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'''カッペル戦争'''は16世紀前半に[[スイス]]で起きた宗教戦争である。
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===参考文献===
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*新版世界各国史14『スイス・ベネルクス史』,森田安一/編,[[山川出版社]],1998,2009(1版3刷),ISBN 978-4-634-41440-2
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*『精説スイス史』,[[瀬原義生]]/著,[[文理閣]],2015,ISBN 978-4-89259-770-1
 
== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
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*フィルメルゲン戦争
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:*{{仮リンク|第一次フィルメルゲン戦争|de|Erster Villmergerkrieg|en|First War of Villmergen}}(1656)
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:*{{仮リンク|トッゲンブルク戦争|de|Toggenburgerkrieg|en|Toggenburg War|label=第二次フィルメルゲン戦争}}(1712)
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2017年1月5日 (木) 21:39時点における版

カッペル戦争は16世紀前半にスイスで起きた宗教戦争である[1]

スイスの宗教改革者フルドリッヒ・ツヴィングリ(1484-1531)に率いられたチューリッヒを中心とするプロテスタント派が、森林五州を中心とするカトリック派と対立して起きた。ツヴィングリの企ては14世紀以来スイスを結束させてきたスイス誓約同盟Deutsch版English版から、プロテスタント地方を離脱させることになりかねなかった。1529年には軍事衝突は回避されたが、1531年には戦闘になり、チューリッヒ側が敗れてツヴィングリも討ち取られた。プロテスタント側の敗北とツヴィングリの死によってこれは実現しなかった。その後カッペルの和議が結ばれ、両派の共存が図られるようになった[3][1]

その後スイスではジュネーヴジャン・カルヴァンが現れ、カルヴァン派が成長した。一方、カッペルの和議はカトリックに有利であったため、17世紀のフィルメルゲン戦争の遠因になった[1][4]

脚注

注釈

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 『スイス・ベネルクス史』,p72-74
  2. 『精説スイス史』,p99-100「第一次カッペル戦争」
  3. 3.0 3.1 『精説スイス史』,p102-107「第二次カッペル戦争」
  4. 『精説スイス史』,p83-111「宗教改革の世紀」

参考文献

関連項目

  • フィルメルゲン戦争

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