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(フェーデと永久ラント平和令とドイツの騎士たち)
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神聖ローマ帝国では、15世紀に国政改革が進められ、帝国支配に関する法制度の整備が行われた。1495年に[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]が定めた[[ラント平和令]]({{仮リンク|永久ラント平和令|de|Ewiger Landfriede|en|Ewiger Landfriede}})によって、この制度は一定の完成をみた。この平和令は帝国内の諸々の自立勢力と皇帝が取り交わした協約の形をしており、帝国内には法と秩序に基づく支配体系が確立されるとともに、諸勢力によって構成される[[帝国議会 (神聖ローマ帝国)|帝国議会]]の位置づけが明確にされた<ref name="国制史-26"/><ref name="国制史-2833"/>。
 
神聖ローマ帝国では、15世紀に国政改革が進められ、帝国支配に関する法制度の整備が行われた。1495年に[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]が定めた[[ラント平和令]]({{仮リンク|永久ラント平和令|de|Ewiger Landfriede|en|Ewiger Landfriede}})によって、この制度は一定の完成をみた。この平和令は帝国内の諸々の自立勢力と皇帝が取り交わした協約の形をしており、帝国内には法と秩序に基づく支配体系が確立されるとともに、諸勢力によって構成される[[帝国議会 (神聖ローマ帝国)|帝国議会]]の位置づけが明確にされた<ref name="国制史-26"/><ref name="国制史-2833"/>。
  
これにより、大衆を直接支配し、税を徴収したり徴兵を行ったりするのは領邦(世俗諸侯である領邦君主や聖界諸侯である大司教など)や[[帝国自由都市]]が担うことになった。この意味で、帝国の直属下にあるのは領邦であり、大衆は間接的な臣民ということになった<ref name="国制史-14"/>。この制度が出来上がるまでには有力な諸侯の意向が働いており、大諸侯ほど有利で、中小諸侯の力は弱められた<ref name="国制史-2833"/>。とりわけ下級貴族である騎士層の身分の取り扱いはあいまいで、きちんと定められていなかった<ref name="国制史-14"/>。
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これにより、大衆を直接支配し、税を徴収したり徴兵を行ったりするのは領邦(世俗諸侯である領邦君主や聖界諸侯である大司教など)や[[帝国自由都市]]が担うことになった。この意味で、帝国の直属下にあるのは領邦であり、大衆は間接的な臣民ということになった<ref name="国制史-14"/>。この制度が出来上がるまでには有力な諸侯の意向が働いており、大諸侯ほど有利で、中小諸侯の力は弱められた<ref name="国制史-2833"/>。とりわけ下級貴族である騎士層の身分の取り扱いはあいまいで<ref name="国制史-14"/>、帝国直属ではあるようだったが<ref name="国制史-39"/>、きちんと定められていなかった<ref name="国制史-14"/>。
  
 
ところで「ラント平和令」というものは、1495年以前にも度々発布されたものである。そのもともとの趣旨は、神聖ローマ帝国内における「[[フェーデ]]」(私闘)を禁じるためのものだった。フェーデというのは合法性をもつ[[決闘]]の一種で、元来は適切な手続きによって問題解決を武力で行う権利(フェーデ権)であったが、やがて身代金目的の誘拐や略奪の方便として横行するようになった。これを禁止するために「ラント平和令」がしばしば発布されたのだが、実際にはあまり効果はなかった{{refnest|group="注"|「靴の大きさだけの土地と人民ももたず、一片の土地もかれの名において治められておらず、かれがそこから収入を引き出すこともない<ref name="国制史-13"/>」([[:de:Johann Jacob Moser|Johann Jacob Moser]]による評)と言われたように、神聖ローマ帝国、もしくは神聖ローマ皇帝は、その帝国域内に対して直轄的な税収や軍事力を有していなかった<ref name="国制史-13"/>。ラント平和令と司法権を維持しようにも、そのための財源も人員もなく、司法権を保障するための武力もなく、実効性がなかった<ref name="国制史-2833"/><ref name="国制史-88"/>。}}。1495年の「永久ラント平和令」は、この措置を恒久化しようという名目で結ばれたものだった<ref name="国制史-16"/><ref name="国制史-2833"/>。これにより帝国内の司法権が確立され、その司法権を維持するために各領邦君主の権利や義務が法制化されたのだが、実際にはその後も相変わらず「フェーデ」は無くならず、その解決も帝国法に基づく司法によってではなく、地元勢力による直談判や武力行使によっていた<ref name="国制史-2833"/>。
 
