「トーク:初代グローヴナー伯爵」の版間の差分
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+ | 爵位を得る時、国王の手に接吻するかわりに、ニューマーケットにおける馬の試走を凝視していた | ||
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+ | ジムクラックを一時期所有していた(ワイルドマン→ボリングブローク→サラの夫(バンベリー)→グロ→ローラゲ卿) | ||
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+ | 1766年に、ハイド・パーク・コーナーの背後の荒れ地にある所有地の一角を、リチャード・タタソールに貸与した。 | ||
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+ | そこで毎週2回、馬の取引を行う競り市をひらいた。 | ||
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+ | 1773年にはキングストン公の相続に際し、所有馬を一括して売却する大掛かりな競り市を実施。これで有名になった。 | ||
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+ | 18世紀の競馬人としては、競馬に最もお金を費やした人物の一人。(もうひとりはエジャモント卿) | ||
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+ | 『ジェネラルスタッドブック』(1800)には、「グローブナー卿の競走馬用牧場は比類のないものである」とある。 | ||
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+ | マンブリーノは、天性の速歩馬を出し、乗用馬車馬をだす名種牡馬になった。 | ||
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+ | *4代グローヴナー準男爵(伯父)の所有馬が競馬に出ている様子を描いた絵がある(1724年頃のニューマーケット) | ||
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+ | グローヴナー卿のお抱え調教師/騎手がJohn Pratt | ||
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+ | ジェニソン・シャフトが1771年に没した以後は、グローヴナーが英国最大の馬主。 | ||
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+ | 金を使いすぎたせいで、1802年に没するまでの最後の時期は、だいぶ控えめになった。(それでも相当な規模だった) | ||
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+ | スタッブスのパトロンだった。 | ||
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+ | 1769年にジムクラックを購入 | ||
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+ | great grandsonひ孫のdukeはOrmondeとFlying Foxのオーナー [[ヒュー・グローヴナー (初代ウェストミンスター公爵)]] | ||
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+ | 1765年のスタッブスの絵「Gimcrack's Trial」で、後方にグローヴナーの芦毛馬が走っている(黄色い勝負服) | ||
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+ | この絵は何枚か描かれていて、ニューマーケットのジョッキークラブに飾ってあるのはグローヴナー卿の所有の絵(p90) | ||
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+ | 1765 2nd vis bolingbroke | ||
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+ | 1769年にジムクラックを購入。これは、スタッブスにジムクラックの勝負服をグローヴナー卿の服色で絵を描かせるためだったと考えられてる | ||
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+ | 18世紀後半における最も気前のよい競馬の庇護者の一人 | ||
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+ | 25万£と伝わる(そのかなりの部分は賭け) | ||
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+ | West End of Londonの大部分を所有していた | ||
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+ | Easton Stud Chesire | ||
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+ | 1761年に受爵したとき、通例であれば授爵の儀式を受けるところ、ニューマーケットに行っていた。 | ||
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+ | Hウォルポールは「グローブなー卿が授かったのは、子爵位だったか男爵位だったか・・・、私はよく知らないが、本人も知らないだろう。昨日は、本来、王の手に接吻するべきところ、調教をみにニューマーケットに行っていたのだから。」 | ||
