「プレイス家」の版間の差分

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1990年代にクロムウェルに関する研究書を刊行したRoy Sherwoodは、まったく違う指摘をしている。
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1894年に刊行された「Macmillan's Magazine」という雑誌に、C.H.Firthが「Cromwell's View on Sport」という論文を寄稿している。そのなかで、C.H.Firthは、「近代の年代記作家、Mr Waylen」による記録として、クロムウェルがハイド・パークでの競馬に参加するために馬丁を雇っていて、その人物の名前は「Dick Pace」または「Richard Dick Pace」であったという。(James Waylanは1880年に「The House of Cromwell 」という本を出版している人物だ。)
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まず、クロムウェルは護国卿として国内の競馬を禁止したので、彼が独裁者になったあとも自ら競馬をやっていたというのは驚くべき報告である。とはいえ、護国卿の禁止命令にも関わらず、みんな競馬をやっていたのだが。
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それはともかく、Roy Sherwoodは、「Richard Dick Pace」すなわち「R.Pace」が、何かの間違いで、「R.Place」すなわち「Rowland Place」と混同されてしまったんではないか、と推測している。
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ただし歴史学的には、James Waylanによる「クロムウェルの馬丁がRichard Dick Paceだった」という情報には何の裏付けもないので、この話の信憑性はまったく不明だ。また、通説ではローランド・プレイスは「厩舎長(stud master)」であるから、「馬丁(stud groom)」とは別の役職だという推測も成り立つ。
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研究者Priorは、ローランド・プレイスがクロムウェルのお抱え厩舎長だったというのは、信じがたいとしている。
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なぜならば、ローランド・プレイスの父は王党派だったのだ。だから、クロムウェルの反乱軍が王党派を破って実権をにぎったあと、プレイス家は反乱軍によって資産を差し押さえられている。そんな家の息子が、クロムウェルの牧場の責任者に抜擢されるなどということがあるだろうか?
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1666年に刊行されたヨーク州の系譜本には、プレイス家について、ローランド・プレイスがクロムウェルに仕えたという情報はない。(ローランド・プレイスの息子、フランシス・プレイスが絵描きだったということが書かれているだけ。)
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2021年6月27日 (日) 14:58時点における版

 ローランド・プレイス(Rowland Place)は、サラブレッド黎明期の17世紀競馬における「大逆人」だ。プレイスは、17世紀中葉の英国で起きた大反乱(清教徒革命)の首謀者である独裁者クロムウェルの手下で、クロムウェルと一緒になって各地の由緒ある王室牧場を荒らし回り、名馬を略奪して我がものとした。

 クロムウェルがくたばって王政復古すると、プレイスには大犯罪者の烙印が押され、名馬たちは取り戻されて、プレイスの名は歴史から消し去られた。そのときに多くのサラブレッドの祖先たちが改名されて、その後の血統書の混乱をもたらしたのだという。だから実は、われわれが「三大父祖」の一頭としているバイアリータークは、実は父祖ではない、という新説がある。

経歴

Roy Sherwood説

1990年代にクロムウェルに関する研究書を刊行したRoy Sherwoodは、まったく違う指摘をしている。

1894年に刊行された「Macmillan's Magazine」という雑誌に、C.H.Firthが「Cromwell's View on Sport」という論文を寄稿している。そのなかで、C.H.Firthは、「近代の年代記作家、Mr Waylen」による記録として、クロムウェルがハイド・パークでの競馬に参加するために馬丁を雇っていて、その人物の名前は「Dick Pace」または「Richard Dick Pace」であったという。(James Waylanは1880年に「The House of Cromwell 」という本を出版している人物だ。)

まず、クロムウェルは護国卿として国内の競馬を禁止したので、彼が独裁者になったあとも自ら競馬をやっていたというのは驚くべき報告である。とはいえ、護国卿の禁止命令にも関わらず、みんな競馬をやっていたのだが。

