彼の墓にはラテン語風に GUILLELMUS と綴られている(右下の墓標の画像)。

  • 本項では、ノルマンディー公としての文脈では「ギョーム2世(ウィリアム1世)」、イングランド王としての文脈では「ウィリアム1世(ギョーム2世)」と表記する。

呼称

この人物の名前は、出自であるフランスのノルマンディーでのフランス風の表記ではギョームフランス語Guillaume)となり、征服したイギリス風の表記ではウィリアム英語William)となる。このほかラテン語ではギレルムス(GUILLELMUS)、ドイツ風ではヴィルヘルム(ドイツ語Wilhelm)となる[1]

この名前のルーツはゲルマン系のものである。北欧神話では「helm」は「王冠」や「王」、あるいは「神」を表す語として用いられていて、これが転じて「兜」、さらには「守護」を意味するものとなったと考えられている。これに「意志」を意味する「wil-」が前置されて、「意志の強い守護者」を意味する「ヴィルヘルム」(古高ドイツ語Willahelmドイツ語Wilhelm)となった。「wil-」からは「富」を表す語「古英語willa」(「中英語wealthe」・「英語wealth」)もうまれており、「富を守る兜」「富を護る王」というニュアンスも持っていたと考えられている[1]

ゲルマン語では「W-」と綴られていたが、彼らがケルト人のいるガリア(フランス)へ侵入すると、ケルト語の音変化を受けて「W-」は「Gu-」音となった。この「G」は当初は無声喉頭蓋摩擦音だったが、時代の経過とともに有声軟口蓋閉鎖音テンプレート:IPAと発音されるようになっていき、さらに11世紀ごろにはテンプレート:IPAと発音されるようになった。これが「ギョーム」である[1]

フランスにおける「ギョーム」

フランス史では、シャルルマーニュ(カール大帝)の重臣を先祖とする「ギレム家フランス語Guilhemide)」という貴族がいる。この家名をゲルマン風に表記すると「ヴィルヘルム家(フランス語Wilhelmiden)」となる。一族からはギョームfrançais版 ( 755? - 812 ) という人物が、シャルルマーニュ(カール大帝)の三男アキテーヌ王ルイの後見人として登場する。ギョームはルイの部下としてイベリア半島サラセン人から奪還する戦い(レコンキスタ)に従軍し、特にバルセロナ奪還で武勲をあげ、フランスの英雄となった。ルイがフランク王敬虔王ルイ1世として即位すると、ギレム家はフランス王家の最も有力な貴族となった。「ギレム家(Guilhemide)」の家名はこのギョームの名からとられたものである[1]

9世紀にはギレム家の当主ギヨーム1世 ( 875 - 918 ) がアキテーヌ公に封じられた。以来、ギレム家では代々の長男に「ギョーム」の名が授けられるようになった。このギョーム1世はさかんに修道院を建設したことで知られ、ヨーロッパにキリスト教を広めた人物として列聖されるまでになった。こうしたことから当時のフランスでは「ギョーム」という名前が流行したという。ノルマンディ公家のギョーム(ギョーム1世 ( ? - 942) 、ギョーム2世(ウィリアム1世))の名前もこの流行にあやかったものだろうと考えられている[1]

出自

ノルマンディー公の家柄

8世紀の末ごろから、ノルウェーデンマークヴァイキングがフランスの沿岸部を襲うようになった。9世紀になると略奪は激化した。シャルルマーニュ(カール大帝、在位:768年-814年)や敬虔王ルイ1世(在位:814年-840年)といったフランクの王たちは部下を率いてヴァイキングと戦ったが、太刀打ちできなかった[2]

9世紀の終わりごろからは、ヴァイキングたちは略奪を働くだけでなく、フランスの沿岸部の土地を奪って土着するようになった。そのなかでもヴァイキングの一団を率いたロロ西フランク王国シャルル3世(在位:893年-922年)と取引をして、911年にフランス北西部の沿岸地方を割譲させた(サン=クレール=シュール=エプト条約)。この地域は「北から来た人々の土地」を意味する「ノルマンディー」地方と呼ばれるようになった[2]

