「シュマルカルデン戦争」の版間の差分

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(皇帝選挙のカール5世とそのライバル)
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マクシミリアン1世は1519年に没し、次期神聖ローマ皇帝が選ばれることになった。このとき候補となった者には、マクシミリアン1世の孫で[[スペイン君主一覧|スペイン王]]の[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カルロス1世]]、フランス王の[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]、[[ザクセン選帝侯]]の[[フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ3世]]などがいた。
 
マクシミリアン1世は1519年に没し、次期神聖ローマ皇帝が選ばれることになった。このとき候補となった者には、マクシミリアン1世の孫で[[スペイン君主一覧|スペイン王]]の[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カルロス1世]]、フランス王の[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]、[[ザクセン選帝侯]]の[[フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ3世]]などがいた。
  
彼らは7票を奪い合い、選挙資格をもつ7名の票を争って買収合戦を行ったが、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世は早々と辞退してカルロス1世の支持に回った。フランソワ1世はさかんにドイツ諸侯に手を回したが、イタリアの金融商人をバックにつけたハプスブルク家の勢いに敗れた。こうして1519年にカルロス1世が神聖ローマ皇帝'''カール5世'''となった。
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彼らは7票を奪い合い、選挙資格をもつ7名の票を争って買収合戦を行ったが、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世は早々と辞退してカルロス1世の支持に回った。フランソワ1世はさかんにドイツ諸侯に手を回したが、イタリアの金融商人をバックにつけたハプスブルク家の勢いに敗れた。こうして1519年にカルロス1世が神聖ローマ皇帝'''カール5世'''となった。カール5世はフランス語とスペイン語は解したものの、ドイツ語は不十分だった。
  
しかしカール5世はフランス語とスペイン語は解したものの、ドイツ語は不十分だった。
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フランスからみると、南のスペインと北のドイツの両方がハプスブルク家の支配下となり、挟撃される格好となった。フランスにとってもハプスブルク家にとっても、イタリアはフランス包囲網の完成の鍵となるため、イタリアを巡って両者の間で[[イタリア戦争]]が戦われた<ref group="注">イタリア戦争は、フランスとハプスブルク家の間で15世紀末から行われていた。皇帝選挙はその一環でもあった。</ref>。
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東方では[[オスマン帝国]]が[[スレイマン1世]]の時代となり、最盛期を迎えた。スレイマン1世は地中海沿岸から進出して東ヨーロッパを脅かした。
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フランス、トルコ、ドイツ諸侯やイギリスは、ハプスブルク家に対抗するために、宗教の壁を超えてしばしば協力をした。
  
 
===宗教改革===
 
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2016年12月12日 (月) 14:28時点における版

冒頭文

シュマルカルデン戦争(シュマルカルデンせんそう、Schmalkaldischer Krieg)は、1546年7月10日から1547年5月23日神聖ローマ帝国内において勃発した戦争である。カトリック教会を支持する神聖ローマ皇帝カール5世プロテスタント勢力(シュマルカルデン同盟)の間で争われた。

概要

背景

神聖ローマ帝国とハプスブルク家

12世紀の末から、神聖ローマ帝国では皇帝を選挙で決めるようになった。投票権を有する者を選帝侯ドイツ語: Kurfürst)といい、各地の有力諸侯と大司教にその特権が与えられた。13世紀の末に選帝侯は7名になった。その内訳は、聖界諸侯を代表してマインツ大司教ケルン大司教トリーア大司教、世俗諸侯としてザクセン選帝侯ブランデンブルク選帝侯プファルツ選帝侯(=ライン宮中伯)、ボヘミア王である。

厳密には、彼らが選ぶのは実質上のドイツ王であるが、そのドイツ王が「ローマ王」を名乗り、これがイタリアへ赴いてローマ教皇から戴冠されて神聖ローマ皇帝となる。しかし、北イタリアやイタリアが神聖ローマ帝国の支配を逃れ、選挙で選ばれたドイツ王がローマへ遠征することが事実上困難になっていった。

13世紀にオーストリア公国を本拠とするハプスブルク家から神聖ローマ皇帝が出ると、同家は勢力を拡大した。1508年にハプスブルク家のマクシミリアン1世がドイツ王に選ばれると、教皇による戴冠を経ないまま「神聖ローマ皇帝」を名乗るようになった。マクシミリアン1世のもと、ハプスブルク家は結婚と相続によって、オランダスペインナポリシチリアや中南米の植民地の支配権を手に入れ、ヨーロッパに巨大な版図を広げた。

ハプスブルク家はさまざまな勢力と争うことになった。フランスやイギリスの王はハプスブルク家と覇権を争った。東方ではトルコが隆盛期を迎え、さかんに東ヨーロッパへの侵入を図った。ドイツの諸侯は、ハプスブルク家の権力拡大を警戒し、各諸侯の独立性を守るために連携した。フランス、イギリス、トルコやドイツの諸侯は、ハプスブルク家に対抗するためにしばしば手を組んだ。

