「グラフトン公爵3世」の版間の差分
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2020年7月27日 (月) 18:41時点における版
第3代グラフトン公爵(3rd Duke of Grafton、1735.09.28 - 1811.03.14)は、生産者としてサラブレッドの誕生に大きく関わった人物の一人である。息子の第4代グラフトン公爵と共に、ヘロド×エクリプスのニックス配合による競走馬生産に徹底的に拘り、Whaleboneを生産してエクリプス系が世界の主流父系となる端緒を築くと同時に、1号族の牝系の基礎をつくった。
1750年代から馬主としても活躍したが、その全盛期はまだクラシック競走が未整備だったので、クラシック競走優勝回数自体はさほど多くない。それでもダービー3勝は、20世紀のアカ・カーンの5勝を別格とすればトップクラス。オークスも2勝した。セントレジャーには縁がなく、1000ギニー・2000ギニーは1810年代の創設のため出走機会自体がほとんどなかった。
目次
名前、爵位、勲章、役職等
- オーガスタス・ヘンリー・フィッツロイ(Augustus Henry FitzRoy)
- 第3代グラフトン公爵(3rd Duke of Grafton)〔1757年 - 1811年〕
- 第4代アーリントン伯爵 (4th Earl of Arlington)〔1757年 - 1811年〕
- 第3代ユーストン伯爵 (3rd Earl of Euston)〔1757年 - 1811年〕
- 第4代セットフォード子爵(4th Viscount Thetford, of Thetford in the County of Norfolk)〔1757年 - 1811年〕
- 第3代イプスウィッチ子爵(3rd Viscount Ipswich)〔1757年 - 1811年〕
- 第4代アーリントン男爵(4th Baron Arlington, of Arlington in the County of Middlesex)〔1757年 - 1811年〕
- 第3代サドバリー男爵(3rd Baron Sudbury)〔1757年 - 1811年〕
- ガーター勲爵士(KG)〔1769年〕
- 北部担当国務大臣(Secretary of State for the Northern Department)〔1765年 – 1766年〕
- 第一大蔵卿(First Lord of the Treasury)〔1766年 – 1770年〕
- 貴族院院内総務(Leader of the House of Lords)〔1766年 – 1770年〕
- 首相(Prime Minister)〔1768年10月14日 - 1770年1月28日〕
- 王璽尚書(Lord Privy Seal)〔1771年 - 1775年、1782年 - 1783年〕
- サフォーク統監(Lord Lieutenant of Suffolk)〔1757年 - 1763年、1769 - 1790年〕
- ケンブリッジ大学学長〔1768年 - 1811年〕
年表
- 1735.09.28( 0歳) - 誕生
- 1741.05.24( 5歳) - 父が死去
- 1751.10.26(16歳) - ケンブリッジ大学に入学
- 1753 (18歳) - 文学修士(Master of Arts)
- 1756.01.29(20歳) - 最初の結婚。妻はレーヴェンスワース男爵の娘、アン
- 1756 (20歳) - ジョージ2世の侍従(Lord of the Bedchamber)となる
- 1756.12 (21歳) - 庶民院議員となる(選挙区はヨーク州バラブリッジとサフォーク州ベリーセントエドマンズを兼任)
- 1757.05.06(21歳) - 祖父の2代グラフトン公爵が没し、爵位を嗣ぐ。貴族院へ移籍。
- 1757 (21歳) - 名誉職のサフォーク統監に就任
- 1758.06 (22歳) - 侍従を辞任
- 1760.01.14(24歳) - 嫡男ジョージ誕生(後の第4代グラフトン公爵)
- 1760.10.25(25歳) - ジョージ2世が崩御、ジョージ3世が新国王に即位
- 1763 (27歳) - サフォーク統監を解任される(七年戦争の講和に反対したため)
- 1763 (27歳) - ナンシー・パーソンズとの愛人関係が始まる
- 1763Juliaを購買。1号族の祖。 (27歳) - 牝馬
- 1763.06.08(27歳) - Havannahが王室賞 (ソールズベリー)に優勝。
- 1763.06.08(27歳) - Havannahが王室賞 (ルイス)に優勝。
- 1763.07.28(27歳) - Havannahが王室賞 (ウィンチェスター)に優勝。