この取引では、ロロにはノルマンディー地方が与えられる見返りに、フランス王の「臣下」ノルマンディー公となり[注 1]、更なるヴァイキングの侵入からフランスを守護するということになった。彼の領地はノルマンディー公国となり、彼らはノルマン人と呼ばれるようになった。あわせてロロはフランス文化とキリスト教を受け入れることになり、名をフランス風の「ロベール[注 2]」に改めるとともに、ノルマン人はキリスト教化されていった。これ以来、ロロの子孫はノルマンディー公家としてノルマンディー地方を支配した。925年に、ロロ(ロベール)の息子が2代目ノルマンディー公となった。この人物はフランクの英雄の名をもらってギヨーム1世と名乗った。

父のロベール1世

ギョーム2世(ウィリアム1世)の父はロベール1世という。




血筋

ウィリアム1世(ギヨーム2世)(1027 - 1087)の家柄
(父)
ノルマンディー公 ( 1027 - 1035 )
ロベール1世
(1000 - 1035)ノルマンディー家
(祖父)ノルマンディー公 ( 996 - 1026 )
    リシャール2世(963 - 1026)
 ノルマンディー公 ( 942 - 996 )
 リシャール1世(933 - 996)
 
 グンノーラEnglish版(936頃? - 1031)
(祖母)ブルターニュ公ジョフロワ1世の姉[† 1]
    ユーディト(982 - 1017)
 ブルターニュ公 ( 990 - 992 )
 コナン1世(? - 992)
 アンジュー伯の娘
 エルマンガルド(Ermengarde(956 - 1024)
(母)
アルレット[† 2]
(1003? - 1050?)
(祖父)
    フルベルfrançais版[† 3]( - )
 
 不詳( - )
 
 不詳( - )
(祖母)
    不詳( - )
 
 ( - )
 
 ( - )
(兄弟姉妹)
異父弟:オドン(Odonケント伯English版(1067-1088)・バイユー司教(Évêque de Bayeux(1049-1097)))
異父弟:ロベール(Robertコーンウォール伯English版(1072-1095))
異母妹(?[† 4]):アデル(Adelaide
(その他の主な血縁者)
伯父:リシャール3世 ( ノルマンディー公 ( 1026 - 1027 ) )
  1. リシャール2世とユーディトが結婚した1000年の時点では、ユーディトの父でブルターニュ公だったコナン1世は既に没しており、ユーディトの実弟ジョフロワ1世(fr:Geoffroi Ier de Bretagne)がブルターニュ公を継いでいた。
  2. 母の名については複数の表記がある。Arlette(アルレット、アーレッテ)やHerleve(エルエーヴ)など。
  3. アルレットの出自についての信頼できる確かな記録はない。一般的な伝承では、父はノルマンディー公領内のファレーズ村の皮なめし職人だったという。フルベルの身分については様々な異伝がある。
  4. アデルの母がウィリアム1世と同じくアルレットだったかどうかについては不確かである。

脚注

注釈

  1. このときにロロはシャルル3世の娘(ないし妹)を嫁に迎えたとされている[2]。ただし、そうした娘・妹の実在性は疑問視されており、伝承のうえだけの史実に存在しない人物とも考えられている。いずれにせよ、シャルル3世の側ではこの取引でロロを「臣下」として従えることになり、ヴァイキングの脅威はなくなると考えていた。しかしノルマン人たちの側では、自分たちはフランス王と対等の立場だとみなしていた。
  2. ノルマンディー公の歴代当主については、初代のロロを「ロベール1世」として数える場合と、その子孫で1028年にノルマンディー公となったロベール(ウィリアム1世の父)を「ロベール1世」として数える場合がある。どちらに拠るかによって代数が1ずれる。

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 『ヨーロッパ人名語源事典』p238-240「征服王ウィリアムの栄光」
  2. 2.0 2.1 2.2 『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』p92-97「霧深い北海から」
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書誌情報

世界史・欧州通史


その他

関連図書

外部リンク

関連項目