それはともかく、Roy Sherwoodは、「Richard Dick Pace」すなわち「R.Pace」が、何かの間違いで、「R.Place」すなわち「Rowland Place」と混同されてしまったんではないか、と推測している。

ただし歴史学的には、James Waylanによる「クロムウェルの馬丁がRichard Dick Paceだった」という情報には何の裏付けもないので、この話の信憑性はまったく不明だ。また、通説ではローランド・プレイスは「厩舎長(stud master)」であるから、「馬丁(stud groom)」とは別の役職だという推測も成り立つ。

Prior説

研究者Priorは、ローランド・プレイスがクロムウェルのお抱え厩舎長だったというのは、信じがたいとしている。

なぜならば、ローランド・プレイスの父は王党派だったのだ。だから、クロムウェルの反乱軍が王党派を破って実権をにぎったあと、プレイス家は反乱軍によって資産を差し押さえられている。そんな家の息子が、クロムウェルの牧場の責任者に抜擢されるなどということがあるだろうか?

1666年に刊行されたヨーク州の系譜本には、プレイス家について、ローランド・プレイスがクロムウェルに仕えたという情報はない。(ローランド・プレイスの息子、フランシス・プレイスが絵描きだったということが書かれているだけ。)

Speed and the Throughbred

p124

護国卿オリバー・クロムウェルは、英国の血脈の改善について心配していた。クロムウェルは嘆く、1650年のタットベリー王室牧場の破壊と、それによって起きた、血脈に流れていたアイリッシュホビー種と英国産ランニングホースのスプリントスピードが分散してしまったことを。

1657年の早い頃、おそらく、彼のトルコに送った大使であるSir Robert Bradyshe(ロバート・ブレイディシェ)を通して、クロムウェルはオスマン帝国19代皇帝のメフメト4世に外交の贈り物としてアレッポからアラビア馬の種馬を遅れと頼んだ。クロムウェルや他のイギリスの生産者は明らかに、アレッポのアラビア馬の持ち出しは厳しく禁じられているということを知らなかった。この禁制は、たとえ皇帝その人であっても破ってはならないものだったのだ。

メフメト4世はクロムウェルに返信した。代わりに16世紀の皇帝(スルタン)の標準的な外交上の贈り物を送った。これがターコマン=アラビアン種牡馬で、その血統には、アラビア種の血が1ないしクロスして含まれていた。この馬は外交の宮廷に受け入れられた。1657年11月上旬、明るい芦毛の種牡馬が、Gentleman of Horses(御馬係)のNicholas Baxterに伴われて、オランダのブリル(Brill、Brielle)から、5等フリゲート艦ダートマス(HMS Dartmouth)(艦長Captain Richard Booth)に乗船して、運ばれ、イングランドのグレーブセンド(Gravesend、テムズ川のほとり)に到着した。

到着した種馬は、おそらくハンプトンコート牧場の王室厩舎にいれられ、クロムウェルお抱えのHorse master(厩舎長)ローランド・プレースに預けられた。

10ヶ月後、1658.09.03、オリバー・クロムウェルは死んだ。すぐに、「イングランド共和国」政府は、クロムウェルなしにはやっていけないことが明白になった。1659年、チャールズ2世による王政復古の前年、議会政府はよちよち歩きになっていた。ローランド・プレースの領地、Dinsdale(北ヨーク郡の牧場に隣接する)は、種牡馬の繋養に理想的だった。しかし、もはや政府の権威は機能していなかったが、ローランド・プレースは種馬を移動させる許可を求めた。

ローランド・プレースも種馬もクロムウェルに帰属しており、プレースはチャールズ2世の支持者である騎士党に嫌悪されていた。もし彼が、すでに十分に手馴れた種馬をとれば、許可なしに自分の家につれていった。プレースはクロムウェル派の円頂党員からも盗っ人として嫌われ、こうして種馬は盗品としての烙印を押された。プレースの個人的キャリアは滅亡した。

