XIII 狼と修験僧


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「じゃあ、続けてほかの寺宝をご案内しますね。」 




これは、先々代の住職が描いた仏画です。



これも先々代が書いたものです。
日清戦争の戦没者のための五輪宝塔ですが、近くでよく見ると、
小さな小さな梵字で模様を描いているんですね。
全部で30万字ぐらいのお経になっているんです。




これも先々代がつくった仏画です。
釈迦の入滅を描いた涅槃図なんですが、よく見てください。

線の全てが、人間の毛髪で描かれています。
8万4千人の門徒の毛髪でできているんですよ。
5年もかけて描かれました。
この絵も、日清・日露戦争のすべての死者を弔うためにつくられました。

当時の皇后陛下も毛髪をご提供されたので、釈迦の眉毛に使われているんですよ。」



ちょ、ちょっと待ってくりゃれ、
さっきから、先々代、先々代と、
その先々代はずいぶん絵が好きな御仁だったようじゃな?




ふふっ
ご存じないのですか?
先々代は、仏教界ではそれなりの有名人なんですよ?



ほう?
有名人とな?
詳しく申してみよ、わっちも記憶をたどりんす。


この方が、第26代目の住職、海浦義観です。


ほう、これは大男じゃな。


最初に申し上げたことをおぼえてらっしゃいますか?
当寺には「檀家さん」がおりません。

もともとそういう正確のお寺じゃないんです。


ほう?
じゃあ葬式とかはやらんのじゃな?

はい。
今でこそ、このお寺は「真言宗円覚寺」ですが、
昔は○○宗、なんてそんなにはっきり分かれていませんでした。

このお寺は、山伏が修験するための山寺、修験寺だったのです。



山伏。
こういう連中じゃな。





はい。
もともと山伏は、日本に仏教が広がる以前からあった山岳信仰と、
仏教が結びついた独特の信仰形態でした。

仏僧と呼ばれる人たちは、
おもにお寺でお経を読んで勉強をします。

ですが、山伏は野山を駆け回り、野山で寝泊まりし、
山に登り、火を焚き、呪文を唱えます。

彼らはそうやって1500年以上にわたって、
独自の文化を継承してきました。


ところが、
そこへ革命が、明治維新が起きたのです。


明治維新?
それと修験道と何の関係があるのかや?


はい。
習ったでしょう?
明治政府は、天皇中心の世に改めるため、
神道を重んじ、神仏分離令、というのを出しました。


そのときになって、
仏教界も、組織を整備することを求められたのです。

日本全国各地の寺は、必ずどこかの宗派に属することになり、
「○○宗××寺」となり、宗門組織が作られたのです。

ところが、
修験僧はその組織からつまはじきにされてしまいました。


ほう?なぜじゃ?
この国にもっとも古くから伝わる信仰じゃろ?
護国信教にも通じる道じゃないのかや?


いえ、組織にいれてもらえなかったのはそういう理由からじゃありません。

我が国の仏教、仏僧は、お寺で経典を読み、学ぶのが正道でした。
仏教だけではありません。
昔から、日本の子供はお寺で学問を身につけたのです。
お寺とは、学識を統べる場だったのです。

しかし、山寺、修験道の行者たちは違いました。

当時の仏教界の偉い人たちは、
“修験道なんて、頭の悪いDQNたちが山で仏教ごっこをしているだけだ。
 経典の真理の欠片すら理解しておらぬ。
 奴らは、火を熾したり、動物を捕まえたりすることは得意かも知れないが、
 山伏が仏の道にたどり着くことはない。”

そう言って、山伏や修験僧を蔑視していたのです。

ホラ貝でも吹いてろや、と。

そのため、明治に行われた仏教界の再編に、
修験道、山伏は入れてもらえませんでした。

ふむ、組織化されておらなかった山伏どもは、
組織で動く寺僧どもに対抗できなかったというわけじゃな。


はい。
それどころか、大変なことが起きました。

修験道そのもが、政府によって禁止されたのです。
明治5年のことでした。
日本中の修験僧は散り散りになり、
教えも、修験道の宝物も風前の灯となったのです。



まさに存亡の危機、というわけじゃな。

そのピンチに立ち上がったのが、
この寺の住職だった、義観阿砂利だったのです!


もともと、山伏たちは1500年以上、文書による記録を残しませんでした。
彼らの知識は全て、口伝でのみ継承されました。
修験僧が1500年に渡って築き上げてきた世界観は、
目に見える形として世に出たことはなかったのです。


ふむ。
つまり、山伏たちの持っている知識を客観的に証明するものは何も無かったのじゃな。
それで、仏教界の重鎮は、修験僧を「DQN」と決めつけたと。


はい。
そこでまず、義観阿砂利は、修験僧の総てを書物に著すことから始めました。
日本史上、仏教史上、初めての試みです。
出版まで、15年以上かかりました。

修験安心義鈔 ,海浦義観著 1890(明治23年)刊 http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/shimada/si.html

『神変大菩薩宴録』、『修験道法具要解』(明治34年)も義観の著です。

くわしくはここ(pdf)

なかでも、いわゆる印をすべて図で示すのが大変だったと聞いています。
↓こういうやつですね。


それとともに、義観阿砂利は、
修験道の復権を認めさせるため、
仏教界、政界に精力的な働きかけを行いました。

阿砂利の生涯はまさに、そのために捧げられたのです。


今では、修験道を禁止する法も撤廃されました。


今、日本各地には、熊野とか、石鎚山とか、高野山とか、
修験道のメッカがたくさんありますよね。
それもすべて、当寺先々代住職、義観の活動の賜物なのです!


ほー、なるほど、
それはなかなかたいした御仁じゃな!
そのおかげで今の日本には

こういうの↓もあるわけじゃ!



ありがてぇ!


 
と、こんな調子でフルに案内してもらったのじゃ。
薬師堂も見せてもらったしの。
わっちぁ大満足じゃ!

http://engakuji.jp/index.html


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