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+ | 莫大な富を所有しているにも関わらず、手元不如意のこともたびたびあった。 | ||
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+ | 3000ギニーの支払いが必要になったとき、自己所有のジムクラックの牡駒とEarl of Abingdonのカーディナルオブヨーク号とのマッチレースのとき、守銭奴で有名なMr.Elesから金を借りて、なんとかレース実現にこぎつけた。 | ||
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+ | グローヴナー伯爵が勝ったのをみたMr.Eles氏は、とりっぱぐれないように、デヴィルズダイクを飛び越えて馬で駆けつけてきたという。 | ||
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+ | pot8osをかったあと、引退後、Oxcroft Farmに繋養した。(1796年にニューマーケットに移動) |
2020年8月22日 (土) 15:25時点における最新版
mortimer
- p251-252
たっぷりとした規模(princely scale)で、25万ポンドを費やしたと伝わる。
おそらく、これは賭けたぶんが相当含まれるだろう。
有名なイートンスタッド(チェシャー)を創設。
1784,1785、1786、1788とダービー2着を繰り返したが、1790にRhadamanthusで初制覇。
- ダービー
- Rhadamanthus 1790
- John Bull 1792
- Daedalus 1794
- オークス
- Faith 1781
- Ceres 1782
- Maid of the Oaks 1783
- Niké 1797
- Bellina 1799
RhaとDaeは全兄弟。全兄弟でのダービー制覇は9組。
世界史
- p80
Pot8osは1773年にアビングドン卿が生産し、グローヴナー卿へ売却したもの
- p85
爵位を得る時、国王の手に接吻するかわりに、ニューマーケットにおける馬の試走を凝視していた
ジムクラックを一時期所有していた(ワイルドマン→ボリングブローク→サラの夫(バンベリー)→グロ→ローラゲ卿)
- p94
1766年に、ハイド・パーク・コーナーの背後の荒れ地にある所有地の一角を、リチャード・タタソールに貸与した。
そこで毎週2回、馬の取引を行う競り市をひらいた。
1773年にはキングストン公の相続に際し、所有馬を一括して売却する大掛かりな競り市を実施。これで有名になった。
- p98
18世紀の競馬人としては、競馬に最もお金を費やした人物の一人。(もうひとりはエジャモント卿)
- 238
『ジェネラルスタッドブック』(1800)には、「グローブナー卿の競走馬用牧場は比類のないものである」とある。
マンブリーノは、天性の速歩馬を出し、乗用馬車馬をだす名種牡馬になった。
Heath and Horse
- 52
- 4代グローヴナー準男爵(伯父)の所有馬が競馬に出ている様子を描いた絵がある(1724年頃のニューマーケット)
- 68-69
グローヴナー卿のお抱え調教師/騎手がJohn Pratt
ジェニソン・シャフトが1771年に没した以後は、グローヴナーが英国最大の馬主。
金を使いすぎたせいで、1802年に没するまでの最後の時期は、だいぶ控えめになった。(それでも相当な規模だった)
スタッブスのパトロンだった。
1769年にジムクラックを購入
ロンドンのハイド・パークでタタソールに
great grandsonひ孫のdukeはOrmondeとFlying Foxのオーナー ヒュー・グローヴナー (初代ウェストミンスター公爵)
ハイドパークのほか、BalsamのOxcroft Farmを所有し、種牡馬を繋養した
he had the largest string of all in the later decades of the eighteenth century
(stringは競走馬の数のこと)
he loses 300,000 £ 1802年に死ぬまで
- 70
1791年、グローヴナーが登録した競走馬は32頭。
同年、プリニーが39頭。(Duke of Bedfordが30頭)
- p82-83
ジムクラック 1765年のスタッブスの絵「Gimcrack's Trial」で、後方にグローヴナーの芦毛馬が走っている(黄色い勝負服)
この絵は何枚か描かれていて、ニューマーケットのジョッキークラブに飾ってあるのはグローヴナー卿の所有の絵(p90)
1765 2nd vis bolingbroke
1769年にジムクラックを購入。これは、スタッブスにジムクラックの勝負服をグローヴナー卿の服色で絵を描かせるためだったと考えられてる
HQ
- 22
18世紀後半における最も気前のよい競馬の庇護者の一人 (one of the most munificent supporters of racing)
25万£と伝わる(そのかなりの部分は賭け)
West End of Londonの大部分を所有していた
Easton Stud Chesire
- 23
1761年に受爵したとき、通例であれば授爵の儀式を受けるところ、ニューマーケットに行っていた。
Hウォルポールは「グローブなー卿が授かったのは、子爵位だったか男爵位だったか・・・、私はよく知らないが、本人も知らないだろう。昨日は、本来、王の手に接吻するべきところ、調教をみにニューマーケットに行っていたのだから。」
莫大な富を所有しているにも関わらず、手元不如意のこともたびたびあった。
3000ギニーの支払いが必要になったとき、自己所有のジムクラックの牡駒とEarl of Abingdonのカーディナルオブヨーク号とのマッチレースのとき、守銭奴で有名なMr.Elesから金を借りて、なんとかレース実現にこぎつけた。
グローヴナー伯爵が勝ったのをみたMr.Eles氏は、とりっぱぐれないように、デヴィルズダイクを飛び越えて馬で駆けつけてきたという。
pot8osをかったあと、引退後、Oxcroft Farmに繋養した。(1796年にニューマーケットに移動)