「ジョージ1世」の版間の差分
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ジョージ1世の母親は[[ゾフィー・フォン・デア・プファルツ]](1630年-1714年)といい、[[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]](1596年 - 1632年)の娘である。フリードリヒ5世は1610年に父から[[ライン宮中伯]]([[プファルツ選帝侯]])を受け継ぎ、1613年にイギリスの王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]<ref group="注">正確には、スコットランドの王ジェームズ6世が、イングランドの王として即位してジェームズ1世を名乗り、同時にアイルランドの王ジェームズ1世となったもの。</ref>の娘[[エリザベス・ステュアート]](エリーザベト・シュトゥアルト)と結婚した。 | ジョージ1世の母親は[[ゾフィー・フォン・デア・プファルツ]](1630年-1714年)といい、[[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]](1596年 - 1632年)の娘である。フリードリヒ5世は1610年に父から[[ライン宮中伯]]([[プファルツ選帝侯]])を受け継ぎ、1613年にイギリスの王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]<ref group="注">正確には、スコットランドの王ジェームズ6世が、イングランドの王として即位してジェームズ1世を名乗り、同時にアイルランドの王ジェームズ1世となったもの。</ref>の娘[[エリザベス・ステュアート]](エリーザベト・シュトゥアルト)と結婚した。 |
2017年10月18日 (水) 15:16時点における版
目次
出自
ジョージ1世(George I)はもともとドイツ(神聖ローマ帝国)の生まれである。イギリスの王位に就くまでは、ドイツではゲオルク・ルートヴィヒ(Georg Ludwig)と呼ばれていた。
父親はエルンスト・アウグスト(1629年 - 1698年)という。父は
前史
ジョージ1世(ゲオルク・ルートヴィヒ)(1660 - 1727)の家柄 | |||
(父)エルンスト・アウグスト (1629 - 1698)(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家) |
(祖父)カレンベルク侯(1635-1641) ゲオルク(1582 - 1641) |
リューネブルク侯(1559-1592) ヴィルヘルム(1535 - 1592) | |
デンマーク=ノルウェー王女 ドロテア(1546 - 1617) | |||
(祖母) アンナ・エレオノーレ(1601 - 1659) |
ヘッセン=ダルムシュタット方伯(1596-1626) ルートヴィヒ5世(1577 - 1626) | ||
ブランデンブルク選帝侯の娘 マグダレーナ(1582 - 1616) | |||
(母)ゾフィー (1630 - 1714) |
(祖父)プファルツ選帝侯(1610-1623) フリードリヒ5世(1596 - 1632) |
( - ) | |
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(祖母) ( - ) |
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(兄弟姉妹) |
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(その他の主な血縁者) |
母のゾフィー
ジョージ1世の母親はゾフィー・フォン・デア・プファルツ(1630年-1714年)といい、フリードリヒ5世(1596年 - 1632年)の娘である。フリードリヒ5世は1610年に父からライン宮中伯(プファルツ選帝侯)を受け継ぎ、1613年にイギリスの王ジェームズ1世[注 1]の娘エリザベス・ステュアート(エリーザベト・シュトゥアルト)と結婚した。
1619年にボヘミアでカトリックとプロテスタントの対立に起因する政変があり(プラハ窓外投擲事件)、カトリックだったハプスブルク家のフェルディナンドが王位を追われた。ボヘミアのプロテスタント貴族は、ハプスブルク家に対抗しうるプロテスタント君主をボヘミア王に戴こうと、フリードリヒ5世を新ボヘミア王に迎えた。しかしハプスブルク家は軍事力によってすぐにフリードリヒ5世からボヘミア王位を奪い返し、さらにフリードリヒ5世はもともと有していたプファルツ選帝侯位までも奪われてオランダのハーグに亡命する羽目になった。これらの一連の政変は三十年戦争(1618年 - 1648年)の序章となった。
