「祇」という漢字は「神祇」「祇園」などと使うが、漢和辞典的な意味は「クニツカミ(天の神に対する地の神)」のことであり、「氏神」「土地神」のことなんだそうだ。 「大山祗神社」という名前の神社は北海道にも多くあり、よく鉱山のあるところに祀られている神・神社である。 全国的にはこの名称でよく知られているのは伊予国一宮の大山祇神社(愛媛県)である。祭神のオオヤマツミはイザナギとイザナミの間の子で、山の神である。しかし「ワタシオオカミ」という異称があり、これは“ワタツミ”つまり海の神である。したがって山と海の神、ということになる。 ただし、本神社の由緒について詳述している『登郷土誌』(1986年)によれば、北海道の大山祇神社で祭神をオオヤマツミやコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)にしているのは、後世の神職によるこじつけで、元来はもっとプリミティブに、いわゆる地場の「山の神」を祀ったものだったという。 ![]() 山から流れてきた登川や畚部川は、この砂丘にあたって行く手をさえぎられ、海岸付近で大きく蛇行し、海岸線と平行に流れていた。 付近には国の史跡「フゴッペ洞窟」や「大谷地貝塚 」がある。 大谷地貝塚は縄文時代中後期(紀元前3000年代?)の遺跡で、「余市式土器」と呼ばれる縄文土器をはじめ、住居跡、焚き火跡、魚類や海獣類の骨が発見されるなど、大集落があったことがわかっている。フゴッペ洞窟のほうは続縄文時代の遺跡とみなされている。洞窟内には無数の象形文字が刻まれているが、まだ未解読だ。このほか、付近の砂丘からは紀元前1500年代のアイヌの墓も発見されている。 新しく掘削された登川の河畔には学校が作られることになったが、その造成工事の最中、砂丘から古い遺物が発見された。古銭、刀、鎧、鍋、釜、食器類で、13世紀の北陸由来のものだったそうだ。 13世紀というのは、まだ和人とアイヌのあいだで本格的な交易が行われていた時代ではない。いわゆる元寇は13世紀後半のことだが、モンゴル帝国軍は北九州だけでなく、同じ頃に樺太にも攻め込んでいる。中国の史料では、13世紀に樺太のアイヌとモンゴル帝国のあいだで戦闘があり、半世紀にわたる戦乱の末、樺太アイヌはモンゴルに服属したという。 日本では「北海道」と「東北」の蛮族をあわせて蝦夷と呼んでいた時期で、13世紀にはまだ東北地方の「蝦夷」がしばしば叛乱を起こして、蝦夷管領の安東氏と争っていた。 アイヌは鉄器文化を持っておらず、和人は鉄器と海産物の物々交換の交易を足がかりに蝦夷地(北海道)へ進出した。しかしそれが本格的に行われるようになるのは14世紀以降のことである。13世紀の北陸産の鉄器が余市で見つかるというのは、稀有であるはずなのだが、その頃すでにこの辺りへ和人が足跡を残していたことの傍証なのだろう。 開拓時代、登川の上流では木材の伐採が行われ、切りだされた材木は登川に流されていた。 その流木を回収していたのが、現在大山祇神社 があるあたりで、当時は「土場」と呼んでいた。川から引き揚げた木は、ここで集積され、木こり達によって加工され、材木や薪になっていった。 この土場で働く山男たちが、「山の神」と祀ったのがこの神社の始まりではないかと考えられている。 ただし、その起源ははっきりわからず、少なくとも明治20年頃(1880年代後半)には既に小祠があった、としかわからない。いずれにしろ、周辺の他の神社と比べてもひとまわり古い神社ということになる。 開拓者たちがそれぞれの故郷の氏神を祀る開拓神社を新しく建立し、その開拓地のシンボルとされていったのに対し、こちらの大山祇神社のほうは、登川での木材運搬がなくなると廃れていった。やがてこの古祠の境内には「イタヤの巨木」やスギ、笹が鬱蒼と茂るようになった。 最古の証言がある明治20年を基準にしても、少なくとも40年ほど経った計算になるが、昭和になる頃にはこの祠もすっかり朽ち果ててしまった。そこで、みかねた地元の有志によって昭和2年(1927年)にささやかな社殿が建てられた。 かつて、大山祇神社の裏手にもぶどう畑が広がっていた。古くは大谷地と呼ばれる湿地帯だったが、戦後の登川の河道改修で排水と埋め立てが行われ、そこがぶどう畑に変貌したのである。 昭和40年代ごろには、神社の隣はぶどうの試験場だったらしい。『大浜中の百年』によれば、昭和40年(1965年)に、ここで全国のブドウ栽培の専門家を招いて「ブドウ研究大会」が開催されたそうだ。700人が集まる全国大会で、地元ではそのために神社の前の道へ砂利を敷くなどして道路整備を行い、今で言うインフラ整備の原動力になった。 しかし、このときの大会では、この地元のブドウ園は酷評されたそうだ。内地の何倍もある広大なブドウ園で、共同経営による近代的なブドウ栽培が行われている、とのフレコミで、本州の伝統的なブドウ農家はずいぶん期待をしてやってきたそうだが、実際には近代化には程遠く、収穫量や房が不揃いで品質も劣り、学ぶべきものはないとみなされたらしい。 それから更に40年が経った現在、余市のブドウは全国3位の栽培面積を誇るようになり、ワインの産地としても世界的に認められるようになった。 神社の周囲は宅地化によって住宅街になっているが、道路一本向こうはいまもぶどう畑が広がっており、鳥居の脇にも小さなブドウの木が植えられている。 ![]() 現在の社殿は、昭和7年の建て替えから40年後の昭和47年に建て替えされたものである。 神明造の高床式で造営され、屋根には千木・鰹木も設けられ、小規模でも本格的な神社建築となった。 ![]() ![]() 境内には五角柱の「地神さん」が設けられている。 この「地神さん」は北海道一円に広く分布している。なので、北海道では戦没者の忠魂碑とならんで神社ではよくみる物の一つなのだが、本州ではそうではない。主に四国・瀬戸内で限定的にみられるものらしい。 開拓時代には、北海道中のいろいろなところに、いろいろな地方からの開拓者・移住者があり、四国移民も北海道中に入植した。だから北海道では各地に存在する。 『登郷土誌』によれば、これらの「地神さん」は四国からの開拓移民が持ち込んだものが多いそうだ。かつては入植地のあちこちにあったが、開発や宅地化のたびに移設され、今は神社の境内に祀られているものが多いそうだ。 【北海道神社庁誌データ】
【社誌】
【参考文献】 ・登郷土誌,余市町登町区会,昭和61年 (1986) ・余市町郷土史 ,余市町教育委員会,昭和8年(1933) ・大浜中の百年,大浜中区会20週年記念実行委員会,昭和57年(1982) ・栄町郷土史,栄町郷土史編集委員会,昭和59年(1984) 【リンク】 * |
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追加日:2015年2月18日 改稿日:2015年2月21日 |