参拝日:2015年2月11日

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塩谷神社

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北海道

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古都小樽でも最古の神社で、創建はシャクシャインの乱から5年後。

小樽市


創建 伝・延宝2年(1674年)
所在 北海道小樽市塩谷
祭神 倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
大国主命(おおくにぬしのみこと)
言代主神(ことしろぬしのかみ)
社格 わかりません
例祭 わかりません
 

塩谷(しおや)というのは、今は小樽市内の一地区の扱いだが、歴史は小樽より古い。いちおう現在の市域を基にすると「小樽で最古の神社」という表現にはなるが、そもそも塩谷は小樽とは別の町、と考えたほうが良い。

このあたりは歴史が古いというか、一気に飛んで先史時代に遡る。このあたりには塩谷、蘭島、忍路、畚部などの村があるが、3500年ぐらい前と推定されている縄文時代の遺跡が散在し、なかでも忍路のストーンサークルや畚部の洞窟壁画(文字が書かれているが、まだ解読されていない)が有名である。あ、そうそう、読めないと思うけど、忍路は「おしょろ」、畚部は「ふごっぺ」と読む。

まあそういう次元の時代は別としても、和人は水産資源を求めて日本海側を南から北上してきたので、忍路や塩谷は小樽よりも手前にあり、それだけ早く和人が入ったのだろう。1674年といえば江戸時代前半であり、4代将軍徳川家綱の治世である。

家綱と言っても、北海道ではなんのことやら、という感じである。「シャクシャインの乱から5年後」といったほうが通りが良いかもしれない。シャクシャインの蜂起では、もっぱら南北海道から日高にかけての太平洋側が戦地になったはずで、日本海側のこのあたりは激戦地からは遠いはずだが、それでも「東蝦夷地で213人、西蝦夷地で143人」の和人が誅殺されたそうなので、たぶんこのあたりは西海岸だから「西蝦夷地」だと思うんだけど、このあたりでも犠牲者はいたのかもしれない。

この時代に蝦夷地の先の方まで出張ってきている連中というのは欲の張った近江商人ということになっている。当時の蝦夷地の奥では「場所請制」という領地支配が行われていた。要するに、海岸をいくつものブロックにわけ、商人がその1ブロックを獲得し、その地域でアイヌとの交易を支配できるのである。この辺りの場所請けをしていたのは、西川伝右衛門という近江商人である。なの
で、実際に小樽を始めこの辺りの神社は近江(滋賀県)から勧請されたものが多い。シャクシャインの戦乱のわずか5年後にこの神社が建てられているというのは、犠牲者を祀る的な意味合いがあったのかもしれない。同じ年に忍路神社も創建されている、というあたりにも何かわけがあるのだろう。


国道5号線に面した参道の入口。

北海道の神社としては極めて立派な鳥居で、いわゆる両部鳥居の形式。


国道5号線から伸びる参道は200メートルほど。


なかには明治時代に奉納されたらしい石灯籠もある。


参道を登っていく途中で、脇に伍助澤神社がある。

「伍助澤」というのは、塩谷川の支流・伍助沢川のことなのだが、実はこの場所からはちょっと離れている。大雑把に言うと、一山越えた向こう側である。戦前には、塩谷から小樽へ山の中を抜ける軍用道路があり、これが伍助沢川に沿っていた。伍助沢集落には分教場があって、伊藤整がそこで子供時代を過ごしている。(伊藤整の父親がそこの教師だった。)伊藤整の小説の中にも伍助沢の分教場が登場する。


参道を行き、最後に石段を登ると社殿が見えてくる。

いちおう除雪がされているし、電灯も灯いている。
ひょっとすると、今日は2月11日(建国記念日)なので、特別かもしれない。


これが社殿。


雪深くて近づくのはこんなんだが、ちゃんと奥に本殿を備えたつくりで、北海道の神社としてはちゃんとした神社である。



ご覧のとおり、木部には簡素な彫刻がなされている。

内地の神社ではかなり粗末な彫刻の部類かもしれないが、北海道ではこれでもかなり手の込んだ造りだ。

こういうところに手を施すだけの余裕があった、ということだろう。

本殿の脇に、小さな社が置かれていた。こちらへは除雪はされていなかったが、


中は、当地から出征して戦没した人たちを祀っているのだろう。神社に戦没者の慰霊碑・忠魂碑があるのは珍しくないが、こうして位牌(神社だけど?)や写真がびっしりというのは、あまり見たことがない。(私が見たことないだけだろうけど。)

さすがに現代っ子の私でも、こうして並べられると、神妙な気持ちになるものである。たまたまだけど、建国記念日だし。




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追加日:2015年2月12日