XII 狼と荒れ狂う海


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朝じゃ。

宿はこれだけ海と離れておるが、一晩中波の音がゴウゴウと鳴り響いておった。

瀬戸内の宿は水まで数メートルでもチャプリとも音を立てんじゃったが、
さすがに北の日本海は激しいのぅ。



3月半ばというのに、外へ出ると吹雪じゃった

しかたがないので、10メートル先ぐらいまでしか先が見えないような吹雪の中を露天風呂で楽しんでやった。

宿のあるじの話じゃと、この時期にこれだけの吹雪は珍しいそうじゃ。
いかな北日本海と言えど、海は海じゃ。基本は暖かい。
この辺りはもともと、雪の少ない地域じゃそうじゃ。
海から立ち上る暖気と、塩の影響で雪が空で融けてしまいんす。

それだけに季節外れの雪、というわけじゃ。
どうやら、今日は東北地方全体が、季節外れの大雪に見舞われているようじゃ。

なぜじゃ?

わっちがそう望んだからじゃ。

わっちが晴れた海をみたいと望めば晴れるし、台風よ来るなと言えば来ない。
このぶんじゃ、憂鬱な気分にでもなった日にゃ、なんとか空間が生まれそうじゃの。



昨日は、夕方の4時前に宿について、そのままのんびりしよったからの。

今日は朝の7時からお出かけ観光じゃ!
なにしろ、今日の夜には帰らんとならんからの。
数時間に1本しかない汽車を考えると、朝からせっせと動かんといかん。

朝飯に出た、醤油味付きの納豆のパックが印象的じゃった。
焼き魚は美味かったがの。

まずはお出かけ前のストレッチからじゃな

わっち!にぃ!さん!しぃ!ご!


最初の行き先は円覚寺じゃ。



http://engakuji.jp/

「円覚寺」といえば、日本史で覚えたであろう。
鎌倉時代の仏教で有名なアレじゃ。北鎌倉にある、臨済宗の総本山じゃ。

じゃがの、この深浦の円覚寺は、この鎌倉の円覚寺とは関係ない。
むしろ、深浦の円覚寺のほうが古いのじゃ。


深浦に来ると円覚寺がおすすめ観光コースとなっておるようじゃがの、
最近は年寄りも信仰心などもっておらぬからの、
ものの数分で飽きて帰るような連中ばかりじゃ。
そりゃ教会も衰えよる。

しかしわっちぁ、こういう古い建物や寺院にはめっぽう興味がありんす。
朝8時の車でやってきた観光客はわっち一人だけじゃったから、
出迎えにきた住職の嫁↓とマンツーマン接客じゃ。

「え?お客さん、お一人で?」


嫁は、ずいぶんわっちの帰りの時間を気にしておったがの、
普通は15分ぐらいでささっと帰るようじゃが、
わっちぁここに3時間いてもよい。

フルコースで接客受けて、おまけにこっちから質問する有様じゃ。
住職の嫁も、まともな客が来て満足そうじゃった。



これが本堂じゃ。
ま、この写真は夏じゃが、わっちが訪れた時期は冬ごもりの最中だったからの。
実際には屋根から下は、冬ごもりの板にぐるりと覆われておった。
写真が消えてしまったのは残念じゃがの。

中に入ると、いきなり住職の嫁から毛糸の靴下を渡される。

「寒い時期に板張りの廊下を歩くのは辛いでしょう?」

田舎はいいのう。

靴下を掃き終えると、嫁の説明が始まる。

この寺の本尊は、
聖徳太子が彫った仏像

聖徳太子が自分で彫ったじゃと?

坂上田村麻呂が持ってきたそうじゃ。
また大物じゃの。

この寺はそのときから始まったわけで、
西暦807年創建。
鎌倉の円覚寺の建立に先立つこと、480年である。


聖徳太子と坂上田村麻呂とはいきなり大物が出たと思うじゃろ?
高さが3メートル
もある。

写真は拾いものじゃ。
わっちぁ、寺の中の仏像にカメラを向けるような罰当たりなことはせん。

というか、この本尊、33年に一度しか公開せんらしいからの、
次の公開は平成三十何年とのことじゃ。

ということで、この上の写真も、本尊のレプリカだそうじゃ。


さて、その後、わっちらは奥へと案内されるのだが、
寺の奥は「宝物庫」になっておる。

寺に宝物庫とは珍しいの。
神社にならよくあるがの。


「この宝物庫には…
 代々このお寺の住職が守ってきたものが、たくさん納められているのですよ。」



お寺に、お宝じゃと?


「うふふ、変わっているでしょう?」




「このお寺には、昔から『檀家さん』がいません。
 今もなんですよ。
 そうじゃあ、どうして成り立っているかというと、
 昔から、行商人たちの寄進が絶えないからなんです。」



ふむ。
この港が、北へ交易に出る商人たちにとって、
内地最後の港、ということは、出発するときは、航海の無事を祈って、
そして戻ってきたときは、無事に帰れたことを感謝して、
このお寺に寄進をしたというわけじゃな。



「はい。
 昔から、この深浦は、遠い北の海まで行商にでかける商人たちであふれかえっていました。
 彼らは、航海から無事に帰るたびに、貴重な品をこのお寺に奉納して行ったのです。
 ほら、この蝦夷錦を見てください。」






蝦夷…錦、じゃと?これは…


ぬしや、人をバカにするのもたいがいにせい!
アイヌ人が錦など織るわけなかろう!