- 1764.01 (28歳) - アン夫人と別居(アンも不倫をしていた)
- 1764.10Antinous vs Herodのマッチレース(第1回) (29歳) -
- 1765.05Antinous vs Herodのマッチレース(第2回) (29歳) -
- 1765.07第2代ロッキンガム侯爵の内閣で北部担当国務大臣に就任 (29歳) -
- 1766.04 (30歳) - 国務大臣を辞任(競馬を優先のためと噂される)
- 1766.07 (30歳) - チャタム伯爵の内閣で第一大蔵卿(≒首相)に就任
- 1767 (31歳) - 別居中のアン夫人が不倫相手の子を妊娠
- 1767 (31歳) - 愛人ナンシー・パーソンズを公然と伴うようになる
- 1767.09 (31歳) - チャタム伯爵が病気のため首相となる
- 1767.10.14(32歳) - 第3代グラフトン公爵の内閣成立
- 1769.03.23(33歳) - アン夫人との離婚が議会の正式承認を得る
- 1769.06.04(33歳) - ロッテスレー準男爵の娘エリザベス嬢と再婚
- 1770.01 (34歳) - 内閣総辞職
- 1770 (34歳) - 神学への傾倒がはじまる
- 1771 (35歳) - ノース卿内閣で王璽尚書を務める
- 1774 (38歳) - 英国国教会を離脱
- 1782.03 (46歳) - ロッキンガム侯爵内閣で王璽尚書を務める
- 1802Tyrantでダービー初優勝 (66歳) -
- 1804Pelisseでオークス初優勝 (68歳) -
- 1808Morelでオークス優勝(2回目) (72歳) -
- 1809Popeでダービー優勝(2回目) (73歳) -
- 1810Whaleboneでダービー優勝(3回目) (74歳) -
- 1811.03.14(75歳) - ユーストンの自邸で死去
人物
第3代グラフトン公爵は、5歳のときに父を失い、20歳で結婚し、21歳で公爵位を継ぎ、30歳で大臣、31歳で英国首相となった。75歳まで生きた人物としては忙しい前半生である。しかし「英国の宰相」としては頗る評判が悪い。優柔不断で決断できず国政を遅滞させたとか、愛人つくったとか、国政より競馬を優先したとか。
でもまあここは政治サイトではなく競馬サイトなので、外交問題より競馬観戦を優先したっていいよね。自分の持ち馬が出走するなら当然でしょ!と言っておきたい。英国の歴史上の偉大なホースマンはたいてい愛人つくってるし、ふつうでしょ!
競馬史家のピーター・ウィレットは、第3代グラフトン公がとんでもない奇行種だったとしている。「イギリスの奇人の中でも最も風変わりな人物の一人」(one of the most curious of English eccentrics)だそうだ。こうした人物評がイギリスで一般的なのかはよくわからない。ピーター・ウィレットは、その奇行の代表的エピソードとして、自宅からニューマーケットまで18マイル(約30キロ)の並木道を整備させた逸話を紹介するのだが、充分に裕福なホースマンとしては別段驚くような行動ではない、のでは?昨今のアラブのホースマンが20億円出して大レースをやったり、砂漠の真ん中に芝コースの競馬場を作っているのに比べれば。
グラフトン家の若き後継ぎ
グラフトン公爵家はチャールズ2世(在位:1660年-1685年)の庶子を家祖とする。このサイトを訪れた方にとっては常識かもしれないが、チャールズ2世は「陽気な国王」と呼ばれた人物で、英国競馬を庇護発展させた人物でもあり、さまざまな遊びを広めた人物でもある。若い頃に清教徒革命によって父を殺され、青春時代を亡命して過ごすことを余儀なくされたチャールズ2世は、王政復古すると、禁欲的な清教徒たちが徹底的に弾圧した娯楽を復活させ、娯楽の先頭に立って競馬や愛人あそびに精をだした。競馬の都・ニューマーケットはチャールズ2世国王陛下によって復興され、こんにちの競馬の発展があるのだ。
チャールズ2世は多くの愛人がいて、(本当に自分の子かどうかもわからないが)庶子をつくり、彼らのために新しい貴族家を創設した。初代グラフトン公爵家もその一つだ。
第3代グラフトン公爵が生まれた1735年は、まだ祖父の第2代グラフトン公爵の時代だった。王室はチャールズ2世直系のスチュワート朝から、ドイツ系のハノーヴァー朝にかわり、ドイツ出身のゲオルク2世(ジョージ2世、在位1727年 - 1760年)が即位してまもなくの時期である。まもなく、神聖ローマ帝国・ハプスブルク家で跡継ぎ問題が発生し、これがヨーロッパ全土を巻き込んだ戦争(オーストリア継承戦争、1740年 - 1748年)に発展する。この争いはもともと、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世が、跡継ぎの男子がいないので娘のマリア・テレジアにあとを継がせようとして始まった。フランスは、ハプスブルク家の勢力を削ぐ絶好の機会をみて、この皇位継承に待ったをかけて戦争になった。ドイツに領地をもつハノーバー朝の英国王室は、大陸でのフランスの勢力拡大を防ぎたいという思惑があり、ハプスブルク家に味方した。この戦争は世界中の植民地に波及した。その結果、第3代グラフトン公爵の父は海軍の軍艦の艦長として南米に出征し、コロンビアでの海戦で大敗した末に疫病で死んだ。このとき第3代グラフトン公爵はまだ5歳だった。
