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鳥取県 鳥取市 法美郡 (旧)福部村 因幡国
荒坂神社 -
式内小社
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旧村社
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法美郡の式内社九座のうちの一社。古代には海の畔に建っていたという。
旧福部村は鳥取砂丘の東端にあった村。砂丘で育てるラッキョウが名産品である。平成の大合併で鳥取市に吸収され、いまは「鳥取市福部町」となった。その福部村一帯は、今から1500年か1800年ぐらい前までは、海だった。
創建 -
所在 鳥取県岩美郡福部村八重原
(鳥取市福部町八重原)
祭神 大己貴命(大国主の異名。)
少彦名命
素戔嗚尊
大己貴命は「オホナムチ」と読み、「因幡の白兎」で兎を助けた出雲のプリンスの本名である。のちに大国を築いたことから「大国主」とも呼ばれる。少彦名命(スクナビコナ)は海からやってきて大国主の国づくりを助けた。スサノオは、『日本書紀』と『古事記』では位置づけが違うのだが、大己貴命の父であったり父祖であったりする。それと同時に、大己貴命の正妻になった須世理姫(スセリビメ)の父親でもある。
社格 旧村社
例祭 3月26日

「因幡の白兎」のお話は有名だ。が、このエピソードは大国主の国づくりの長い物語の一幕だということをご存知だろうか。はじめに白兎に嘘を教え、いたぶったのは出雲の皇子たちである。彼らは、絶世の美女と名高い因幡の八上姫に求婚しに行く途上だったのだ。そしてウサギを助けたオオナムヂは彼らの末弟で、荷物持ちをやらされていた。

ところがこの白兎、実はその八上姫のペットだった。ウサギから事情を聞いた姫は、この性格の悪い出雲の皇子たちではなく、ウサギを助けたオオナムヂを婿に迎える。彼はこれを機に飛躍し、大国主となっていくのである。

因幡国の国造というのは、この八上姫の子孫ということになっている。そして荒坂神社のルーツは、その因幡国の国造と関係があるのだという。

播磨国風土記』(奈良時代の715年ごろに成立)に、播磨国の佐用(讃容)に関連して、因幡国の国造である「阿良佐加比売」(あらさかひめ)の娘の話が掲載されている。

仁徳天皇の治世、伯耆出身の「加具漏」という人物と因幡出身の「邑由胡」という人物がひどく増長し、酒で手足を洗うほどだったという。これはケシカランということで、両者とその一族は捕縛された。彼らは水責めの刑に処されることになったのだが、その中に珠で肢体を飾っている2人の娘がいた。官吏がその娘たちにどこの者かと問い質したところ、名を「宇奈比売」、「久波比売」といい、執政大臣(まえつぎみ)の服部弥蘇連(はとりのみそのむらじ)の娘で、母は因幡国の国造・阿良佐加比売だという。大臣の娘と聞いた官吏は慌てて二人の娘を送り返したのだという。

この「阿良佐加」は荒坂神社と関係があるだろうと考えられている。

鳥取県の東側は旧因幡国である。その北東部の日本海側には、巨濃郡、法美郡、邑美郡というのが設けられていた。法美郡はこの三郡の真ん中にあり、塩見川流域の福部村と袋川中流の国府町にかけて広がっていた。これら3郡は明治時代にはひとつにまとめられて岩美郡となった。

▲福部平野
鳥取県の海岸はどこでもそうだが、海浜には砂丘が発達していて、その裏側には潟湖が干上がってできた低湿地が形成されている。福部村がある塩見川の下流域でも同様だ。

この上の写真は、塩見川の下流に広がる福部平野の眺望である。写真の奥の方に日本海が見えている。まるで人工的に切り通したように谷が開けているところが見えているが、あれが塩見川の谷だ。そしてその谷から画面左の方へ続いている丘陵が、鳥取砂丘の東端部であり、「福部砂丘」とも呼ばれている。この写真は11月の初旬に撮ったもので、わかりにくいが、砂丘をグレーに染めているのは全て、福部村の特産品であるラッキョウの花だ。

