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(アウグスブルク帝国会議での「信仰告白」(1530年))
(アウグスブルク帝国会議での「信仰告白」(1530年))
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会議に先立って、1530年2月24日、カール5世はついに神聖ローマ皇帝として正式に戴冠を果たした<ref name="HRRKV時代-207"/>。この日はカール5世の30歳の誕生日であると同時に、5年前の[[パヴィアの戦い]]でフランス相手に大勝利をおさめた戦勝記念日でもあった<ref name="HRRKV時代-207"/>。イタリアでの戴冠式を終えたカール5世は、3月にイタリアを離れ、オーストリアの[[インスブルック]]経由でドイツへ向かい、6月15日にアウグスブルクに到着した<ref name="HRRKV時代-207208"/>。
 
会議に先立って、1530年2月24日、カール5世はついに神聖ローマ皇帝として正式に戴冠を果たした<ref name="HRRKV時代-207"/>。この日はカール5世の30歳の誕生日であると同時に、5年前の[[パヴィアの戦い]]でフランス相手に大勝利をおさめた戦勝記念日でもあった<ref name="HRRKV時代-207"/>。イタリアでの戴冠式を終えたカール5世は、3月にイタリアを離れ、オーストリアの[[インスブルック]]経由でドイツへ向かい、6月15日にアウグスブルクに到着した<ref name="HRRKV時代-207208"/>。
  
ルター派からは、ザクセン選帝侯[[ヨハン (ザクセン選帝侯)|ヨハン]]、[[ヘッセン方伯]][[フィリップ1世 (ヘッセン方伯)|フィリップ1世]]、神学者[[フィリップ・メランヒトン|メランヒトン]]らが出席した<ref name="HRRKV時代-208210"/>。ルターは追放刑([[帝国アハト刑]])の身のためにザクセン選帝侯領を出ることができなかったので、帝侯領の中ではできるだけアウグスブルクに近い[[コーブルク]]に滞在して連絡をとりあった<ref name="HRRKV時代-208210"/>。スイスからは[[改革派教会|改革派]]を代表して[[フルドリッヒ・ツヴィングリ|ツヴィングリ]]その人がやってきた<ref name="HRRKV時代-208210"/>。プロテスタント諸侯に帯同してきた神学者たちはアウグスブルクで布教を行ったので、カール5世はこれをやめさせるように申し入れたが、諸侯らはこれを聞き入れようとはしなかった<ref name="HRRKV時代-208210"/>。
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ルター派からは、ザクセン選帝侯[[ヨハン (ザクセン選帝侯)|ヨハン]]、[[ヘッセン方伯]][[フィリップ1世 (ヘッセン方伯)|フィリップ1世]]、神学者[[フィリップ・メランヒトン|メランヒトン]]らが出席した<ref name="HRRKV時代-208210"/>。ルターは追放刑([[帝国アハト刑]])の身のためにザクセン選帝侯領を出ることができなかったので、選帝侯領の中ではできるだけアウグスブルクに近い[[コーブルク]]に滞在して連絡をとりあった<ref name="HRRKV時代-208210"/>。スイスからは[[改革派教会|改革派]]を代表して[[フルドリッヒ・ツヴィングリ|ツヴィングリ]]その人がやってきた<ref name="HRRKV時代-208210"/>。プロテスタント諸侯に帯同してきた神学者たちはアウグスブルクで布教を行ったので、カール5世はこれをやめさせるように申し入れたが、諸侯らはこれを聞き入れようとはしなかった<ref name="HRRKV時代-208210"/>。
  
 
6月20日に始まった{{仮リンク|アウグスブルク帝国議会 (1530年)|label=アウグスブルク帝国議会|en|Diet of Augsburg|de|Reichstage_zu_Augsburg#1530}}で、カール5世は最初に対トルコ戦争のために諸侯が協力するように求めた<ref name="HRRKV時代-207208"/>。そして、「宗教の混乱」を穏当に解決する考えを示し、各派の見解を文書で提出するように布告した<ref name="HRRKV時代-207208"/>。これに応え、ドイツ諸侯からなるルター派、スイスのツヴィングリ派、それに[[シュトラスブルク]]などの4つの[[自由都市]]がそれぞれ文書を提出した<ref name="HRRKV時代-208210"/>。
 
