ここは明治時代から「樗谿神社」となっていたが、平成23年(2011)年に古来の「東照宮」に戻して「鳥取東照宮」に改称した。 もとの東照宮は鳥取藩の初代藩主、池田光仲が創建したもの。光仲は徳川家康の曾孫だった。鳥取藩は、1600年に池田家、1617年に池田宗家、1632年に池田分家が入封していて、みんな一族ではあるんだけど系統が違う。この池田光仲は、1632年の池田家分家の「初代藩主」。その前の池田宗家の鳥取藩主は池田光政。同じ池田光某なので藩を継承しているように見えるけれど、実際には異なる家が国替えによって出たり入ったりしている。 「1632年に入封」と書いたけれども、光仲はその時まだ2歳だったので、本人は江戸の屋敷で育っており、実際に光仲が鳥取の地に赴いたのは元服後、1648年のことだったそうだ。
樗谿川(行政上の法律的位置づけは、河川法上の「川」ではなく、「雨水排水設備」の扱いになっている)の谷あいには、鳥取市の歴史博物館、樗谿公園、神社庁、樗谿神社(鳥取東照宮)などが設けられている。
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![]() ほとんど寺の山門のような感じ。 両側のスペースに仁王像とかがいそうな気配。 ふつう、神社の門を「随神門」と言うけれど、 こういう神仏習合的な東照宮みたいな場合にはなんと呼ぶんだろう。 ![]() この門の手前に説明板がある。 んだけども、詳しい説明がないままここにこの説明板を置くと、 この山門が重要文化財の「唐門」なのかな?とか思っちゃうじゃないか。
門をくぐると石灯籠ストリート。 ![]()
![]() これが拝殿。 徳川家の葵の御紋が見える。 ここまでのもったいぶったアプローチからすると、 案外、ふつうの社殿という印象。 東照宮だし、もっととんでもない豪壮なのが出てくるかと思った。 『因府録』の記録では、社殿を立てるための檜は、智頭で伐採されたものだそうだ。立派な大木だったので、1本の木で全てをまかない、材料が余るほどだったという。 建設の指揮を執ったのは、家老だった荒尾成直(但馬守)。鳥取藩は因幡国・伯耆国の2ヶ国を領有して東西に広かったのだが、因幡国の東にある鳥取城では、伯耆国を直接治めるにはちょっと遠かった。そこで、伯耆国の中心都市である倉吉や米子には城代をおき、その人物に為政を委ねた。これを「自分手政治」と呼んでいるのだが、荒尾成直は、自分手政治で米子の支配を任された人物である。 実際の建築には、日光東照宮の造営に携わった棟梁、木原木工允を招聘して建てさせたという。
『因幡民談記』(1688年)の記述によれば、当初の計画では樗谿ではなく、もうひとつ久松山に近い栗谿(栗谷)に建設する予定だったという。栗谷は、いまでこそ「どんつき」だが、かつては栗谷から太閤ヶ平(鳥取城攻めのときの秀吉の本陣)、百谷、榎峠と越えて塩見方面(福部村)へ向かう道筋だった。しかし栗谷よりも樗谿のほうが谷の奥行きがあって広いので、こちらに変更になったそうだ。樗谿では、「土を運び地を平にし、石を破て甃(いしだたみ)とし、山を崩して廟地を広め、沢を埋めて廟前とす」というような土木工事が行われたと記録されている。 詳しくは下の年表を参照してもらいたいが、東照宮の建物が完成したのは慶安三年(1650年)の春だった。このときに、池田光仲の重臣たち14名が石灯籠を20基奉納した(4月17日)。随神門をくぐったあとに石灯籠ストリートがあったが、あれがこのときの石灯籠だそうだ。そのほかに、光中公の嫡子・池田清五郎(のちの2代目藩主池田綱清)が石灯籠を2基奉納していて、これは本殿前に配置された。家老を務める荒尾家からは、荒尾成利(荒尾成直の父)が手水鉢を、荒尾嵩就(成利の弟)が唐銅の花瓶を献上したそうだ。 この荒尾家は累代に渡り池田家に忠義を尽くした。そもそも池田家当主の忠雄が死んで、光仲がまだ3歳だった時に、下手をすると大幅に減封される可能性があったのだが、荒尾嵩就が幕府に働きかけをして因幡伯耆2ヶ国を賜ったのである。荒尾家は、成利の系統が米子を任され、嵩就の系統が倉吉を任された。いずれも現在の鳥取県のNo2、No3都市である。荒尾家は明治維新まで鳥取藩の重臣として続き、維新後は男爵家となった。 