「ジェームズ1世」の版間の差分
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イングランド側から見ても、ジェームズ6世は敵である。スコットランドのスチュワート王家はカトリックで、国内のプロテスタントを弾圧していた。同じカトリックのフランス王室とも深いつながりがあり(母のメアリはもともとフランス王妃だ)、フランスはいつだってイングランド打倒を考えていたのだから、そんな人物をイングランド王に据えるなどもってのほかだ。だいたい、あいつの母親の首を斬り落としたのは我々じゃないか。王位に据えたら、まず最初に我々に復讐するはずじゃないか。 | イングランド側から見ても、ジェームズ6世は敵である。スコットランドのスチュワート王家はカトリックで、国内のプロテスタントを弾圧していた。同じカトリックのフランス王室とも深いつながりがあり(母のメアリはもともとフランス王妃だ)、フランスはいつだってイングランド打倒を考えていたのだから、そんな人物をイングランド王に据えるなどもってのほかだ。だいたい、あいつの母親の首を斬り落としたのは我々じゃないか。王位に据えたら、まず最初に我々に復讐するはずじゃないか。 | ||
− | + | イングランド内の反スコットランド派、反カトリック派は、スコットランドのエジンバラからイングランドのロンドンへ向う主要街道に軍勢を送り、陣を敷いて待ち構えた。もしもスコットランド野郎が図々しくもイングランドの王冠を狙って南下してきたら、捕まえて殺してやろうという算段だった。 | |
===スコットランド王ジェームズ6世、ロンドンへ向う=== | ===スコットランド王ジェームズ6世、ロンドンへ向う=== |
2018年10月23日 (火) 15:44時点における版
イングランド王ジェームズ1世(James I、1566年生 - 1625年没、在位:1603年-1625年)は、イギリスのスチュワート王家の開祖である。
目次
歴史的状況
宗教の分裂とヨーロッパ諸侯
16世紀、ヨーロッパではキリスト教世界に分裂と対立が本格化した。いわゆる宗教改革だ[注 1]。きわめて大雑把に言うと、ドイツでルターがカトリック教会批判をはじめ、宗教界が旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)に分派した[注 2]。
教派のちがいは互いを殺し合うに足る理由となった。カトリック信者はプロテスタント信者を見かけたら私刑にかけて殺害し、プロテスタントは報復としてカトリック教会から司祭を引きずり出して首を刎ねるのだった。
諸王侯たちにとっても、教派のちがいは戦争の理由になった。が、彼らにとって宗教問題は、単に内心信仰や来世の問題というだけでなく、課税や統治という領地経営の根幹を左右する、世俗現世の差し迫った深刻な問題だった。カトリックを採るならば、神の代理人であるローマ教皇や教会組織、そして神聖ローマ皇帝による口出しを甘受せねばならなかった。だから彼らは領地を、利権を護るために宗教を理由として戦争を重ねた。
とはいえ、民衆と違って教育のある賢明な諸侯たちは、教派が違うというだけで皆殺しにしていてはとんでもないことになる、ということをよく理解していた。だからカトリックの諸侯はプロテスタントの家から妃を迎えたりして、互いにやり過ぎない程度にほどよいバランスを保とうとしていた。もちろんこれとは違い、対立する宗派を徹底的に殲滅しようとする君主もいた。
テューダー王朝の終焉
イングランドではもう少し事情が複雑だった。テューダー王家のヘンリー8世(在位:1509年-1547年)は自分の離婚問題を機に、カトリック教会と袂を分かって独自のイングランド国教会をたちあげており、カトリック・プロテスタント・国教会の3派が鼎立していた。
ヘンリー8世は死ぬまでに6回の結婚をした。単に好色だったという見方もあるが ― 結婚と離婚を繰り返したのは、男子の世継ぎを求めていたからだった。しかしとうとう、後継ぎとなる息子を得られないまま没した[注 3]。結局、後継ぎになったのは娘のメアリー1世である。が、彼女は父とは正反対に狂信的なカトリック信者であり、自国のプロテスタントを殺戮して「血塗れメアリー」の異名をとった。
“ブラッディ”メアリー1世の跡継ぎになったのが妹の“処女王”エリザベス1世(在位:1558年-1603年)だ。個人としてのエリザベス1世はカトリック信者だたと伝えられているが、彼女は姉とはちがい穏当で現実的な人物で、国を平穏裏に落ち着かせてゆく手段として、イングランド国教を奉じた。それでいてカトリックやプロテスタントとも穏健な付き合い方をして、外交で上手にたちまわり、イングランドの黄金時代を築いた。