▲紫色のラッキョウの花。葉の緑と合わさって、遠目にはグレーの農地に見える。

この砂丘というのは、数千年の歳月をかけて大自然が形成したように感じられるかもしれないが、実はそうでもない。ここ数百年に一気に発達したのだ。

もともと中国山脈は古い花崗岩の地質であり、風化によって砂となり、川に運ばれて海へ流れ出る。それが日本海の強い偏西風で押し戻されて、海岸線に溜まって砂丘になる。ここまでは普通の自然の下刻作用だが、ここ数百年のあいだに一気に砂の流下量が増えた。それは、中国山地で鉄を掘り、鉄穴流し(かんなながし)を行う蹈鞴(たたら)製鉄が原因だ。砂丘の調査から、中世以降から一気に数メートルもの高さで砂が堆積したことがわかっている。
そうなるより前、この福部平野は海だった。あの谷で海とつながっており、入江になっていたのである。写真をとった山のあたりが海辺になっていて、だからその小高いあたりには貝塚や縄文時代から奈良時代までの遺跡、古墳があちこちで見つかっている。とくに木の加工品が出土しているのが特徴で、国の重要文化財にもなっている。

古代、2世紀か3世紀の人物とされる神功皇后という女性がいる。『日本書紀』などでは卑弥呼=神功皇后だった、という説もある人物だ。彼女は、仲哀天皇の皇后だったが、仲哀天皇が熊襲との戦いで戦死すると、お腹に子を宿したまま自ら軍を率いて熊襲を討伐した。さらにその足を伸ばして朝鮮半島へ攻め入り、新羅、百済、高句麗を服属させたといい、その時に朝鮮から馬を連れ帰ったのが日本に馬が入った最初だとされている。その馬の世話をする係として連れて来られたのが百済の王だ。まったくすさまじい武人ぷりであり、中世以降に武神として崇拝された八幡様の母というのも頷ける。

さて、あくまでも伝説だが、この神功皇后は、征討キャンペーンに赴く途中、この塩見川の入り江に寄港したと伝えられている。そしてこの地に湧く温泉で疲れを癒やすとともに、子を産んだ。その子がのちの応神天皇である。

まあ、そこらへんの話の真実性はともかく、そういう神話がのこるほど歴史が古い土地なのだ。荒坂神社の歴史を紐解く上では、このあたりは古代には海辺だった、ということが鍵になる。

858年から887年までの歴史をまとめた『日本三代実録』(平安時代の901年に成立)では、貞観5年(863年)11月17日に因幡国の「荒坂浜」に新羅の人が漂着したとある。この「荒坂浜」がどこであるかは不明だが、荒坂神社はそのあたりにあったのだろうと考えられている。
延喜式神名帳』(927年に成立)では、因幡国法美郡の一座として「荒坂神社」が掲載されている。

このあたりは今では河口から5kmもさかのぼった位置にある。ただし後述するように、江戸時代までは「荒坂神社」は今よりも1kmばかり海に近い場所にあった。そして福部平野は古代には海であり、このあたりは波打ち際だったのだ。

その「波打ち際だった」のがいつ頃までなのかはわからないし、神功皇后が船でやって来たという2世紀と新羅人がやってきたという9世紀の間には500、600年のひらきがあるわけで、その間に海岸線が大きく変わっていても何ら不思議はない。

しかしまあ、海からやってきて漂着したという話が記録されているということと、今現在の神社が海から5kmも離れていることの間に、そんなに齟齬はないのかもしれない、ということだ。

古代の山陰道のルートのうち、蒲生峠と国府のあいだのルートがどうであったかははっきりわかっていない。おおまかに2つのルートの説があり、そのうち一方の説では、この荒坂を山陰道が通っていたことになっている。京都方面から来ると、荒坂を登り、榎峠と越えると国府へ入るのである。

