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'''ユーストン・ホール'''(英:Euston Hall)はイングランド東部の[[サフォーク|サフォーク州]]{{仮リンク|ユーストン (サフォーク)|en|Euston, Suffolk|label=ユーストン}}にある[[カントリー・ハウス]]で、[[グラフトン公|グラフトン公爵家]]の邸宅である。 | '''ユーストン・ホール'''(英:Euston Hall)はイングランド東部の[[サフォーク|サフォーク州]]{{仮リンク|ユーストン (サフォーク)|en|Euston, Suffolk|label=ユーストン}}にある[[カントリー・ハウス]]で、[[グラフトン公|グラフトン公爵家]]の邸宅である。 | ||
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集落地{{仮リンク|ユーストン (サフォーク)|en|Euston, Suffolk|label=ユーストン}}の名は1087年の検地帳([[ドゥームズデイ・ブック]])に見られる<ref name="公式-歴史-ホール"/>。 | 集落地{{仮リンク|ユーストン (サフォーク)|en|Euston, Suffolk|label=ユーストン}}の名は1087年の検地帳([[ドゥームズデイ・ブック]])に見られる<ref name="公式-歴史-ホール"/>。 |
2020年7月18日 (土) 13:15時点における版
目次
冒頭文
ユーストン・ホール(英:Euston Hall)はイングランド東部のサフォーク州ユーストンにあるカントリー・ハウスで、グラフトン公爵家の邸宅である。
来歴
前史
集落地ユーストンの名は1087年の検地帳(ドゥームズデイ・ブック)に見られる[1]。
チャールズ2世による整備
1666年、チャールズ2世の秘書(Secretary of State)を務めるアーリントン男爵[注 1]が、ユーストンにあった領主の邸宅(マナー・ハウス)を購買した[1]。
(チャールズ2世と)アーリントン卿が館全体に大掛かりな再整備を行ったことで、ユーストン・ホールはフランス様式の邸宅へと生まれ変わった[1][注 2]。
グラフトン公の時代
チャールズ2世は亡命中にバーバラ・パーマーという人妻と愛人関係を結んでいて、チャールズ2世がポルトガル王女カタリナを正式な王妃として迎えた後も、バーバラを愛人とした。しかしバーバラにはほかにも愛人がいて、出産のたびに本当の父親が誰であるか、チャールズ2世の悩みの種になった。バーバラは生涯で6人の子を産み、チャールズ2世は結局そのうち5人を庶子として認知した。ヘンリー(のちの初代グラフトン公)はそのうちの一人である。
1672年に、庶子ヘンリーは、アーリントン卿の一人娘イザベラが結婚することになった。このときヘンリーは9歳、イザベラは4歳か5歳だった。1675年、チャールズ2世は、庶子ヘンリーのためにグラフトン公爵位を創設した。1679年にイザベラが12歳になり、法的に正式な結婚が認められる年齢に達したので、ヘンリーとイザベラは改めて正式に結婚式を行った。
イザベラの父、アーリントン卿が1685年に没すると、ユーストン・ホールの邸宅はイザベラが相続、グラフトン公爵夫妻のものとなった。
これ以来ユーストン・ホールは代々のグラフトン公爵の所有となっている。
敷地
構造
脚注
注釈
- ↑ アーリントンの爵位は1666年時点では男爵(アーリントン男爵)。のち、1672年にアーリントン伯爵位となり、同時にセットフォード子爵位も与えられた。セットフォード(ノーフォーク州)は、サフォーク州ユーストンとは州境を挟んで隣接する位置にある。
- ↑ チャールズ2世は、王太子時代に清教徒革命が起きて1646年にイングランドを追われ亡命、16歳から14年あまりをフランスで過ごした。王党派だったアーリントン伯は、はじめはイングランドに踏みとどまって議会派と戦ったが、敗戦によってフランスに逃れ、チャールズ2世の側近となった。初代グラフトン公の母であるバーバラは、王党派のヴィリアーズ家の出自だった。しかしバーバラが3歳のときに父は議会派との合戦に敗れて討死にし、ヴィリアーズ家は没落した。その後、バーバラは亡命時代のチャールズ2世に出会い、愛人関係が始まった。
出典
書誌情報
関連図書
外部リンク
- Eustonhall.co.uk - 公式サイト