「うふふ、ですよね
 これ、本当は中国の北の方、清の時代のものなんですよ。」


清?
むぅ、そうか。わかりんす。
鎖国をしていた江戸時代には、
商人が外国製の錦を買いつけてきたと知れたら命がいくつあっても足りん。
そこで「蝦夷で造られた」と称したわけじゃな?



「その通りです。
 ほかにも、ロシア製の商品なんかも、ここにはたくさん、あるんですよ。
 ほら、ここにぶら下がっているのはロマノフ王朝時代のシャンデリアです。」



ふむ、古伊万里もあるのぅ。
そうか、南から北へ、北から南へと商品を運び、
途中で立ち寄った港で商品を買いつけては、
次の港で売りさばいていたというわけかや。



「はい。
 彼らのような行商人が乗ったのが、この『北前船』なんです。
 正確には『弁財船』というのが、船の形式なんですが、
 弁財船に乗って北海道やその北まで商品を買いつけに行く人たちのことを、
 『北前船』と言ったんですね。」



ほわーーー

いっぱいあるのぅ〜!



こりゃあれじゃな!
船絵馬、というやつじゃな!




「へっ!?なんで知っているんですか?」

こらぬし!バカにするでない!
わっちも各地の寺や神社や郷土資料館をうろうろしてきた身じゃ。
北前船ぐらい知っておるわ!

とはいえ、こんなにたくさんの船絵馬を見るのは初めてじゃがの。




よく絵馬を見てください。
 同じようなものがたくさんありますよね。」




そうじゃな。
既製品かや?



セミオーダー、とでも言うのでしょうか。
 上方には、船絵馬の専門店かいくつもあったそうですが、
 お店ごとの基本形はあるのですけど、
 どのお店のスタイルも、似ているというか、一つの様式があったようです。」




「基本形は絵馬屋さんごとにできあがっていて、
 そこに船主が自分の船の特徴を言うと、
 一枚一枚、船の名前や帆の折り目の数、
 帆の模様(組合ごと、船ごとに違うので、遠くから帆の模様でローエン商業組合の誰それの船とかがわかる)
 乗組員の人数や特徴(はげてるとかメガネとか)、
 そして船主の姿なんかを正確に書き込んで完成、です。」



ほうほう。
で、この絵馬を何枚も持って、行く先々の神社や寺に納めて回るわけじゃな。



「Exactly(その通りでございます)」

ところで、こっちの絵馬は何じゃ?
何かのまじないかや?




 

「・・・っ!
 そっ、それは・・・」





「それは、俺が説明しよう」



「これを見てくれ。」

おお、大波にもまれている姿じゃな。


「ああ。昔からずっと、海に出る者は、船の床板一枚下は地獄、
 そういう危険と隣り合わせの世界だからな。
 北前船の乗組員も例外じゃあ、ない。」


ふむ。

「こういう時化に襲われた場合、北前船の船乗りたちの対処方法は決まっている。」

祈るのかや?


「その逆だ。
 彼らは商人だ、もっと現実主義者だよ。」


なるほど。


「まずは、帆を下ろす。」


ふっ
それは現実的な選択じゃな。
風が強いのに帆を上げっぱなしじゃあ、
命がいくつあっても足りん。


「まあそうだ。
 そして!」
ダン




船のマストを切り倒す!

 ばっさりだ。



 それでひとまず、船は重心が安定する。
 ただし、二度と風を利用した航海はできなくなるがな。」



「そして次に、積み荷を捨てる。『荷打ち』だ。」



行商人である船主が積み荷を捨てるというのはただならぬ事じゃな。

じゃが、計算高い商人たるもの、
積み荷にこだわって船や命を失っては元も子もないからの。
どこかで決断は必要じゃろう。



「ああ、その通りだ。
 そして、積み荷を捨ててもどうにもならないとき、
 最後に彼らが捨てるものは・・・」


希望、かや?



「ははっ!うまいこと言うな?
 だが違う。商人は強欲だ。希望は最後まで捨てない。
 捨てるのは、髷、だ。」


ちょんまげ?

「ああ。髷だよ。
 自ら髷を落として海の神に祈りを捧げるという意味があるというが、
 実際は、積み荷を捨てたことについて、
 商業組合に対して身の証を立てる、という方が重要だな。」


ふむ、『嵐にあって積み荷を捨てた』と嘘をついて、
 どこかの港でこっそり荷物を横流しされてはかなわんからの。


「そう。飲み込みが早いじゃないか。あんた、いい商人になれるぜ。

 男が髷を落とすと言うことは、一大事だ。
 一度落とすと、そう簡単には元に戻らない。
 だからこそ、嵐に見舞われて無事に帰ってきた奴は、
 港に着くと出頭し、切り落とした髷を見せて、嵐が本当だったことを証明してもらうのさ。
 それからこの寺にやってきて、無事の帰着を感謝して髷を納めるんだ。」




なるほど、それがこれかや。
ということは、この髷の数だけ、
時化に見舞われて無事に戻ってきた商人がおったという事じゃな。


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