6月20日に始まった{{仮リンク|アウグスブルク帝国議会 (1530年)|label=アウグスブルク帝国議会|en|Diet of Augsburg|de|Reichstage_zu_Augsburg#1530}}で、カール5世は最初に対トルコ戦争のために諸侯が協力するように求めた<ref name="HRRKV時代-207208"/>。そして、「宗教の混乱」を穏当に解決する考えを示し、各派の見解を文書で提出するように布告した<ref name="HRRKV時代-207208"/>。これに応え、ドイツ諸侯からなるルター派、スイスのツヴィングリ派、それに[[シュトラスブルク]]などの4つの[[自由都市]]がそれぞれ文書を提出した<ref name="HRRKV時代-208210"/>。

2016年12月13日 (火) 01:56時点における版

冒頭文

概要

信仰の分裂と対立までの道のり

第二次シュパイヤー帝国議会での「プロテスタント」誕生(1529年)

アウグスブルク帝国会議での「信仰告白」(1530年)

1530年1月、カール5世は帝国議会の招集を要求した[1]。招集状によると、この帝国議会では、教会側とプロテスタント側の双方の見解をじっくり聞き、お互いの妥協点を探る場になるはずだった[1]。各地の諸侯らにとっては、この会議は歓迎できるものだと受け止められた[1]。この議会は6月にバイエルンのアウグスブルクで開催される見込みとなった[1]

会議に先立って、1530年2月24日、カール5世はついに神聖ローマ皇帝として正式に戴冠を果たした[2]。この日はカール5世の30歳の誕生日であると同時に、5年前のパヴィアの戦いでフランス相手に大勝利をおさめた戦勝記念日でもあった[2]。イタリアでの戴冠式を終えたカール5世は、3月にイタリアを離れ、オーストリアのインスブルック経由でドイツへ向かい、6月15日にアウグスブルクに到着した[1]

ルター派からは、ザクセン選帝侯ヨハンヘッセン方伯フィリップ1世、神学者メランヒトンらが出席した[3]。ルターは追放刑(帝国アハト刑)の身のためにザクセン選帝侯領を出ることができなかったので、選帝侯領の中ではできるだけアウグスブルクに近いコーブルクに滞在して連絡をとりあった[3]。スイスからは改革派を代表してツヴィングリその人がやってきた[3]。プロテスタント諸侯に帯同してきた神学者たちはアウグスブルクで布教を行ったので、カール5世はこれをやめさせるように申し入れたが、諸侯らはこれを聞き入れようとはしなかった[3]

6月20日に始まったアウグスブルク帝国議会English版Deutsch版で、カール5世は最初に対トルコ戦争のために諸侯が協力するように求めた[1]。そして、「宗教の混乱」を穏当に解決する考えを示し、各派の見解を文書で提出するように布告した[1]。これに応え、ドイツ諸侯からなるルター派、スイスのツヴィングリ派、それにシュトラスブルクなどの4つの自由都市がそれぞれ文書を提出した[3]

ルター派の文書はメランヒトンが起草した[3]。これが『アウグスブルク信仰告白』である[3]。この文書の下敷きになったのは、前年秋に作成されていた『シュヴァーバッハ条項』だった[3]。メランヒトンは、カトリックとの融和を意識して穏当な文書を作成し、教皇にも恭順する意向を示した[3]。ルターは『アウグスブルク信仰告白』の草案にも目を通したのだが、ルターからすると、メランヒトンの文書は我慢がならないほど妥協しており、メランヒトンに対して交渉を決裂させて帰ってくるように指示している[3]。しかしメランヒトンはこの文書を6月26日に議会へ提出した[3]

ツヴィングリは独自にまとめた『信仰の弁明』という文書を7月8日に提出した[3]。しかしこの文書は皇帝派からも、ルター派からも酷評された[3]。ルター派の中でも最も強硬なヘッセン方伯だけはこれに『信仰の弁明』に一定の理解を示したが、そのせいで身の危険が迫ったと感じ取り、議会開催中の8月6日にこっそり抜けだして領地へ帰った[3]

シュトラスブルク市はブッツァーカピトーDeutsch版という2人の神学者を派遣しており、彼らに文書を作成させた[3]。この文書にはコンスタンツリンダウメミンゲンの3都市も加わり、『四都市信仰告白Deutsch版』と呼ばれている[3]。これは7月9日に議会へ提出されたが、やはり不評をかった[3]

結局、ルター派の『アウグスブルク信仰告白』が主な検討対象となった[3]。約3ヶ月に渡り、カトリック側の神学者たちとメランヒトンとの間では批判と反論が繰り返されたが、妥協点は見いだせないままだった[3]。9月末にカール5世は最終的な議会の決議案をまとめたが、それは『アウグスブルク信仰告白』の有効性を認めず、ルターを異端としてその著書をすべて焼き、信者も一切認めないという1521年のヴォルムス勅令Deutsch版を踏襲したものだった[3]