両方から烙印をおされた(double-dammned)プレースは、勇気を持って、芦毛の種馬を、Dinsdaleに移動した。そこは、ノースヨークシャーの、Richmondの町とBedale谷に隣接している。(ダラム州のダーリントンの東、ティーズ川岸)

彼の芦毛の種馬は、白さを増し、やがて「Place's White Turk」として知られるようになった。『GSB』が刊行されると(p388)次のように簡潔に記されている。

「The property of Mr.Place, Stud-Master to Oliver Cromwell when Protector.」 (オリバー・クロムウェルが護国卿だったときの牧場長、プレース氏の所有。)

1657年に、第2代バッキンガム公爵が、ヘルムズリー牧場を獲得し、そこのスプリント牝馬のホビー種の血脈を手に入れた。1651年以来、大ジェームズ・ダーシー(elder)(ダーシー家)は集めて彼のセドベリー(Sedbury)の牧場へ連れて行った、ランニングホースとホビー種のスプリントスピードのある牝馬の血脈を、ウェルベック(Welbeck)やウォリントン(Wallington)やタットベリーの牧場から。それらのスプリントスピードのある牝馬たちは、1641-1660の清教徒革命のあいだ、分散して散り散りになってしまっていた。ヘルムズリーとセドベリーの両方は、ノースヨークシャーにあり、そういうわけでこの地域はイングランドの最高の繁殖牝馬が集まることになった。

幸運なことに、Dinsdaleはこうしてイングランド最高の生産地に立地していたので、この地域には牧場が集まっていて、このハンサムは芦毛の種牡馬を見に来るのに便利だった。Place's White TurkがDinsdaleに到着した2,3年後(1659年頃)、「Turks」と呼ばれるたくさんの馬がノース・ヨークシャーとダラム州の南部に出現する。これらはPlace's White Turkの血を引く馬たちだ。


不遇からWhite Turkを守ろうという、プレース自身の評判を犠牲として払ったプレースの決定は、完全に立証された。これから16年間、彼は手強い障害を克服して、この種馬の配合相手にトップクラスの牝馬を集めようということを可能にし、その産駒たちはPlace's White Turkを17世紀で最も影響力のある種牡馬へと押し上げた。

ローランド・プレースに対するネガキャン

ホースマンたちは「ローランド・プレース」の名を使うのをやめた。

D'Arcy's White Turkは『GSB』p389に登録されていて、Place's White Turkはp388だ。血統を記録するにあたり、ジェームズ・ダーシー(若、the younger)は、はじめ、自分の馬を「My White Turk」と呼んでいた。しかしこれを改め「The White Turk」にした。「プレース」の名は追放されたのだ。

1727年にJohn Chenyは、毎年発行する『Racing Calendars』の第一巻を編集した。1743年、おそらく、売上を改善するため、彼は血統情報を追加した。それは、17世紀の後半の大半の競走馬を含んでいた。1791年に、James Weatherbyが『An Introduction to a General Stud Book』を編集、彼はChenyを逐一コピーした。1657年に輸入されたPlace's White Turkの名は、1743年のレーシングカレンダー(p.xii)まで記載されていなかった。記載された説明書きは「damned with faint praise.」(賞賛がほんの僅かという永遠の罰を受けている)だ。Place's White Turkの産駒としてChenyが言及しているのはたった2頭のマイナーな牡馬、WormwoodCommonerだけである。この表記は、『ジェネラル・スタッド・ブック第一巻』の全ての版で繰り返された。

『ジェネラル・スタッド・ブック』に記載された、17世紀後半の重要な種牡馬のうち4頭に「Turk」の名がついている。D'Arcy Yellow TurkMy White Turk、Second Duke of Buckingham's Helmsley TurkByerley Turk。これらは故意に血統を欠いた状態で記載されている。(バイアリータークは輸入馬ではない。Priorの『Early Records of the Throughbred Horse』(1924)p143.参照。)

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