皇帝選挙のカール5世とそのライバル

マクシミリアン1世は1519年に没し、次期神聖ローマ皇帝が選ばれることになった。このとき候補となった者には、マクシミリアン1世の孫でスペイン王カルロス1世、フランス王のフランソワ1世ザクセン選帝侯フリードリヒ3世などがいた。

彼らは7票を奪い合い、選挙資格をもつ7名の票を争って買収合戦を行ったが、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世は早々と辞退してカルロス1世の支持に回った。フランソワ1世はさかんにドイツ諸侯に手を回したが、イタリアの金融商人をバックにつけたハプスブルク家の勢いに敗れた。こうして1519年にカルロス1世が神聖ローマ皇帝カール5世となった。カール5世はフランス語とスペイン語は解したものの、ドイツ語は不十分だった。

フランスからみると、南のスペインと北のドイツの両方がハプスブルク家の支配下となり、挟撃される格好となった。フランスにとってもハプスブルク家にとっても、イタリアはフランス包囲網の完成の鍵となるため、イタリアを巡って両者の間でイタリア戦争が戦われた[注 1]

東方ではオスマン帝国スレイマン1世の時代となり、最盛期を迎えた。スレイマン1世は地中海沿岸から進出して東ヨーロッパを脅かした。

フランス、トルコ、ドイツ諸侯やイギリスは、ハプスブルク家に対抗するために、宗教の壁を超えてしばしば協力をした。

宗教改革

「プロテスタント」の誕生

戦争前夜

シュマルカルデン同盟の結成

フランス情勢

宣戦布告

戦争の経過

序盤(1446年夏)

モーリッツの裏切り(1446年秋)

ザクセン選帝侯の巻き返し(1446年冬)

ミュールベルクの戦い(1447年春)

終戦(1447年春)

戦後

資料

A

B

C

D

E

F

G

日本語版

テンプレート:Infobox military conflict シュマルカルデン戦争(シュマルカルデンせんそう、Schmalkaldischer Krieg)は、1546年7月10日から1547年5月23日神聖ローマ帝国内において勃発した戦争である。カトリック教会を支持する神聖ローマ皇帝カール5世プロテスタント勢力(シュマルカルデン同盟)の間で争われた。

背景

1531年に反ローマ・反皇帝・反カトリックを掲げた諸侯の同盟がシュマルカルデン同盟である。神聖ローマ帝国では当時対オスマン帝国の戦費を集めることに躍起になっており、帝国内情は放置されていた。

先立つドイツ農民戦争でも皇帝は鎮圧しようとせず、諸侯自らこれらを鎮圧した。これらの不満から同盟は結成され、反カトリックを掲げた宗教戦争となった。無論、皇帝が帝国の内情に疎いことや弱体化が明白であったからということもある。オスマン帝国やフランス王国のカトリック支援なども理由の一つといえる。

1542年にはフランスが対神聖ローマ帝国戦争(第五次イタリア戦争)を開始し、皇帝が手薄になった事で同盟は蜂起した。これらの問題に直面した神聖ローマ皇帝カール5世は1544年に対フランス戦争を中止し、内乱の鎮圧に着手した。これにより1546年に皇帝と同盟の間ではっきりとしたシュマルカルデン戦争が始まった。

結果

1547年ミュールベルクの戦いでカール5世が勝利、同盟の指導者ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒヘッセン方伯フィリップを捕えてカトリック優位のアウクスブルク仮信条協定を結んだが、1552年にザクセン選帝侯モーリッツ(ヨハン・フリードリヒの又従弟でフィリップの婿、カール5世に就いて選帝侯になった)の反乱でパッサウ条約を締結した。

同年に反対派のアルブレヒト・アルキビアデスが反乱(第二次辺境伯戦争)を起こし、モーリッツが戦死したが1554年に終結したのを機に翌1555年アウクスブルクの和議が成立。これによりプロテスタントが帝国内で許されることになった。

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脚注

注釈

  1. イタリア戦争は、フランスとハプスブルク家の間で15世紀末から行われていた。皇帝選挙はその一環でもあった。

出典

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参考文献

  • 『概観ドイツ史』,秋山六郎兵衛/著,白水社,1938
  • 『ドイツ二千年史』,若林龍夫/著,靑梧堂,1941
  • 世界の教科書=歴史019『ドイツ民主共和国1』,ドレスデン教育大学、ライプツィヒ大学、D・ベーレント、H・ヴェルメス、S・ミュラー/原著,木谷勤、井上浩一、勝部裕/訳,ほるぷ出版,1983
  • 世界の教科書=歴史020『ドイツ民主共和国2』,ヴェルテンベルク・ハレ大学、H・ヒュープナー、H・ディーレ/原著,木谷勤、大島隆雄/訳,ほるぷ出版,1983

関連項目

外部リンク

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