そのエリザベス1世が死の床につく頃、王家の取り巻きは水面下で混乱に陥っていた。エリザベス1世が「処女王」として未婚を貫いたのは、ヘタに結婚すると王位継承問題が厄介なことになるから慎重を期していたわけだが、最終的に後継者を指名しないままだったのでやっぱり王位継承問題が起きたのだ。
宮廷は急いで次王を選ばなければならなかった。しかし、王位継承権を有し、次の王の候補となりそうな人物にはそれぞれ問題があった。後継ぎとして即位する人物がイングランド国教を守るのか、カトリックに傾くのか、はたまたプロテスタントに接近するのか、これには文字通り多くの者の命がかかっていた。
スコットランド王ジェームズ6世
千年の仇敵
スコットランドとイングランドは隣り合う敵国同士で、1000年に渡り衝突を繰り返してきた。それでも和を結ぶために両家の結婚も行われており、形式的にはスコットランド王家の子女にもイングランド王の王位継承権があった。当時のスコットランドの王はスチュワート家のジェームズ6世である。イギリスの次王を選ぶ人々の中に、スコットランドのジェームズ6世をイングランドの王に迎えようとする一派が現れた。
スコットランド・エジンバラの宮廷へイングランドの宮廷から密使が来た。速やかにロンドンに参られよ、エリザベス1世の後継者として、イングランド王として即位してほしい、というのである。急がないと他の人物が王位に就いてしまうので、事は一刻を争う、急がれよ、と。
しかし、ジェームズ6世の側からすると、この話は迂闊に信用するわけにはいかなかった。ジェームズ6世の母で、先代のスコットランド女王メアリ・スチュワートはロンドンでエリザベス1世に殺されているのだ。スコットランドの宮廷では、これは罠だと考える者も多かった。戴冠を餌におびき出してジェームズ6世を殺し、スコットランドを征服してやろうという企みだと言うのだ。よしんば、手紙を出した者にはそのつもりはなくても、スコットランドの王を戴くなど絶対に承知しない一派がジェームズ6世の命を狙うのは間違いあるまい。前女王メアリ・スチュワートの末路を考えると、まったくもって当然の懸念だっただろう。
イングランド側から見ても、ジェームズ6世は敵である。スコットランドのスチュワート王家はカトリックで、国内のプロテスタントを弾圧していた。同じカトリックのフランス王室とも深いつながりがあり(母のメアリはもともとフランス王妃だ)、フランスはいつだってイングランド打倒を考えていたのだから、そんな人物をイングランド王に据えるなどもってのほかだ。だいたい、あいつの母親の首を斬り落としたのは我々じゃないか。王位に据えたら、まず最初に我々に復讐するはずじゃないか。
イングランド内の反スコットランド派、反カトリック派は、スコットランドのエジンバラからイングランドのロンドンへ向う主要街道に軍勢を送り、陣を敷いて待ち構えた。もしもスコットランド野郎が図々しくもイングランドの王冠を狙って南下してきたら、捕まえて殺してやろうという算段だった。
スコットランド王ジェームズ6世、ロンドンへ向う
1603年4月5日、ジェームズ6世はエジンバラの王城を出立した。途中でイングランド軍に捕まれば殺されるし、無事にロンドンに着いても殺されるかもしれない、という危険な賭けだった。
ロンドンへ向う主要街道は敵の軍勢が待ち構えているので通ることはできない。見つからないように、道なき道を進むほか無かった。目立たぬように、大軍を連れていくわけにもいかない。ほんの僅かな供のみを従えて、街道を避けて山野や湿地、森をぬけ、それでいて先を急がなければいけない旅だった。
荒野で一晩を明かす
ロンドンまであと100マイルというあたりで、ジェームズ6世の一行は荒野で濃霧に捲かれて道に迷った。あたりは湿地と藪が広がり、なんの目印もなかった。彼らは夜になって、小さな貧しい集落にたどり着いた。石灰岩の崖に洞穴を掘って暮らしているような寒村だ。
ジェームズ6世は村に一夜を過ごすための宿を求めた。意外なことに、村人はジェームズ6世一行を暖かく迎え、歓待した。彼らは「グリフィン亭」という宿で一泊した。洞窟につくられた宿で、天井は剥き出しの岩肌だった。
夜が明けて霧が晴れてみると、周囲は見渡す限りの草原だった。草原にはなだらかな起伏があり、点在する茂みや雑木林にはアヒルやヤマウズラといった野鳥や、野うさぎ、そしてそれらを狙うキツネが豊富にいて、ジェームズ6世が愛好する狩猟を楽しむのに最高の場所だった。ジェームズ6世は、ここはなんという場所なのか訪ねた。そこはラテン語で「Novum Forum(新しい市)」 ― 英語では「ニュー・マーケット」という村だと教えられた[注 4]。