東照宮の神主は、栗谷にある長田神社の神職の永江氏が代々務めた。また、東照宮の管理を行うために別当寺の淳光院という寺が興され、500石をあてがわれているが、この淳光院の住職・栄春は、徳川家康に仕えた僧、天海の弟子だったそうだ。ちなみにこの500石は「富安村」から取り立てられた年貢で賄われたのだが、この富安村はいまの鳥取駅の南口(裏口)一帯にあたる。スーパーホテルとか東横インとかアパホテルとかが立ち並ぶ、あのあたりだ。 東照宮の完成に話を戻すが、器(建物)が4月に完成したものの、魂(分霊)が因幡に到着したのは9月になってからだった。9月12日に因幡国に分霊が入り、16日に遷宮行列が行われ、17日に祭祀が行われた。これにより、9月17日が東照宮の例祭日(御幸神事)となった。 (※肝心なことだが、この日付が「旧暦」なのか「新暦」なのかは、よくわからない。) この2年後、承応元年(1652年)が、最初の御幸神事(例祭)が行われた年である。これは、神輿を中心に、騎馬武者420騎、町人の練物行列などからなる大行列で、踊りや音楽も伴う賑やかなものだったそうだ。全藩士と城下の町民が総出で行うこの神事は、これ以降恒例となった。 この神輿行列に際して行われるようになったのが麒麟獅子舞である。麒麟獅子舞は、今は鳥取各所の神社の祭りで行われていて、あちこちの神社の麒麟獅子舞が伝統芸能として民俗文化財に指定を受けたり、保護されているものだ。 神輿を担ぐ人夫は邑美郡・法美郡・高草郡(ひどく大雑把に言うと、いまの平成の大合併後の鳥取市全域に相当)から集められた。徳川家康死没から250年になる慶応元年(1865年)には二百五十年神忌が行われ、このときの祭礼には町人550人による行列が行われたそうだ。こうした壮麗な祭りは、鳥取藩主池田家が徳川将軍家に連なる家柄であることを内外に誇示する効果があったという。 なお、行列の行き先は、袋川(新袋川)が千代川に合流するあたりにある「古市」(いまの古市地区)だった。ここはかつて「古海河原」と呼ばれていて、千代川の渡し場があったほか、藩士の調練を行うために弓射場、騎射場、馬場、水練場などがあった。鷹狩なども行われていたほか、祭りに際して行われる競馬や騎射大会には多くの見物客が集まったという。この広場は様々な催し物に利用されており、各寺の寄り合い、祭り、相撲、芝居、花火などが行われ、一揆の集会所にさえなったという。いまは古海河原に両岸を結ぶ千代大橋・千代橋が架けられているほか、山陰本線もここを渡っている。 ところで、例祭日はもともと9月17日と定められていたのだが、明暦元年(1655年)からは、参勤交代で藩主がいない年(すなわち2年に1度)は御幸神事を4月17日に行うことになった。まもなく1667年からは再び9月17日に固定となり長く続くが、幕末の1864年に4月17日に変更になった。(なぜこの時に変更になったのかはよくわからないが、1862年に参勤交代が緩和されており、そこらへんとの関係があるのだろう。ただしこの頃はもういわゆる幕末の動乱のさなかで、1860年桜田門外の変、1862年坂下門外の変、1863年薩英戦争、1864年蛤御門の変、などなどいろいろめちゃくちゃになっている時期である。) この際に、従前の東照大権現(徳川家康)に加えて、初代藩主の池田光仲、その父である忠雄、その先代当主で忠雄の兄である忠継が合祀された。大政奉還の時の、すなわち鳥取藩の最後の藩主は池田慶徳といい、12代目藩主である。ちなみに、おそらく歴史上、ほとんど無名だと思うが、実は徳川慶喜の兄だ。いちおう戊辰戦争では官軍として東北に出兵もしている。 池田慶徳は、版籍奉還の後は鳥取知藩事を務めた。しかしまもなく引退するのだが、そうすると鳥取県は島根県に編入されてしまう。全国的には誰も知らないだろうが、鳥取県民は全員知っているのだが、鳥取県はかつて全域が島根県の支配下におかれた屈辱の時代があったのだ。池田慶徳は明治10年(1877年)に病没、翌年に慶徳も樗谿神社に合祀された。その数年後に鳥取県は島根県から独立を果たしている。 【鳥取県神社庁誌データ】
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参拝日:2015年06月18日 |