ところで「ラント平和令」というものは、1495年以前にも度々発布されたものである。そのもともとの趣旨は、神聖ローマ帝国内における「[[フェーデ]]」(私闘)を禁じるためのものだった。フェーデというのは合法性をもつ[[決闘]]の一種で、元来は適切な手続きによって問題解決を武力で行う権利(フェーデ権)であったが、やがて身代金目的の誘拐や略奪の方便として横行するようになった。これを禁止するために「ラント平和令」がしばしば発布されたのだが、実際にはあまり効果はなかった{{refnest|group="注"|「靴の大きさだけの土地と人民ももたず、一片の土地もかれの名において治められておらず、かれがそこから収入を引き出すこともない<ref name="国制史-13"/>」([[:de:Johann Jacob Moser|Johann Jacob Moser]]による評)と言われたように、神聖ローマ帝国、もしくは神聖ローマ皇帝は、その帝国域内に対して直轄的な税収や軍事力を有していなかった<ref name="国制史-13"/>。ラント平和令と司法権を維持しようにも、そのための財源も人員もなく、司法権を保障するための武力もなく、実効性がなかった<ref name="国制史-2833"/><ref name="国制史-88"/>。}}。1495年の「永久ラント平和令」は、この措置を恒久化しようという名目で結ばれたものだった<ref name="国制史-16"/><ref name="国制史-2833"/>。これにより帝国内の司法権が確立され、その司法権を維持するために各領邦君主の権利や義務が法制化されたのだが、実際にはその後も相変わらず「フェーデ」は無くならず、その解決も帝国法に基づく司法によってではなく、地元勢力による直談判や武力行使によっていた<ref name="国制史-2833"/>。
 
 
 
 
 
  
 
===ドイツの人文主義と反ローマの機運と宗教改革===
 
===ドイツの人文主義と反ローマの機運と宗教改革===

2016年12月25日 (日) 02:42時点における版

フランツ・フォン・ジッキンゲンDeutsch版English版(1481.03.02-1523.05.07)

冒頭文

騎士戦争ドイツ語: Ritterkrieg)は、

フェーデ(私闘)

概要

背景

フェーデと永久ラント平和令とドイツの騎士たち

神聖ローマ帝国では、15世紀に国政改革が進められ、帝国支配に関する法制度の整備が行われた。1495年にマクシミリアン1世が定めたラント平和令永久ラント平和令Deutsch版English版)によって、この制度は一定の完成をみた。この平和令は帝国内の諸々の自立勢力と皇帝が取り交わした協約の形をしており、帝国内には法と秩序に基づく支配体系が確立されるとともに、諸勢力によって構成される帝国議会の位置づけが明確にされた[1][2]

これにより、大衆を直接支配し、税を徴収したり徴兵を行ったりするのは領邦(世俗諸侯である領邦君主や聖界諸侯である大司教など)や帝国自由都市が担うことになった。この意味で、帝国の直属下にあるのは領邦であり、大衆は間接的な臣民ということになった[3]。この制度が出来上がるまでには有力な諸侯の意向が働いており、大諸侯ほど有利で、中小諸侯の力は弱められた[2]。とりわけ下級貴族である騎士層の身分の取り扱いはあいまいで[3]、帝国直属ではあるようだったが[4]、きちんと定められていなかった[3]

