江戸時代の姫路で起きた百姓一揆は、江戸時代の西日本では最大規模のものだった。ここではその経緯を伝え、一揆を指導した郷土の偉人を祀っている。 夢前川の源流は雪彦山(せっぴこさん)という岩山で、古くから修験道の聖地だった。雪彦山、新潟の弥彦山、福岡の英彦山の三山を「日本三彦山」というそうだ。 この夢前川の中流に「夢前町」があった。あった、というのは、2006年に合併して姫路市の一分になったからだ。夢前町は昭和30年(1955年)に3つの村が合併してできた町で、そのうち一つが置塩村である。 ![]() 「置塩」という名前も造語のようで、さらに遡ると「置本」地区と「塩田」地区をはじめ、いくつもの村が集まって誕生したものである。 夢前川の中流に点在するひらけた平地の一つに「古知之庄」という、いかにも歴史がありそうな地名があり、これが置塩郷の中心地の一つだったようだ。古知之庄と夢前川を挟んで左岸に塩田地区がある。 塩田には塩田温泉というのがあり、かつては姫路の奥座敷としてそれなりに客があったらしい。置塩神社はその塩田温泉の麓にある。 ![]() 小高い杜となっている法持山に設けられた神社。 入り口の石鳥居は1988年(昭和63年)のもの。 ![]()
「置塩神社」になる前はそういう名称だったのだろう。 寛延というのは江戸時代・1748年-1750年の元号のことだ。 ![]() 参道の石段の両側には、たくさんの灯籠が並んでいるのだが、そのすべてにこうした文字が刻まれている。きちんと白墨が入れられており、マメに手入れされていることがわかる。 ![]() 色々な文字が刻まれているが、要するに郷土の故事を後世に伝えるものだ。 ![]() 北海道では、明治以降に開拓者が祠をつくったり、その子孫が開拓の先人を讃え、初期の辛苦を伝えるような神社が無数にあって、こういうのはそんなに珍しくはないのだが、内地では珍しいと思う。 たいてい、こういうローカルな価値しかないような神社は明治期に合祀されて廃社されてしまったからだ。 いったいここで何があったのか。 姫路はもともと播磨国の中心都市で、要衝だった。関ヶ原の合戦のあとは西国将軍と呼ばれた池田輝政が播磨国52万石を統治したが、池田氏は外様で、輝政が死んだあとほどなくして改易となり、播磨国は中小の諸藩に分割された。 姫路藩はそれらの諸藩の中でも中心的な位置にあり、重要だった。そのため藩主が死んで跡継ぎが幼い場合には転封になり、別の君主が入封するということが繰り返された。 このうち、3度姫路に入封したのが越前松平家である。越前松平家とは、徳川家康の次男・結城秀康を開祖とする名門である。秀康の子、2代目の松平直基のときに初めて姫路藩主となった。1648年(慶安1年)に直基が死ぬと直基の長男、松平直矩がわずか5歳で家督を継ぐが、幼いため要害の姫路は任せられないとして、越後に国替えになった。 1667年(寛文7年)、成人した松平直矩は姫路藩主に復帰する。ところが、1682年(天和2年)、従兄弟の越後高田藩で起きたお家騒動に連座させられ、減封のうえ豊後・日田へ移されてしまった。さらにその後も山形、白河と国替えが相次ぎ、国替えの都度発生する多大な費用のため、越前松平家はかなりの借金を負うことになった。このことが、やがて一揆の遠因になったともいえる。(※直矩の分流は、子が美州・津山藩に養子で入り、そちらは安定して幕末まで続いている。) その後、姫路には、榊原家が入った。徳川四天王と言われた榊原康政の子孫で、榊原家が姫路を治めるのは2度目である。1732年(享保17年)、榊原家は榊原政岑が後継者となった。当時は徳川吉宗の治世で、いわゆる享保の改革が行われ、倹約令が出されていたが、風雅を好む榊原政岑はこれに反発して豪奢な振る舞いをとった。 なかでも吉原の筆頭芸者・6代目高尾太夫を1800両も出して身請けし、さらに3000両を費やして酒宴を催したという話が徳川吉宗を激怒させた。