荒坂神社のある八重原地区は、塩見川の河口から約5kmほどさかのぼったあたりにある。現代の感覚でいうと、塩見川の中流といったところだ。あたりを見回すと山奥の谷あいといった風情だが、実はこのあたりでも、海抜は10メートル以下である。それだけ川が平坦なのだ。

この八重原地区だが、江戸時代には「八重原村」といった。

八重原村はおとなりの矢谷村(やだに-)の支村として始まった。
江戸時代初期の正保年間(1644-1648年)に成立した『因幡国絵図』では、
矢谷村のなかに八重原村が描かれているが、
元禄7年(1694年)の史料では別村となっており、
江戸時代初期に分村して成立したようだ。

この矢谷村や八重原村を流れる川は、
塩見川の支流で、箭渓川という。
字面は異なるが、「箭渓」は「やだに」と読むので、矢谷村と通じるのである。

矢谷・八重原は、江戸時代は良質の竹の産地だった。
竹を何に使うのかというと、矢の軸にするのである。
なるほど、それで「矢谷」なのかと思う。

さて、江戸時代の矢谷村には、「荒坂山王」と「八幡宮」があったそうだ。
そして八重原村では産土神として三宝荒神牛頭天王を祀っていたと云う。

明治時代になり、神仏分離が行われると、

矢谷の「荒坂山王」は明治元年(1868年)に「荒坂神社」に改称した。
同時に八重原の三宝荒神は「荒神宮」となり、荒坂神社の摂社の扱いになったようだ。
これとは別に「八重原神社」というのがあったそうだが、これについてはよくわからない。

明治4年(1872年)、矢谷の「荒坂神社」は、八重原の「荒神宮」の境内地へ移転する。
これが今の荒坂神社だ。移転の理由はワカラナイ。
その後、明治44年(1911年)に八重原神社が荒坂神社に合祀されている。

一方、
矢谷の八幡宮は明治元年(1868年)に「箭渓神社」に改称、
さらに大正7年(1918年)に下流の高江地区にあった「立川神社」を合祀し、
大正9年(1919年)に「塩見神社」に改称した。

というわけで、現在の荒坂神社は、名前こそ「荒坂」を受け継いでいるものの、
神社の位置は延喜式の荒坂神社とは場所が異なっている。

さてこれが荒坂神社の参道である。

神社は谷底の低地ではなく、山の裾野にあるのだが、そこへ行く手前に線路があるのだ。

これは山陰本線、特急もバンバン通るれっきとした大幹線なのである。(かつては、島根県・鳥取県と京都・大阪を結ぶ特急がバンバン走っていましたが、いまは特急どころか鈍行さえもバンバン通りません)
ご覧のとおり、踏切どころか踏み板さえ無い。

そういえば数日前に、某山陰本線の線路に立ち入って写真を撮ってブログにあげた某元アイドル2名が書類送検されたといってニュースになっていたっけ。

ここも山陰本線なのだが、ここを渡ると何かの法律に抵触してしまうのだろうか、としばらく思い悩む。
だがこちらにはこの線路を渡る正当な事由があるのだ。物味遊山の遊びに来ているわけではない。

右を見て…

ちょっとこの写真では判らないが、遠くに見えている信号機は「赤」になっている。ということは、少なくとも左側から進行してくる列車は無さそうだ。
左を見て…

安全確認。
ということで。

だって、線路の方が後からできたんだし。

(神社の創建は古代(延喜式神名帳以前)、鉄道の開通は近代。)

ということで、神社へ進むのであります。
しばらくすすむと、鳥居が見えてきます。
いささか意外なことに、鳥居は石造りでした。
それもよくみると、笠木(笠石?)が中央で真っ二つに分割されています。