ところで「ラント平和令」というものは、1495年以前にも度々発布されたものである。そのもともとの趣旨は、神聖ローマ帝国内における「フェーデ」(私闘)を禁じるためのものだった。フェーデというのは合法性をもつ決闘の一種で、元来は適切な手続きによって問題解決を武力で行う権利(フェーデ権)であったが、やがて身代金目的の誘拐や略奪の方便として横行するようになった。これを禁止するために「ラント平和令」がしばしば発布されたのだが、実際にはあまり効果はなかった[注 1]。1495年の「永久ラント平和令」は、この措置を恒久化しようという名目で結ばれたものだった[7][2]。これにより帝国内の司法権が確立され、その司法権を維持するために各領邦君主の権利や義務が法制化されたのだが、実際にはその後も相変わらず「フェーデ」は無くならず、その解決も帝国法に基づく司法によってではなく、地元勢力による直談判や武力行使によっていた[2]

ドイツの人文主義と反ローマの機運と宗教改革

人物

ジッキンゲン

フッテン

エコランパッド

ブッツァー

a

「戦争」の経過

末路

プロテスタンティズムを政治目的に利用した最も初期の事例

1522年

騎士の乱

ウルリヒ・フォン・ジッキンゲン(1481-1523)

傭兵騎士。西ヨーロッパ中で騒乱の要因となっていた。働き口を求めて。 戦争がなくなり傭兵となる機会がないと、盗賊として実力行使に訴えていた。

ジッキンゲンは宗教改革を、戦争を起こして傭兵としての働き口を得るか、略奪を行う戦歳いつぐうの好機ととらえた。


ウルリッヒ・フォン・フッテン(1488-1523)

人文主義者。ジッキンゲンを理論面で支えたクズ。

ジッキンゲンは傭兵を募り、プロテスタントに加勢するという口実で、カトリック司祭たちに「私闘」を宣言し、さらに、帝国の7つの選帝侯領の中では最も弱小な大司教都市トリーアに攻撃をしかけた。

攻撃側が驚いたのは、都市側が徹底抗戦を決め込んだことである。他の諸侯も急遽支援にかけつけた。ジッキンゲンは死んだ。フッテンはスイスに逃亡。のちに梅毒で死んだ。ヨーロッパにおける梅毒の最初の死者とされている。


ルターは、騎士の乱に踊りき、『世俗の権威について』を書いた。この中で騎士の乱を断罪し、人民は上に立つ権威に従う義務があると説いた。しかしこれは、のちにプロテスタント諸侯がカトリックの皇帝の侵略から領地を守る際の足枷になった。

[8]


[9] 帝国騎士(ライヒスリッター) 近世には「フライヘル」と呼ばれるようになる は、帝国直属の身分でありながら、帝国議会での票決に参加する資格がなかった。 下級貴族

マクシミリアン1世の頃に確立された帝国議会の中で、

帝国の南部や西部に多かった。

16世紀初頭に政治的独立を目指す、

ジッキンゲンに率いられ、聖界諸侯領の覆滅を唱えた

あっけない敗北

領邦君主の支配権強化の前に存在が薄い

「永久ラント平和令」で帝国法制上の正規の身分として認められるようになる。

16世紀の後半。 地方ごとに整備区分され、騎士司令官(リッターハウプトマン)がおかれ、所領の内部における領主裁判権や宗教上の罰令権も認められた。軍役と帝国税を免除される代わり、上納金(スプシディア・カリタティヴァ)を皇帝に直接納めた。


[10]

ルター主義による改革が1521年から始まる。ヴィッテンベルクで。しかしザクセン選帝侯の思惑に反して、聖画像の破壊など過激にすぎる結果となり、選帝侯はルターを呼び戻して説得させ、これを押さえ込んだ。