榊原政岑は隠居させられ、その子・榊原政永が家督を継いだが、榊原政永は7歳だったので越後高田藩へ転封となった。 上述のように、白河・松平家は直矩の代に何度も国替えがあった結果、窮乏していた。白河から姫路へ移る際も、引越し費用がなく、江戸の商人から引越し費用を借金する有様だった。(この時金を貸したのが高間伝兵衛という商人で、享保の打ちこわしで標的にされた人物である。) 松平家では、前任の榊原家が江戸で豪遊するほど姫路藩が豊かであれば、借金はすぐに返済できるだろう、との皮算用があったが、実際はそれほどでもなかった。 姫路藩・松平家はすぐにこの借金の返済に行き詰まり、翌年の年貢米を担保に大阪商人から借金をして返済に充てるという自転車操業に陥った。 間の悪いことに、御用金を徴発した年の9月に、この辺りを大型台風が襲った。多くの家屋が倒壊し、海に近い地域は塩害にあって米の収穫はゼロだった。しかし藩では11月中に年貢を納めるように要求した。 さらに凶事は続く。11月16日に、藩主の松平明矩が急死する。後継ぎの松平知矩はまだ11歳、従来の習わしに従えば、まだ幼いということで国替えが発生する。国替えをすると、藩を預かる松平家が地元民に約した御用金の返済は白紙になってしまう。 藩主を失い、国替えを控えた松平家にはこれだけ大規模な一揆を鎮圧する意志も能力も欠き、大阪の奉行所へ援軍を求める羽目になった。 結局、一揆を収めたのは坊主の説得だった。しかし、一揆勢が村へ帰ると、一揆を指導した者たちが次々と捕縛され、処刑された。 その中に、置塩郷の指導者だった滑甚兵衛と塩田利兵衛、又坂与次右衛門がいる。滑(古知之庄村)と塩田とは、夢前川を挟んで対岸の位置関係にある。又坂は1つ下流の集落だ。 この一連の一揆では、播磨国各地で60〜70の村が舞台になった。345人が捕縛され、投獄された。その中で最も重い罪に問われた3人のなかに滑甚兵衛と塩田利兵衛がいる。ほかに3人が死罪、5人が島流し、4人が国払い、18人が追放、167人が罰金刑となったが、そのうち島流し2名、近畿からの追放5名が又坂村と滑村から出ている。 1749年(寛延2年)、市川の河原で刑が執行、滑甚兵衛は磔刑、塩田利兵衛・又坂与次右衛門は獄門となった。獄門と言うのは晒し首のことで、死体は破棄され、もちろん死後弔うことも禁じられた。 32年後、三十三回忌にあたる1781年(安永10年)1月23日、ようやくひっそりと塚が作られた。滑甚兵衛の塚は、ここから数百メートル北の丘にあるらしい。 法恩寺はこの神社がある杜の麓にある寺で、1965年(昭和40年)に水害で流されて大きな被害を受けたが、境内には1378年(永和4年)の石塔などをもつ、古い寺である。
![]() このほか、夢前町議や姫路市議などの灯籠が並ぶ。 ![]() こちらが社殿。質素な作りで、ほとんどバスの待合室みたいな感じだが、それでも瓦屋根が載っているだけで道民には立派な社殿に見えてしまう。ふしぎ! この社殿を建てるときに、ここから古墳時代の石棺が発掘されたそうだ。その石棺は「お社の前に現状をとどめている」と案内看板には書いてあるのだが、ちょっと私にはどれのことなのかわからなかった。 ![]() 社殿の裏手には墓地がある。 ![]() 墓地の入り口に案内看板がある。車で登ってくる道の脇にも無数の灯籠が。 ![]() 特になんでもない日だったが、お米、塩、酒、玉串が捧げられており、神職もいないのにきちんと奉仕されていることがわかる。素晴らしい。 ![]() 置塩の中心部、古知之庄を見下ろす位置にある。 神社を建立したのが仏寺の住職、というのも日本的な寛容な宗教観の顕れであるように思う。 【置塩神社】
【社誌】
【参考文献】 ・ 【リンク】 *農林水産省 近畿農政局整備部 置塩神社 |
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追加日:2015年3月10日 |