父のエルンスト・アウグスト
ジョージ1世の父親はエルンスト・アウグスト(1629年 - 1698年)という。もともとはブラウンシュヴァイク=リューネブルク家の分家の末弟として生まれ、公位を受け継ぐ見込みがない立場だった。
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国の歴史は12世紀に遡る。公国は主にニーダーザクセンと呼ばれるドイツ北西部に複数の領地を有しており、ブラウンシュヴァイク、ヴォルフェンビュッテル、アインベック、グルーベンハーゲン、ゲッティンゲン、リューネブルク、ツェレなどから構成されていた。公国は親子や兄弟間で領土の分割や合併を繰り返していて、時代によってさまざまに編成されてきた[注 2]。
1634年にフリードリヒ・ウルリヒが没すると、嗣子がいなかったので領地は分割され、ヴォルフェンビュッテル侯領はアウグスト2世に、カレンベルク侯領とゲッティンゲン侯領はゲオルク(1582年 - 1641年)が継承した。このゲオルクがジョージ1世の父方の祖父である。このときゲオルクは首都をカレンベルクからライネ川沿いのハノーファーへ遷した。
ゲオルクの男子のうち成人したのは4人いた。クリスティアン・ルートヴィヒ(1622年 - 1665年)、ゲオルク・ヴィルヘルム(1624年 - 1705年)、ヨハン・フリードリヒ(1625年 - 1679年)、エルンスト・アウグスト(1629年 - 1698年)である。このうち、末弟のエルンスト・アウグストがジョージ1世の実父であり、2番めの兄ゲオルク・ヴィルヘルムがジョージ1世の妻の父(ジョージ1世からみると亜父)である。
ゲオルクが1641年に死去すると、長男のクリスティアン・ルートヴィヒ(1622年 - 1665年)が領地を受け継いだ。まもなく、リューネブルク侯領を持っていたフリードリヒ4世(1574年 - 1648年)が没した。フリードリヒ4世は、ゲオルクの兄であり、クリスティアン・ルートヴィヒからみると伯父にあたる。フリードリヒ4世には跡継ぎとなる子がいなかったため、その領地はクリスティアン・ルートヴィヒが受け継ぐことになった。クリスティアン・ルートヴィヒはこのとき、自らはリューネブルク侯領を受け継ぐことにして、父から受け継いだカレンベルク侯領を弟のゲオルク・ヴィルヘルム(1624年 - 1705年)に譲った。このゲオルク・ヴィルヘルムは、ジョージ1世の母方の祖父である。
三十年戦争とウェストファリア条約
1648年に三十年戦争が集結し、ニーダーザクセンの都市オスナブリュックでウエストファリア条約が締結された。これにより、長らくハーグに亡命していた元プファルツ選帝侯家は復帰を認められた[注 3]。フリードリヒ5世はすでに没していたので、その子カール1世ルートヴィヒがプファルツ選帝侯となった。その妹であるゾフィーも兄に従ってプファルツに帰国を果たした。
プファルツ選帝侯の実妹となったゾフィーは、カレンベルク侯となったブラウンシュヴァイク=リューネブルク家のゲオルク・ヴィルヘルムと婚約していた。ところが、ゾフィーが天然痘の後遺症で美貌を失うと、ゲオルク・ヴィルヘルムは婚約を破棄しようとした。そこで、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家ではゲオルクの末弟であるエルンスト・アウグストを代わりの婿とした。このときゲオルク・ヴィルヘルムは、婚約破棄の条件として、生涯を独身のまま過ごすことを約束させられた。そうすれば、いずれゲオルク・ヴィルヘルムが死去したときには、その所領は一族の兄弟かその男子のもとに留まるからである。
1658年にエルンスト・アウグストとゾフィーは結婚した。当時のエルンスト・アウグストは4兄弟の末弟であり、長兄クリスティアン・ルートヴィヒ(リューネブルク侯)、次兄ゲオルク・ヴィルヘルム(カレンベルク侯領)と比べると、特別な公位を持たない身分だった。(3番目の兄であるヨハン・フリードリヒはカトリックに改修していて、伝統的なプロテスタントであるブラウンシュヴァイク=リューネブルク家の後継者としては不適格とみなされていた。)1660年に長男が誕生し、ゲオルク・ルートヴィヒ(Georg Ludwig)と名付けられた。これがのちのジョージ1世である。この時点では、クリスティアン・ルートヴィヒ、ゲオルク・ヴィルへルム(独身)、ヨハン・フリードリヒには後継ぎとなる男子がいなかったので、ゲオルク・ルートヴィヒ(ジョージ1世)はブラウンシュヴァイク=リューネブルク家の所領を相続する唯一の次世代という存在だった。1661年に、父エルンスト・アウグストにはオスナブリュック司教位(オスナブリュック司教)が与えられた。これはウェストファリア条約によって、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家に任命権が与えられたものだった[注 4]。
