ジェングラン=ベズレの戦い

提供: Test Wiki
2018年4月27日 (金) 17:19時点におけるJulyfestival (トーク | 投稿記録)による版 (戦地をめぐる諸説)

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内検索

fr:Bataille de Jengland(oldid=143643976)より転記

ジェングラン=ベズレの戦い(ジェングランの戦い、ブルトン語 Emgann Yenglennフランス語Bataille de Jengland英語Battle of Jengland、851年8月22日[1])は、フランスブルターニュ地方で起きた戦いである。ブルトン人の首長エリスポエ西フランク王国シャルル2世を破ったもので、戦後結ばれた協定によりブルターニュ独立が公認され、エリスポエには王号(ブルターニュ王)が与えられたとされている。

前史

アルモリカ半島ブルターニュ地方)では、3世紀頃からブルトン人が侵入して定住するようになり、やがて「王」が統べるいくつかの勢力にまとまっていった。フランク王国の歴代の王たちは何度もブルトン人の征服を試みたが、うまくはいかなかった。9世紀前半、ブルトン人の首長の一人ノミノエは、カール大帝に謁見し、臣従の形をとって「ブルトン人のリーダー」と認められるようになった。ノミノエは、カール大帝の後を嗣いだルートヴィヒ1世に対しても一応恭順していたが、ルートヴィッヒ1世が死んで帝国の分割を巡る争いが始まると、これに乗じてブルトン人の支配地域の拡大を目指すようになった。

帝国を分割して西フランク王国の王となったシャルル2世は、ノミノエの討伐に乗り出したが、845年のバロンの戦いでブルトン人に敗れた。846年にシャルル2世とノミノエは和約を結び、これによりノミノエは事実上ブルトン人の独立を果たした。

戦いに至るまで

846年に結ばれた平和はしばらく保たれた。しかし849年にブルターニュ地方の北部で紛争が起き、再びブルトン人と西フランク王国との争いが始まった。ノミノエはブルトン人の支配地にある教会からフランク人司教を追放し、ブルトン人にすげ替えた。ノミノエは再びブルトン人の領地を拡げるためにフランク人の土地を襲うようになり、アンジュー地方メーヌ地方も脅かすようになった。

ところが851年、ブルトン人がシャルトルを目指して進軍中、ヴァンドームまで来たところで、ノミノエが突然、馬上で死んでしまった。以後はノミノエの子エリスポエが父にかわって指揮を執り、ナント伯位を剥奪されてシャルル2世に恨みをもつフランク人ランベール2世の軍勢とともに、戦いを続けた。

シャルル2世の側は、ブルトン人平定のための軍を招集したが、思うように兵が集まらなかった。そこでシャルル2世は東フランク王国を治める兄のルートヴィヒ2世に援軍を請い、サクソン人の傭兵を迎えることにした。この援軍は851年8月に到着した。

このあと、851年8月22日にジェングラン=ベズレの戦いが起きた。

戦い

戦地をめぐる諸説

ジェングラン=ベズレの戦いがどこで行われたかについては諸説があり、定まらない。主要な候補地として、ゲムネ=パンフォロワール=アトランティック県)説と、グラン=フジュレイル=エ=ヴィレーヌ県)説、ジュヴァーデイユメーヌ=エ=ロワール県)説がある。

歴史家Pierre Riché(1921年 - )は、戦闘が起きた場所は、スグレから約20キロメートル東、アンジェから20キロメートル北にあるジュヴァーデイユサルト川のあたりだったとしている[2]

2015年の『11 Batailles qui ont fait la Bretagne』によると、851年8月、シャルル2世は東フランクからの援軍を加えてアンジューを発ち、エリスポエ軍を目指してブルターニュ領となっているレンヌ地方に入った。その後、コル付近からローマ時代に造られた街道に沿ってナントをめざして南下し、ヴィレーヌ川に架かるベズレの橋(あるいはグラン=フジュレ)で両軍勢が邂逅したのだという[3].。

2003年の『Warfare and Society in the Barbarian West』ではこれとは逆に、シャルル2世軍はナントからコルを目指して北上する途上で合戦になったとしている[4]

戦いの経過

Warfare and Society in the Barbarian West』によれば、シャルル2世は、前方にサクソン傭兵部隊を配置し、後方にフランク人の重装兵を置いていたという。ブルトン人は強靭で機動力のある騎兵部隊からなっており、その突撃をサクソン人部隊が食い止めるという想定だった[5]

ところが会戦まもなく、投槍兵の攻撃を受けてサクソン人が後退してしまい、重装備のフランク人部隊が前面に取り残されてしまった。このためフランク人は奇襲を受けた格好になった。続く白兵戦では、距離をとって戦うブルトン人の前に重装のフランク人は苦戦した。ブルトン人は投槍を効果的に使い、猛烈に突撃してきたかと思うと突然前触れもなく撤収したりしつつ、フランク人をおびき寄せては少人数のグループへと孤立させて包囲した。

こうした戦いが2日間続き、フランク人は人馬ともに潰滅的な被害を出した。一方のブルトン人側の被害は数人だった。王国軍が全滅しつつあるのをみてとったシャルル2世は、夜闇に乗じて立ち去った。夜が明けて、王の姿がいなくなっていることに気づいたフランク人は恐慌状態に陥った。ブルトン人はそのフランク人の野営地を急襲し、武器を取り上げ戦利品を奪い、逃げようとするものを殺戮したという[6]

戦後

この戦いの後、エリスポエとシャルル2世はアンジェで会談した。詳しい内容は伝わっていないが、このときの和約で、ナント地方とレンヌ地方は正式にブルトン人へ割譲された。また、ロワール川の南のレッツ地方もポワトゥー伯領からブルトン人領へ移譲されることになった。

またこのときに、シャルル2世からエリスポエへ、「王としての証」が贈呈された。文書として「ブルターニュ王」「ブルターニュ王国」を正式に認めたというものはみつかっていないが、一般的にはこの王章の贈呈をもってシャルル2世がエリスポエをブルターニュ王国の王として公認したとみなされている。

年代については不明確だが、このときか、もしくは856年かのいずれかに、エリスポエの娘と、シャルル2世の息子ルイ(後の西フランク王ルイ2世)との縁談がまとまった。しかしこれは実現しなかった。


脚注

注釈

出典

  1. Date exacte donnée par le Chronicon Aquitanicum, ad a. 851 (Monum. Germ. Hist., t. II, テンプレート:P.253) : « Karolus quarta vice Brittannias repetens cum Erispoio filio Nominoi certamen iniit 11. Kalendas Septembris (= 22 août) partemque exercitus cum Viviano duce amisit ».
  2. Pierre Riché, Les Carolingiens, une famille qui fit l'Europe, Paris, Hachette, 1983 (réédition : Hachette, coll. « Pluriel », 1997, ISBN 2012788513, p218
  3. Yves Coativy « La Bataille de Ballon  » dans 11 Batailles qui ont fait la Bretagne ouvrage collectif sous la direction de Dominique Le Page Skol Vreizh Morailx 2015, ISBN 9782367580432, p36
  4. Guy Halsall, Warfare and Society in the Barbarian West, Routledge, 2003. P. 101.
  5. Guy Halsall, Warfare and Society in the Barbarian West, Routledge, 2003. P. 101.
  6. Smith, Julia M. H. Province and Empire: Brittany and the Carolingians. Cambridge University Press: 1992

書誌情報

関連図書

外部リンク

関連項目