ヨーロッパに広がる戦争中に首相となる
祖父の第2代グラフトン公爵が1757年に没すると、21歳にしてイングランド有数の富豪であるグラフトン公爵家を嗣ぎ、第3代グラフトン公爵となった。既に第3代グラフトン公爵は地元サフォーク州の庶民院議員だったが、これ以後は貴族院議員となった。
まもなく、1760年に国王がジョージ3世に代替わりした。ヨーロッパではオーストリア継承戦争が七年戦争に発展する。この戦争では、発展するイギリスに対抗するため、前の戦争では敵同士だったフランスとハプスブルク家が手を組むなど、ヨーロッパ中を巻き込んだ外交が大きな問題となる。この難しい時代にまだ若き第3代グラフトン公爵は内閣に入閣し、やがて首相を任されるようになった。
しかし首相としての第3代グラフトン公爵は悪評がつきまとう。当時は世界各地の植民地政策が問題になり、特にアメリカの植民地に対する強硬派と穏健派が対立した。第3代グラフトン公爵はこの難しい政局を前に、何の決断もできなかった。それどころか、政治をほっぽりだして、愛人と競馬場に行っていた。第3代グラフトン公爵は批判を浴びて袋叩きになり、総辞職した。だが考えてほしい、彼はまだ30代前半だったのだ。気晴らしは必要だし、妻は不平ばかりで不倫している。そりゃあ愛人つくって競馬場に行きたくもなるさ!
第3代グラフトン公爵は75歳まで生きたので、30代半ばにして首相と総辞職を経験しても、まだまだ先は長い。しかし第3代グラフトン公爵は、その後、政治の第一線には顔を出さない。伝えによると、新興宗教にはまり、イギリス国教会を抜けて家族からも白い目で見られた。当の本人は古代の聖書の研究にいれこみ、自費出版した本を友人に配って回って困惑させたという。
「スポーツ」を愛する男
言うまでもなく「スポーツ」という単語はもともと「気晴らし」という意味だった。だから観劇やギャンブルや読書や宴会や愛人遊びも「スポーツ」であった。この意味で、第3代グラフトン公爵はスポーツの偉大な信奉者にして実践者であった。
おそらく当時の貴族はみな似たようなものだったのではないかと思うが、第3代グラフトン公爵の場合、スポーツ嗜好は祖父の第2代グラフトン公から受け継いだものらしい。第2代グラフトン公爵は、キツネ狩りが大好きで、ノーサンプトン州の森で捕獲したキツネを自分の別荘があるウェイクフィールドロッジに放していた。そしてそこでキツネ狩りを楽しみ、シーズンが終わると、温かいサフォーク州ユーストンに移動し、そこでさらにキツネ狩りに打ち込んだ。そのためには猟犬や猟騎馬を移送する必要がある。第2代グラフトン公爵のロンドンの自邸から、これらの狩猟地に行くには、テムズ河を渡る必要があった。犬や馬を連れて河を船で渡るのは大変である。そこで第2代グラフトン公爵は、テムズ河に橋を架ける計画を推し進めた。こうしてできたのがウェストミンスター橋だという。
第3代グラフトン公爵は祖父を見習って狩猟を楽しんだ。成人してジョッキークラブに加入できる年齢に達すると、競馬にはまった。
妻と愛人
第3代グラフトン公爵は、20歳のときに結婚した。美人で気立ての良い妻と評判だったそうだが、夫が「気晴らし」に打ち込むのを嫌った。両者はやがて疎遠になり、互いに愛人をつくって不倫するようになった。第3代グラフトン公爵が政治家として上り詰めるちょうどその頃、夫人は幼いむず目を連れて家を出ていった。息子のジョージ(のちの第4代グラフトン公爵)は家に残った。やがて夫人は、愛人の子を妊娠する。これを契機として、第3代グラフトン公爵も愛人を連れて公然と外出するようになった。
こうした家庭不和は、醜聞好きの連中の格好の攻撃材料になった。彼らは、グラフトン公が愛人とどこへ行ったとか、何をしたという話を面白おかしく広めて回った。国難とも言える世界大戦の最中に首相になった若い公爵に対し、こうしたバッシングが容赦なく行われ、グラフトン公爵はますます「気晴らし」が必要になってゆく。
競馬
主な勝鞍
主な生産馬・所有馬
馬名 | 生年 | 性 | 父馬 | 母馬 | 主な勝鞍等 |
馬産
脚注
注釈
参考文献
- 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』Roger Mortimer and Richard Onslow and Peter Willet,Macdonald and jane's,1978,ISBN 0354085360