「カール・クリスチャン・ゲルトナー」の版間の差分
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2016年10月10日 (月) 21:37時点における版
目次
冒頭文
カール・クリスチャン・ゲルトナー(Karl Christian Gärtner,1712-1791)[1]は18世紀ドイツの文学者である。
文芸雑誌『ブレーメン寄与』を創刊した人物として知られている[2]。
生涯
ザクセン時代
ゲルトナーは1712年にザクセン選帝侯領のフライベルクで生まれた。マイセンの公立学校(de:Fürstenschule)[注 1]に学んだ。マイセンでの学友にはゲッレールト、ラーベナーらがおり、彼らとはライプツィヒ大学でも同窓生となる[3][4]。
ライプツィヒ大学に進学したゲルトナーは、当時のドイツ語圏の文学界を取り仕切っていたゴットシェートに師事した。そこではじめに取り組んだのがピエール・ベールの『歴史批評辞典 (Dictionnaire historique et critique)』やロランの『古代史』(Histoire ancienne[注 2])の翻訳である。また、ゴットシェートの信奉者であるシュヴァルベらとともに、文芸誌「Belustigungen des Verstandes und Witzes」(悟性と機知の楽しみ)(1741-1745年)に加わった[3][5][4]。
「ブレーメン寄与」創刊
しかしやがて、ゲルトナーはゴットシェートの教えに疑問を抱くようになった。ゲルトナーはゴットシェートに対抗し、新たに「Neuen Beyträgen zum Vergnügen des Verstandes und Witzes」(新・悟性と機知の喜びのための寄与)という文芸誌を1744年に創めた。これにはライプツィヒ大学の同僚クラーマー、ラーベナー、J・A・シュレーゲル、さらにはC・A・シュミット 、エーバート、ツァハーリエ、ギーゼケらが参加した[3]。
この雑誌は「ブレーメン寄与」(Bremer Beiträge)の通称で知られている。「ブレーメン寄与」にはのちにクロプシュトックも参加した[3]。
このほか、ゲルトナーは牧歌「ドイツ語: Die geprüfte Treue」(信なる忠義)を書いた。しかし、ゲルトナーは著作家としてではなく、批評家として高く評価されるようになった[3]。
1745年にゲルトナーはライプツィヒを去った。このときにクロプシュトックが友人であるゲルトナーを送る詩「An meine Freunde」をつくった。この詩のなかでクロプシュトックはゲルトナーに対して最大級の賛辞を送っており、クロプシュトックがゲルトナーを高く評価していたことがうかがえる。その後、「ブレーメン寄与」のメンバーから数多くの作品が生まれた[3]。
ブラウンシュヴァイク時代
その後、ゲルトナーはシェーンブルク家(de:House of Schönburg)の若いプリンスたちの家庭教師の職を得た。まもなく1746年にブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領に仕えていた神学者J・F・イェルーザレムの推挙によって、首都ブラウンシュヴァイクに新設されたカール大学(Collegium Carolinum[注 3])で教鞭をとるようになった。1748年にはカール大学で雄弁術と倫理学の博士号を取得。そのころゲルトナーはホラティウスやウェルギリウスの作品に傾倒した。1761年に、ゲルトナーは学生向けに「Sammlung einiger Reden」(弁論集)を著した[3][4]。
そのころもまだライプツィヒでの「ブレーメン寄与」の仲間との交流は続いており、ゲルトナーの推薦でツァハーリエらがブラウンシュヴァイクの宮廷に召し抱えられている[3]。
1775年に、聖ブラシウスに関するカノンを依頼された。その頃、「ブレーメン寄与」仲間のK・A・シュミットから書簡を受け取っている[3]。
1780年には、ゲルトナーが家庭教師として若い頃から教えてきたカール2世が、ゲルトナーを宮中顧問官として爵位を授けた。この頃、ゲルトナーは『ブレーメン寄与』の初期に掲載された詩をフランス語に翻訳し、注釈をつけて刊行した[3][4]。
1791年2月14日に没した[3]。
ゲルトナーは、詩や文学を生み出す才能には恵まれていなかったが、古典や詩法についての知識が豊富であり、文芸評論家として高い才能を示した。彼が創めた『ブレーメン寄与』は、18世紀後半のドイツ文学の大きな発展に寄与した。[4]。
脚注
注釈
- ↑ フュルスト(Fürst)は領邦君主、シューレは学校のこと。
- ↑ 原題は「Histoire ancienne des Égyptiens, des Carthaginois, des Assyriens, des Babyloniens, des Mèdes et des Perses, des Macédoniens, des Grecs」(古代のエジプト・カルタゴ・アッシリア・バビロニア・メディア・ペルシャ・マケドニア・ギリシアの歴史)といったが、「古代史」の通称で知られている。
- ↑ 「Carolinum」は、当時の統治者であるブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール1世の名からとられている。カール1世の名前の表記はドイツ語ではKarl、英語ではCharles、ラテン語ではCarolusとなる。
出典
- ↑ 坂田正治『クロプシュトックの抒情詩研究』,p39
- ↑ de:Universallexikon(ユニバーサル辞典),2012(オンライン版),Bremer Beiträge,2016年10月8日閲覧。
- ↑ 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 ドイツ歴史委員会(Historical Commission)・バイエルン科学アカデミー(Bavarian Academy of Sciences),ADB(Allgemeine Deutsche Biographie),Gärtner, Karl Christian,2016年10月10日閲覧。
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 ドイツ歴史委員会(Historical Commission)・バイエルン科学アカデミー(Bavarian Academy of Sciences),NDB(Neue Deutsche Biographie),Gärtner, Karl Christian,2016年10月10日閲覧。
- ↑ de:Meyers Konversations-Lexikon(メイヤーズ辞典),1905(オンライン版),Bremer Beiträge,2016年10月8日閲覧。
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- 『ドイツ文学史 原初から現代まで』,フリッツ・マルティーニ・著,高木実・尾崎盛景・棗田光行・山田広明・訳,三修社,1979,1980(第2版)
- 『クロプシュトックの抒情詩研究』,坂田正治・著,近代文芸社,1996,ISBN 4773354348