父がリューネブルク公となるまで
1665年にクリスティアン・ルートヴィヒが嗣子がないまま没すると、弟ゲオルク・ヴィルヘルムがリューネブルク侯領を相続した。ゲオルク・ヴィルヘルムは自らリューネブルク侯領を領し、カレンベルク侯領は3番目の弟であるヨハン・フリードリヒ(1625年 - 1679年)に譲った。
リューネブルク侯となったゲオルク・ヴィルヘルムは、以前の約束に基づき、独身のままだった。しかし1666年に愛人エレオノール・ドルブリューズとのあいだにゾフィア・ドロテアという娘を設けた。ゲオルクはエレオノールと正式には結婚をしておらず、ゾフィア・ドロテアも正式な子として認められていなかったが、もしも両者のあいだに男子が生まれたり、ゾフィア・ドロテアを認知してよそへ嫁いだりするとリューネブルク家の所領が外部へ流出する危険があった。そのため一族は二人の結婚を防ごうとしたが、ゲオルク・ヴィルヘルムは1676年に妻子の認知を強行してしまった。
一方、カレンベルク侯となったヨハン・フリードリヒは1668年に結婚した。結婚相手は、エルンスト・アウグストの母の姪にあたる女性である。ヨハンも子どもを設けたので、ゲオルク・ルートヴィヒ(ジョージ1世)はもはや一族のうちで唯一の相続予定者とはいえない立場となった。
しかしヨハン・フリードリヒの4人の子はいずれも娘で、男子を設けないまま1679年に没した。ヨハン・フリードリヒが有していたカレンベルク侯の地位は弟のエルンスト・アウグストが受け継ぐことになった。
もしも結婚して跡継ぎが生まれてしまうと、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家の所領が他所へ流出してしまう可能性があるためである。
ジョージ1世の父であるエルンスト・アウグスト(1629年 - 1698年)は末弟であり、ジョージ1世が1660年にエルンスト・アウグストの長男として生まれた時点では、エルンスト・アウグストがゲオルクからカレンベルク侯領を受け継ぐ見込みはほとんど無かった。翌1661年に、ゲオルクはエルンスト・アウグストをに任命した。
ジョージの母であるゾフィーはその亡命先ハーグで1630年に生まれている。1648年に三十年戦争が終わり、ウエストファリア条約が締結された。
さらに1619年にボヘミア王も兼任するようになったのだが、すぐに攻め込まれて1620年にボヘミア王位を失い、さらに1623年にはプファルツ選帝侯位も剥奪された。そのためフリードリヒ5世はオランダのハーグに亡命して暮らしていた。
ものの、いずれも女子だった。
この結果、この家系で領地の継承権を有する若い男子は
を中心とするブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領、
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家では、1635年に所領の分割を行い、カレンベルク侯領とゲッティンゲン侯領を
ヴィルヘルム(1535年 - 1592年)
い、ゲオルクが誕生した1660年の時点では、
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公エルンスト・アウグストと [1]
脚注
注釈
- ↑ 正確には、スコットランドの王ジェームズ6世が、イングランドの王として即位してジェームズ1世を名乗り、同時にアイルランドの王ジェームズ1世となったもの。
- ↑ この公国はもともとドイツの古い家系であるヴェルフ家が有していた。その領地は主にブラウンシュヴァイクとリューネブルクから成ったので「ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家」と称した。
- ↑ 正確には、フリードリヒ5世が失った選帝侯位はマクシミリアン1世に与えられており、これは「バイエルン選帝侯」位としてそのまま有効とされた。カール1世ルートヴィヒは「新設の」プファルツ選帝侯位を与えられるということになった。
- ↑ 前任のオスナブリュック司教が1661年に没したため。オスナブリュック司教は伝統的にカトリックとプロテスタントが交互に拝命することになっており、前任はカトリックだったので、プロテスタントのエルンスト・アウグストが任命された。
出典
- ↑ ドイツ歴史委員会(Historical Kommission)・バイエルン科学アカデミー(Bavarian Academy of Sciences),DB(Deutsche Biographie),https://www.deutsche-biographie.de/sfz27817.html Georg Ludwig],2017年10月18日閲覧。