参拝日:2015年01月29日

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射楯兵主神社

式内社(小社)

兵庫県

播磨国総社

県社

別表神社

播磨国の総社。

姫路市


創建 564年(欽明天皇25年)
所在 兵庫県姫路市総社本町
祭神 射楯大神
兵主大神
社格 式内小社
播磨国総社
県社
別表神社
例祭 霜月例大祭(11月13日〜16日)
一ツ山祭(60年に1度)
三ツ山祭(20年に1度)

姫路城の付近にある山に、兵主神を祀る神社と射楯神を祀る神社があり、二社が合わさってできた神社である。


▲姫路城と水尾山の位置
神社の由緒書きによれば、564年(欽明天皇25年)6月11日に、飾磨郡伊和里水尾山兵主神・大己貴命を祀るようになったという。

水尾山というのは、今の姫路城に隣接する標高57mの小高い丘で、別名を「男山」と言う。

これが787年(延暦6年)に現在の姫路城近くに移転した。

大己貴命(おほなむち)は大国主神のことである。『播磨国風土記』では「大汝命」という漢字をあてている。


オホナムチは出雲の八十神の従者だった。八十神は、美女と名高い因幡国の八上姫に求婚するため、因幡へ向かう。

途中で有名な「因幡の白兎」のお話があり、実は八上姫のペットである白兎を助けたオホナムチが、八上姫と結婚することになる。

兄神の八十神はこれに怒り、オホナムチを殺してしまう。オホナムチは黄泉の国から復活するが、再び八十神に殺されそうになり、「根の国」へ逃げる。

根の国はスサノオの治める国で、スサノオの娘である須世理姫と結ばれる。スサノオはすごく怒ってオホナムチをぶっ殺そうとするが、須世理姫の助けて難を逃れる。

国を出るときに、スサノオは「大国主となって偉くならないとぶっ殺すぞ」と言い、それ以来、オホナムチは大国主と名乗るようになる。

スサノオが治めていた「根の国」は、出雲(島根)のどこかという説があるが、別説があり、近畿にあるという説もある。


▲八丈岩山の位置

これとは別に、射楯神を祭る神社が八丈岩山という標高173mの山にあった。社伝では大和時代に既にあった、とされている。

713年〜715年ごろに編纂されたとされる『播磨国風土記』に登場する。「因達里(いたてのさと)」に「伊太代神(射楯)」として記述がある。

射楯神というのはイソタケル(五十猛)のことで、スサノオの子である。林業のほか、航海や漁業・船舶の神、商売繁盛や開運・厄除けのご利益もある。『播磨国風土記』では、神功皇后が新羅遠征を行った際には、水先案内をしたとされており、勝利の道を開く神としても崇められている。


その後のことは記録がなく、よくわからないそうだが、『延喜式神名帳』(927年)には射楯神と兵主神を合祀する式内小社・射楯兵主神社として掲載されている。

1181年(養和元年)に播磨国の174社を合祀し、播磨国総社 となった。異称を「三日潮」といい、播磨国の総鎮守とされた。

1581年(天正9年)に、豊臣秀吉が姫路城を築城するため、現在地へ移した。


姫路市街の中心に近い、姫路城のそばにあるが、神門のある入り口は案外わかりにくかった。

神社から見ると郵便局の裏手にあたるが、道路から見ると郵便局の裏にあたる。
郵便局はかつての播磨国国庁があった場所だそうで、
姫路城の中曲輪の中になる。



入ると実に賑々しい。

あとで分かったことだけど、
射楯兵主神社では60年に1度の一ツ山祭と、20年に1度の三ツ山祭というのがあるそうだ。
(数え方の問題で、厳密には21年に1回、61年に1回になるかな)

「山」というのは

こういうでかい何かのことで、これを1つ作るのが一ツ山祭、3つ作るのが三ツ山祭。
直近の三ツ山祭は2013年(平成25年)だったので、次は2033年(平成45年)。
なお、次の一ツ山祭は2047年。
かなり先だ・・・


拝殿。


こちらは「撫でみみづく

ミミズクは知性の象徴で、吉兆を授ける瑞鳥とされ、射楯兵主神社の神使とされている。

この神社のみみずくは有名で、神社のマスコットキャラクターのように色々使われているそうだ。


ブロンズの狛犬。でかい。
昭和41年製。

御神馬像。
(馬のブロンズ像)



 

