また、このあたりは伯耆国の東の中心地・倉吉と西の中心地・米子の中間地点にあたり、付近には古代に「清水」という宿駅が置かれていて、これが現在の八橋であると考えられている。赤崎は交通の要衝であり、物資の中継地だったのと同時に、伯耆国中部では唯一の漁港があった。そのため、神崎神社は漁業従事者の守護神でもあり、夏祭りでは雄壮な船神輿が行われる。
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![]() 「赤碕」の「碕」の字はトリッキーだ。明治33年までは「赤崎」と、いわゆるいちばんポピュラーな「崎」の字を書いた。それが明治33年の町制施行のときに「赤碕」と「いしさき」の字にした。きっと「赤崎って日本中にあるっぽくね?個性出そうよ」ってことで「碕」の字にしたのではなかろうか。ところが、本当の公式には「赤𥔎」(あなたの環境で正しく表示されているだろうか?)と、「石偏に立可(いわゆるたつさき)」の字をあてるのが正式なんだという。 「赤碕」の中心地がどこなのかはよくわからない。「赤碕駅」は、港から1哩も離れた場所にある。港のそばには赤碕小学校などが集中している。少なくとも古い時代にはこちらのほうが中心地だったのではなかろうか。神崎神社の境内は赤碕小学校の隣にあり、港から見ると一段あがった小高い海岸段丘上にある。ただし、国道9号線や山陰本線は、ここよりも更に一段高い段丘上を通っているので、幹線道路から訪れるとその坂を下ってくることになる。
![]() 訪れたのは真夏、8月の暑い日だったが、何かの準備をしていた。 海に近いからか、境内は砂地になっている。 とにかくここの社殿で目を引くのは素晴らしい彫刻だ。本殿は江戸時代の鳥取藩のお抱え宮大工、小倉園三郎らの手による作、拝殿はその孫である小倉平次郎による作だという。 この社殿は、鳥取県の指定文化財第1号(本殿)・第2号(拝殿)であるだけでなく、「県民の建物百選」にも選ばれているそうだ。
というわけで社殿。
神崎神社は、江戸時代には「三宝大荒神」と呼ばれていた。だから夏祭りはいまでも「赤碕の荒神祭」という。 創立期は不詳である。ただし言い伝えがあって、もとは尼子氏の本拠地である出雲国の月山富田城に祀ってあったのだが、落城の際に家臣が神霊を背負って落ち延び、ここに祀ったものだという。 月山富田城は、かつて大内氏による侵攻に従軍した毛利元就を死の一歩手前まで追い詰めたこともある堅牢な山城だったが、やがて毛利氏が力をつけたのと反対に、尼子勢は毛利氏による策謀によって一族で仲違いをして衰退していった。そして永禄8年(1565年)春にいよいよ毛利軍が白を包囲する。尼子勢は1年8ヶ月に渡って城に篭って守ったが遂に兵糧が尽き、永禄9年(1566年)11月に降伏した。言い伝えに従えば、このときに神崎神社が赤碕に移ってきた、ということになる。
【鳥取県神社庁誌データ】
【参考資料】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【リンク】 *神崎神社公式サイト *琴浦町公式サイト(神崎神社) |
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参拝日:2013年08月09日 |