大山から流れ出る河川のなかでは、加勢蛇川は最も長い川であり、古くから流域に人の定住があった。春日神社のあたりでは、この一帯の他地域を凌駕するような大きさの古墳が見つかっており、かなり古い時代からこのあたりが中心地であったことを示唆している。
このような田舎で、「日本一」で、(県のではなく)「国の天然記念物」とはびっくり。 ところでみなさんこの手の看板は熟読しますか?よく読み、よく考えますか? 私はNOです。「とりあえず写真だけ撮っといて、あとで家帰ってからゆっくり読もう」と思っちゃいます。しかしやっぱり、その場でよく読み、意味についてよく考えるべきでしょう。後からよく読んで、なんだそうだったのか!と後悔しないために。 この日は暑く(ずっと暑い)、石段を登ったり降りたりでくたびれたので、私はよく読まなかった。ここでよく読んでおくべきだったのは、「木の高さが15m、枝張りが30m」というあたり。「日本一の大木」と云う割には、「高さ15m」って、そんな大したことないですよね。しかし、高さが15mで枝張りが30mということは、木の高さよりも枝の広がりのほうがずっと広いということで、それ相応の樹形を想定して見にいき、写真を撮るべきだった。なんとなーく、深く考えずに「日本一の大木なんだかrすごい高さがあるんだろう」みたいな先入観で挑んだのは間違いだった。
鎌倉幕府を潰そうという後醍醐天皇の陰謀が身内の密告で発覚すると、後醍醐天皇は捕縛されて隠岐島へ島流しにされた。承久の乱のときの後鳥羽上皇と一緒である。しかし後鳥羽上皇と違うのは、後醍醐天皇は本土に帰ってきた、ということだ。 このとき船で後醍醐天皇が到着したのが、このあたりの海岸である。その場所にはいくつもの候補地があるのだが、加勢蛇川の河口にはかつて「方見」という入り江があって、そこに後醍醐天皇が入ったという記録がある。方見はいまの琴浦町の中心地だ。ビジネスホテルもある。 そのあと後醍醐天皇は、琴浦の西隣、名和の土豪・名和長年に迎えられ、いったん船上山という岩山に行宮をつくって立て籠もる。船上山は大山の峰の端部にあって、三方が300メートルぐらいの絶壁になっている天険の要害だった。 その行宮に、この春日神社の神主が神幡を献上したという。そのとき持参した神幡というのは使い古しのものだったので、後醍醐天皇は春日神社のあたりを「古布」(こう)という地名で呼ぶように命じたとされている。(もしかして皮肉のつもりだったのか?) 「古布庄」というのは宮内村を含むこの春日神社一帯の古名で、明治時代には左右両岸の村が集まって「古布庄村 」を名乗った時期もある。このときに村役場ができたのが「古長」という場所で、春日神社の対岸にあたる。古長という地名も、宮内村の対岸の「古布地村」と「長房村」が明治初期に合併してできた合成地名である。古布庄村は戦後に合併によって東伯町の一部となり、平成の大合併で琴浦町の一部となったのである。
【鳥取県神社庁誌データ】
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参拝日:2013年08月09日 |