ちゃんとお尻の穴まで再現されている。 

黒田官兵衛にゆかりがあるとされる。黒田官兵衛はもともと姫路生まれで、秀吉に仕えるようになった頃、この神社で7日間の祈祷を行ったそうだ。

これは「鬼石」。

平安中期の源頼光(源氏の3代目)が、摂津国にある大江山へ鬼退治(夷族討伐)をした際に、その首を埋めたという。

御厄除串というので自分を撫でたあと、こここへ投げ入れると厄払いになるのだとか。




本殿のまわりや裏手には、たくさんの境内末社が並んでいる。

総社というだけあって、境内の中にはたくさんの末社がある。

末社ストリート状態だ。


琴平社

鹿嶋神社

神明社

戸隠社

案内社八幡宮

八幡宮

稲荷社

稲荷社の1つ、白長大神

同じく千早稲荷

長壁神社

粟島社

姫路天道社

祖霊社
 

琴平社(旅行安全)
鹿島社(一願成就)
神明社(企業・創業・五穀豊穣)
戸隠社(武芸上達)
稲荷社(商売繁盛・家内安全)
案内社八幡宮(厄除・交通安全)
粟島社(安産・疫病退散)
長壁神社(災厄除・姫路城守護)
姫路天道社(学業成就・武芸上達)
祖霊社
厳島神社(海上安全・諸芸上達)

となっている。
さらにこれとは別に「十二社合殿」というのがあって、
さまざまな神社が合祀されている。

ここでは特に姫路ならではということで長壁神社を紹介しておこう。

ご覧のとおり、末社ストリートのなかでもとりわけ特別感のある佇まい。



オサカベというのは、姫路城の天守閣に住んでいるオサカベヒメ(長壁姫)のこと。

いちおう妖怪ということになっているが、年に1度、城主に城の運命を告げてくれる。
城主が悪行すれば祟ることもあるという。

もともとは、姫路城が出来る前に刑部神社というのがあり、豊臣秀吉が築城のためにこの神社を遠くへ移したそうだ。関ヶ原のあと、池田輝政が姫路城主になって城をいじくり回したのだが、怪異が相次ぐようになり、池田輝政自身も病に倒れた。そこで刑部神社をあらためて城内に建立したという。

もともとオサカベは男とも女ともない妖怪と考えられていたが、江戸時代にこの地を「姫路」と呼ぶようになると「姫」からの連想でオサカベヒメと女性の妖怪となった。その姿は諸説あり、さまざまな姿で描かれる。江戸時代の『今昔画図続百鬼』や『西鶴諸国ばなし』にも登場する。

ぐぐったところ、最近はこんな感じ。









御朱印ゲット。
御守もゲット。

実は、はじめは入り口がわからず、道路をぐるっと回って神門から入ったんだけども、最初に目に入ったのが、境内にある近代的な「和ダイニング三日潮」と「ブライダルサロン長生殿」だった。

そんなわけで、正直、ブライダルサロンか〜ということで、お金大好きの商業神社という先入観をもって臨んだので、テンション下がってあまりじっくり見なかった。これだけの広さがありながら30分ほどしか滞在していない。

【射楯兵主神社】 
名称 No

 

所在 TEL
FAX
例祭日
社格
祭神
交通
社殿
境内     
氏子世帯 崇敬者数 
摂末社
備考 

【社誌】
西暦 元号 和暦 事項 備考
     
          (大和時代)八丈岩山のあたりに射楯大神を祀る「いたちの里(因達)」があった。  
     
564 欽明 25     水尾山に兵主大神を祀る。  
715       この頃編さんの『播磨国風土記』に射楯大神を祀る神社の記述がある。   
787 延暦 6     坂上田村麻呂が兵主大神を「国衙荘小野江の梛本」に移す。
(現在地より北に0.5kmのあたりとされている。)
 
891 寛平 3     射楯神を合祀。射楯兵主神社と呼ぶ。  
927 延長 5     『延喜式神名帳』に式内小社として掲載。  
939 天慶 2     藤原純友討伐のため、奉幣(天神地祇祭)がある。一ツ山大祭の起源。  
             
1181 養和 1     播磨国16郡の174座を合祀し、播磨国総社とする。
以後、鎌倉時代には「府中惣社」や「国衙惣社」、「伊和大明神」と呼ばれるようになり、「射楯兵主神社」という名称が使われなくなる。
 
             
1522 大栄 1     赤松晴政が臨時祭を行う。三ツ山大祭の起源。  
1581 天正 3     羽柴秀吉が姫路城築城。神社を現在地に移転する。  
           
             
  明治       明治時代になり、「射楯兵主神社」の名称となる。  
             
1945 昭和 20     戦災により全焼。  
1953   28     神社の再建。1623年(元和9年)の状態を復元。  
             
       

【参考文献】

【リンク】
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追加日:2015年3月9日