しかしその上に積もった苔が風格を感じさせます。

調べてみると、箭渓川の上流では
文政4年(1821年)に硯石や砥石の原石が発見され、石切りが行われたそうだ。

このあたりの箭渓川には石橋が架けられたといい、そのなかには文化五年(1808年)の銘があるそうだ。
鳥居の裏側には、「文化九甲年」とある。
年代から言うと、荒坂神社がここへ移ってくるよりも前のもの、ということになる。

ところで、文化9年(1812年)というのは、
干支で言うと「壬申」の年にあたるそうで、ぜんぜん「甲」ではない。

うーん、俺には意味がわからない。
「甲」は年じゃなく月か日付を意味するのかなあ?
鳥居の先には、「本社新築記念碑」がありました。

昭和12年(1937年)6月に起工、同12年に正遷座式とあります。

このあたりの山陰本線の開通が明治43年(1909年)だそうなので、鉄道工事とは関係はないのかな。
記念碑の先の石段のあたりで、社殿が見えてくる。
その石段の途中に狛犬さんがいます。
その相棒は、写真だとわかりにくいですが、下顎部が脱落しているようで、なんとも凄まじい様を呈しております。


石段を登り切った両側の石灯籠。

大正13年(1924年)2月吉日と読める。

さてお待ちかね、荒坂神社の拝殿です。

入母屋造だ。
柱や梁は存外シンプルで(昭和12年ごろの作だからそんなものか)、
しかし赤い瓦屋根の反りっぷりはさすが本場の神社という派手さが漂う。

拝殿の向こう側。
本殿は流造りだ。

境内は、線路を渡ったあたりの参道の雰囲気からは思いもつかないほど
広く平らに整備されていた。


箭渓川としては最も上流にある八重原村は、
江戸時代は矢の材料とする良質な竹の産地だったそうで、
(だから「矢谷」なのだ)
いまでも境内の際には青竹がニョキニョキ生えている。


かつては水道さえ整備されていたようだ。

ところで、拝殿の左奥手に見切れている、なにやら朽ちかけ風の建物だが

よく見るとなかなかちゃんとしている。

ていうか、この彫刻である。
昭和期の拝殿と比べても、著しい装飾が施されている。

ちょっと詳しいことは判らないが、
ここに本来からあったという荒神宮(三宝荒神)なのではないだろうか。

名称 荒坂神社 No

 

所在 鳥取県鳥取市福部町八重山328 TEL
FAX
例祭日
社格
祭神 大己貴命
少彦名命
素盞鳴尊
交通 JR山陰本線「福部」から約3km
社殿
境内     
氏子世帯 崇敬者数 
摂末社 荒神宮(三宝荒神)、八重原神社
備考 

西暦 元号 和暦 事項 備考
   
715? 霊亀 1     『播磨国風土記』に「阿良佐加比売」が登場。  
 
863 貞観 5 11 17 「荒坂浜」に新羅人が漂着。(『日本三代実録』)  
             
927 延長 5     『延喜式神名帳』に「荒坂神社」が採録。  
             
             
1694 元禄 4     八重原村、矢谷村が史料に登場。   
             
1868 明治 1     矢谷村の「荒坂山王」が「荒坂神社」に改称。   
          八重原村の「三宝荒神」が「荒神宮」に改称。  
1871 明治 4 3 25 「矢谷(箭渓)村字山王前」より現在地へ遷座。
1909 明治 43 山陰本線が開通。  
1910 明治 44     八重原村の「八重原神社」を荒坂神社へ合祀。  
1937 昭和 12 6 14 新社殿の起工。  
      12 26 新社殿の遷座式。   
     
※明治4年は太陽暦導入前

【参考資料】
『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』(平凡社、1992)
『日本地名大辞典31 鳥取県』(角川書店、1982)


【リンク】
*延喜式神社の調査(荒坂神社)
*八百万の神(荒坂神社)
*
 

参拝日:2011年07月31日
追加日:2017年02月14日