戴冠してイングランド王ジェームズ1世となる
ニューマーケット村を出発したジェームス6世は無事にロンドンへ到着し、イングランド王として戴冠した。イングランドには「ジェームズ」という名前の王は以前にいなかったので、彼はイングランド王としては「ジェームズ1世」ということになった。つまり同じ人物が、イングランドでは「ジェームズ1世」、スコットランドでは「ジェームズ6世」と呼ばれるのである。
ジェームズ1世は、全般的にエリザベス1世時代の政策をそのまま引き継いだ。これに政権移行は穏当に行われた。イングランド内の反スコットランド派もおおっぴらにはジェームズ1世(ジェームズ6世)を殺そうとはしなかった。(おおっぴらにはやらなかった、というだけで、密かには殺そうとした。)
ジェームズ1世(ジェームズ6世)は、スコットランドとイングランドの和合を試みた。しかし両方の国から反対者が多く、あまりうまくはいかなかった。それでもジェームズ1世の時代に、「グレートブリテン」という名称が使われるようになり、イングランドとスコットランドの旗を重ねた新国旗が作られた。
競馬とのかかわり
新王ジェームズ1世(ジェームズ6世)は、荒野で一晩を過ごしたニューマーケット村のことを忘れなかった。即位後のいろいろが一段落すると、1605年2月27日に鷹狩用の鷹と猟犬をつれてニューマーケットに帰ってきた。そして原野や雑木林のある丘で狩りに没頭した。単なる狩猟だけでなく、競技形式の狩猟も行われたが、ジェームズ1世はこの勝負に大敗したと伝えられている。
以来、王は毎年冬になるとニューマーケットにやってきて、かなりの期間をここで過ごした。村の中央にある丘には、毎年ジェームズ1世のために30匹のウサギを野に放った。やがてその丘は「Warren Hill」と呼ばれるようになった。ウォーレン・ヒルの丘は、今では世界で最も有名なサラブレッド調教コースになっている。
王は滞在中、例の「グリフィン亭」を定宿にした。王はそこで政務を執り、グリフィン亭が事実上の宮廷となった。王に付き従う数多くの廷臣、官吏、召使いたちも、ずっとニューマーケットにとどまる必要があった。ジェームズ1世の宮廷では「ニューマーケットくんだりまで行かねばならない(‘Away to Newmarket, away to Newmarket’)」という不平が常套句になった
そのうち洞穴が手狭になってきたので、王は翌1606年に王専用の館の建設を命じた。
この屋敷は4年後に完成した。屋敷には大きな厩舎と犬舎、醸造所、テニスコートが完備され、王はそこを根城にして、狩猟や競馬などの気晴らしにうちこんだ。こうしてニューマーケットはイングランド王に愛されるスポーツの中心地として発展を始めることになる。
脚注
注釈
- ↑ 正確に言えば、「ヨーロッパ」での宗教の「分裂」は11世紀、あるいはそれよりさらに1000年はさかのぼる。キリスト教を国教としたローマ帝国が東西に分裂すると、キリスト教組織も東西に分裂し、やがてお互いに対立するようになった。1054年、「西」のローマ教皇と「東」のコンスタンチノープル総主教の衝突が決定的となり、お互いに相手を異端として破門宣告するに至る。これが「東西の分裂」である。
- ↑ ルターは、ある日突然宗教改革を始めたわけではない。ルターよりも100年以上前、14世紀ヨークシャーのワイクリフや、15世紀ボヘミアのフスといった人物は宗教や教会の腐敗を糾弾して人々を導いた。だが彼らは異端とされ、その時点では歴史の闇に葬られた。ルターもまた唯一人の宗教改革者というわけではなく、同時代に数多くの改革者がいた。ワイクリフやフスと違ったのは、彼らの活動が実を結んだというところにある。
- ↑ 愛人に産ませた男の子はいたが、キリスト教世界では、正式な妻が産んだ男子にしか王位を継ぐ資格は認められないのだった。
- ↑ この村は、中世には「ポーターズ・ピース(Porter’s Piece)」と称していたという。13世紀初頭、結婚によってこの貧しい村を得た新領主は、税収増のため村で市場を開設することにした。1223年、新市開催の国王勅許を得てポーターズ・ピースに市が立ち、この地を「新しい市(ノヴム・フォルム)」と呼ぶようになった。
出典
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