同盟の結成

プロテスタントの諸勢力は、カール5世が正式に「神聖ローマ皇帝」として戴冠する頃から、同盟の結成について話し合ってきた。

1529年6月にはザクセン選帝侯領のローダッハにルター派の諸侯が集まり、


法理論上の課題

==

文書

A

B

C

D

E

F

G

H

I

脚注

注釈

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 『皇帝カール五世とその時代』,p207-208
  2. 2.0 2.1 『皇帝カール五世とその時代』,p207
  3. 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 3.12 3.13 3.14 3.15 3.16 3.17 3.18 3.19 『皇帝カール五世とその時代』,p208-210
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参考文献

  • 『概観ドイツ史』,秋山六郎兵衛/著,白水社,1938
  • 『ドイツ二千年史』,若林龍夫/著,靑梧堂,1941
  • 世界の教科書=歴史019『ドイツ民主共和国1』,ドレスデン教育大学、ライプツィヒ大学、D・ベーレント、H・ヴェルメス、S・ミュラー/原著,木谷勤、井上浩一、勝部裕/訳,ほるぷ出版,1983
  • 世界の教科書=歴史020『ドイツ民主共和国2』,ヴェルテンベルク・ハレ大学、H・ヒュープナー、H・ディーレ/原著,木谷勤、大島隆雄/訳,ほるぷ出版,1983

関連項目

外部リンク

カテゴリ

日本語版

テンプレート:宗教改革 シュマルカルデン同盟(シュマルカルデンどうめい, Schmalkaldischer Bund)とは、1530年神聖ローマ皇帝カール5世のもとで開かれたアウクスブルク帝国議会終了後の1531年に、シュマルカルデンde:Schmalkalden)においてプロテスタント諸侯と諸都市によって結成された反皇帝同盟。

歴史的展開

アウクスブルク帝国議会において『アウクスブルク信仰告白』の提出にこぎつけたものの、ルター支持派諸侯の足並みはそろわず、逆に団結したカトリックの等族たちからは不当に奪われた教会財産の返還要求が行われた。皇帝は執行猶予をつけた上でこれを認めたが、ルター支持派諸侯たちは自分たちの得た財産が奪い返されることを恐れて反皇帝同盟を結んだ。

主導者はヘッセン方伯フィリップザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒの2人であり、彼らと共に最初の同盟者となったのはアンハルトブレーメンブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国マクデブルクシュトラスブルクウルムの各都市であった。後にコンスタンツなどの諸都市もこれに加わった。

1532年になるとシュマルカルデン同盟はフランスフランソワ1世と同盟し、1538年にはデンマークとの連携にも成功した。シュマルカルデン同盟の領内ではカトリック教会の財産は次々と没収され、司教やカトリック貴族は追放された。こうしてドイツ国内でルター派の勢力が拡大することになった。

1544年になってフランソワ1世との和約の締結に成功したカール5世はシュマルカルデン同盟と決着をつけるため、以前は敵対関係にあったローマ教皇パウルス3世及びバイエルンとの同盟を実現させた。さらにカール5世の巧みな政治手腕は同盟の盟主ともいえるヘッセン方伯フィリップの婿でヨハン・フリードリヒの又従弟のザクセン公モーリッツを味方にすることに成功した。1546年、シュマルカルデン同盟はついにカール5世に向かって宣戦布告し、戦端を開いた。これがシュマルカルデン戦争である。

カール5世は困難な状況をものともせずに各地で同盟軍を撃破し、1547年4月にはミュールベルクの戦いで同盟軍を再び打ち破り、指導者であったヨハン・フリードリヒとフィリップの2人を捕虜とした。シュマルカルデン同盟を崩壊させたカール5世は、アウクスブルクに帝国諸侯、都市代表者を集め、ルター派を異端とする暫定規定の受諾を迫った。しかし、プロテスタントだったモーリッツはこのカール5世のやり方を不満とし、反旗を翻してアウクスブルクを強襲した。カール5世はインスブルックに逃亡し、弟のフェルディナント1世にモーリッツとの和平交渉を委ねた。

1552年8月、パッサウでルター派を容認する旨の和平条約(パッサウ条約)が結ばれた。こうして最終的に1555年にアウクスブルクでアウクスブルクの和議が結ばれるが、これはパッサウ条約を原型としたものだった。

シュマルカルデン同盟のメンバー

関連項目

外部リンク

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