「寛容と忍耐」によってじっくり確実な改革を進めようとするルターからすると、急進的で危険な運動。「ヴィッテンベルク騒擾」


騎士階級出身の人文主義者フッテン

騎士たちは領邦国家形成や軍事技術発展のなかで騎士固有の軍事的立場を喪失し、経済的にゆきずまっていった。彼らはカトリック教会体制の動揺につけこみ、聖界諸侯領を世俗化した上で、自分たちの力で帝国改革をはたし地位の回復をはかろうとして騎士戦争を起こした。

1522年9月、軍事指導者のジッキンゲンは、最大の聖界諸侯であったトリーア大司教を攻撃したが敗北。翌年には逆に諸侯軍によって居城を攻撃され徹底的に破壊された。

宗教改革を利用した改革の望みは果たせず、むしろ騎士たちの没落を早めることになった。

フッテンは敗北後、ツヴィングリを頼ってスイスに落ち延び、チューリッヒに行った。そこでチューリッヒ湖のうウーフェナウ島に住み、1523年に病死した。


[11] フッテンは人文主義者。 人文主義者ははじめ、「僧侶の喧嘩」と冷ややかに眺めていた。 ライプツィヒ討論以降、聖職者の腐敗を攻撃していた。 フッテンはルターに書簡を送り、「どんなことがおころうとも私が傍についております。われらは共通の自由を擁護しようではありませんか」とルター支持を明らかにした。


[12] ドイツの人文主義の一部は 反聖職者主義 鮮明に打ち出していた

イタリアより遅れて始まり、少し違う形に深化した。ルネサンスの一分野として「源泉にかえれ」だが、その源泉はイタリアの古代ではなく、ドイツの古代である。そのためドイツ史の研究を始めた。愛国主義的になっていった。国民的人文主義。

言語の面での人文主義は、ギリシア語。ラテン語。ヘブライ語の言語を正しく理解し、それを聖書研究にあてようというグループもあった。キリスト教的人文主義。代表がエラスムス。

エラスムスはカトリック教会の教義体系や救済制度に疑問を持つようになり、批判を行った。宗教改革者に影響を与えた。


フッテンは、騎士階級出身。『対話集』(1520)により、愛国主義の立場を鮮明にしつつ、徹底したローマ教会批判。ルターが宗教改革を始める前から、反ローマの機運は広がっていた。

ラント平和令に反するジッキンゲンのフェーデを解決したのは、皇帝権でもないし、司法権でもなく、示談だった。 [2]

脚注

注釈

  1. 「靴の大きさだけの土地と人民ももたず、一片の土地もかれの名において治められておらず、かれがそこから収入を引き出すこともない[5]」(Johann Jacob Moserによる評)と言われたように、神聖ローマ帝国、もしくは神聖ローマ皇帝は、その帝国域内に対して直轄的な税収や軍事力を有していなかった[5]。ラント平和令と司法権を維持しようにも、そのための財源も人員もなく、司法権を保障するための武力もなく、実効性がなかった[2][6]

出典

  1. 『ドイツ国制史』,p26
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 『ドイツ国制史』,p28-33「1488年から1500年にいたる等族主導の帝国改革」
  3. 3.0 3.1 3.2 『ドイツ国制史』,p14
  4. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「.E5.9B.BD.E5.88.B6.E5.8F.B2-39」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  5. 5.0 5.1 『ドイツ国制史』,p13
  6. 『ドイツ国制史』,p88
  7. 『ドイツ国制史』,p16
  8. 『はじめての宗教改革』,p92-93「騎士の乱」
  9. 『ドイツ史1』p401-402「帝国議会の整備」
  10. 『ドイツ史1』p439-441「ヴォルムス帝国議会」
  11. 『ドイツ史1』p429-431「マルティン・ルター」
  12. 『ドイツ史1』p428-429「人文主義」

参考文献

関連項目

外部リンク

カテゴリ