W 狼とりんごの干物


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じきに遅れてきた「日本海」がのんびり到着すると、
津軽三味線が鳴り響いて五能線の出発じゃ。



向かう先はもちろん、ご存じ、りんご大平原である。



見渡す限りの雪のリンゴ畑に遠くには岩木山。
思っていたとおりの光景にわっちぁ大満足じゃ!
ここまで12時間以上かけてやってきた甲斐があったというものじゃ!


わっちは鳥取で梨の蜂蜜漬けが大好きになったからの、
梨については品種やら歴史やら栽培方法やら害病やらずいぶん勉強したのじゃが。。。

リンゴについてはよくわからん。

知っているのはの、馬の歴史に絡む部分だけじゃ。

明治時代になって、黒田清隆が日本の農業を近代化するためにアメリカを師としたのは知っておろう、
ほれ、あのクラーク博士なんかがそのとき招かれた代表的な人物じゃ。
「少年よ、野心的であれ」との名言を残した人物じゃな。

ま、もともとクラークはアメリカ大統領の肝いりで送り込まれた人物じゃったがの、
どちらかというと現場の実務を取り仕切るためにやってきたのがエドウィン・ダンじゃ。
道民なら誰でも名前を知っている人物じゃの。



もともとダンは、日本に来るつもりはなかったのじゃ。
アメリカで農家の次男坊だったダンは、
日本に買い付けられてはるばる地球の裏側まで運ばれる種馬や種牛、それから各種西洋果樹の苗木を、
アメリカの港まで運ぶはずじゃった。

ところが、狭い貨車に押し詰められた馬や牛が暴れての、
それをなだめられるのはダンだけじゃった。
それで、港に着いたものの、これから長い船旅となると、とても素人に運べるものではない、
というわけで、ダンがはるばる日本までついて行くことになった、というわけじゃ。

そんな偶然で日本にやってきたダンじゃったがの、
日本の役人のやり方があまりにもダメダメだったのでつい口を出してしまった。

日本の官僚は、西洋から取り寄せた最良の種馬・種牛や果樹を、
明治天皇陛下のお膝元、東京で育てようとしたのじゃ。
青山やら駒場の園芸場、つまり今の東大農学部じゃ。
要するに最新鋭の科学の成果を天皇陛下にお披露目したかったのじゃな。

じゃがの、牛や馬、それから冷涼な気候を好む作物が、
じめじめどんよりした狭苦しい東京なんぞでまともに育たなかった。
ダンは、「たわけ!リンゴを育てるならもっと広くて涼しいところじゃ!牛や馬ももっと広いところでなければ育つわけがなかろう!」

そう言って、東北や北海道に進出して、今の姿があるのじゃ。
今の日本で食べられる果物の苗木のほとんどは、このときダンが運んできた苗木やその子孫じゃぞ。
感謝しんす。




それにしても、早春というにはまだちょっと早い景色じゃの。

それから、さすがに内地最北の地じゃ。それなりに寒い。


仕事から汽車に飛び乗ったせいで、ロクな着替えもない。
東京の生暖かい気候のせいで、コートは会社に忘れてきたしの。

着ているのは上野駅の構内にあったユニクロで買った長袖Tシャツと薄手のパーカだけじゃ。
ま、全裸よりはましじゃがの。

東京の人が「冬」と呼んでいる11月から3月にかけての生ぬるい季節は、
実際には「小春日和」と呼ぶのが正しいわけじゃが、
まあ東京では本物の「冬」を味わえないわけじゃから、
あの暖かいぽかぽかした日々を「冬」と呼んで気分だけでも味わおうというのは止むかたなし、と行ったところじゃの。

じゃが津軽では、確かに本物の「冬」があるようじゃ。
3月半ばのこの時期、Tシャツにパーカを羽織ると、暑すぎず寒すぎず、澄んだ冷気が心地よい。
YAHOOによると、この時期、津軽の気温は、最高5度前後、最低でマイナス2度ぐらいじゃそうじゃから、
外に出て歩き回るには、汗をかかずにすむ理想的な気温じゃの。



外の景色は変わりんせん。

そうこうしているうちに、五能線沿線の屈指の大都市、五所川原に到着じゃ。



腹が減った!朝飯がまだじゃったからの!
りんごの蜂蜜漬けじゃ!!

五所川原駅じゃ!



駅前じゃ!!

なんにもありんせん!


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