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(流域各地の小史)
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網代漁港のある河口付近には三角州を塞ぐ形で'''大谷砂丘'''が発達していて、周囲には砂礫台地がある<ref name="大百科_蒲生川"/><ref name="Pref-TT-基本方針"/>。現在の蒲生川と[[大岩駅]]のあいだの平野部はかつての潟湖がしだいに埋め立てられて後背湿地となり、江戸時代までは「大谷沢」と称する沼沢地だった<ref name="大百科_蒲生川"/><ref name="Pref-TT-基本方針"/><ref name="平凡地名_岩美郡"/>。これが江戸期を通じて埋め立てられ、現在は水郷地帯となっている<ref name="平凡地名_岩美郡"/><ref name="平凡地名_大谷田"/>。
 
網代漁港のある河口付近には三角州を塞ぐ形で'''大谷砂丘'''が発達していて、周囲には砂礫台地がある<ref name="大百科_蒲生川"/><ref name="Pref-TT-基本方針"/>。現在の蒲生川と[[大岩駅]]のあいだの平野部はかつての潟湖がしだいに埋め立てられて後背湿地となり、江戸時代までは「大谷沢」と称する沼沢地だった<ref name="大百科_蒲生川"/><ref name="Pref-TT-基本方針"/><ref name="平凡地名_岩美郡"/>。これが江戸期を通じて埋め立てられ、現在は水郷地帯となっている<ref name="平凡地名_岩美郡"/><ref name="平凡地名_大谷田"/>。
  
岩本地区から下流は網代漁港となっており、河岸には造船工場や水産加工場が並んでいる<ref name="大百科_蒲生川"/>。現在の網代漁港は、河口側から網代、沓井、岩本地区に面しているが、かつてはそれぞれ別の港だった。このうちもっとも内陸側の岩本港が風の影響が小さく、江戸時代を通して番屋が置かれて海上交通の起点となっていた。岩本港には[[鳥取藩]]の蔵があり、岩井郡の年貢米を集積し、大型船で鳥取の賀露港を経由して上方へ回送していた。網代港が本格的に拓かれたのは1862(文久2)年の築港工事以降である<ref name="町誌_海上交通"/>。
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岩本地区から下流は網代漁港となっており、河岸には造船工場や水産加工場が並んでいる<ref name="大百科_蒲生川"/>。
 
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このあたりに鉄道([[山陰本線]])が開通するのは明治末期を待たねばならず、それまで岩本港・網代港はこの地域の物流・交通の要衝として大いに栄えた。鉄道が全通した大正期以降は、交易港の役割を終え、漁港となった<ref name="町誌_海上交通"/>。
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2015年10月4日 (日) 03:03時点における版

テンプレート:Infobox 河川 蒲生川(がもうがわ[1])は、鳥取県岩美郡岩美町を流れる二級河川[2]。流域面積は90.9km2で、延長22.6km[3]、うち幹川流路延長は河口から17.6kmまでの区間となっている[2]

源流には河合谷高原、中流には岩井温泉、河口には網代魚港がある。また、支流の小田川の上流には荒金鉱山などの鉱山が散在する[2]

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地理

蒲生川は源流から河口まで岩美町を流れており、その流域面積は岩美町全域の7割以上を占めている[4]


蒲生川の源流は、扇ノ山から北に伸びる稜線の西側にある。このあたりを河合谷高原といい、る。

天神池
天神滝
├長谷川
┤真名川
┤瀬戸川
├宇治下の谷川
┤小田川
┤日比野川
網代港
源流

扇ノ山は南北に長く峰を伸ばしており、そのうち北へ向かう稜線の東斜面の標高900m一帯に河合谷高原という高原域が広がっていて、ここの天神池が蒲生川の水源である[3][5]

池から発した流れは兵庫県との県境に沿ってしばらく北流する[2]。このあたりは火山に由来する流紋岩や凝灰岩が急峻な地形をなしており、天神滝を含めて標高差300mあまりを一気に下る急流となる[3][2]

上流

上流域ではワサビ栽培が行われている[3]

鳥越地区で人里に出ると北西に向きを転じ、蕪島、横尾地区などを経て塩谷地区、蒲生地区へ出る。このあたりから谷が開け、谷底平野となる。塩谷地区から兵庫県側から蒲生峠を降りてきた旧山陰道・国道9号線が並走する[3][6]

中流

このあと長谷川をあわせて西へ向かう。真名川や瀬戸川などが集まるあたりに岩井温泉の温泉街が形成されている。岩井温泉のあたりはかつて岩井宿があり、岩井村の中心地だった。蒲生川の左岸に温泉街があり、右岸の宇治地区には[2][3][6]


下流

新井地区で小起伏山地の山裾の狭い部分を蛇行しながら抜けると、下流域の沖積平野に出る[3][2]。蒲生川はかつてここから北流し、現在の岩美駅周辺をぬけて田後港のある浦富海岸へ流れていたが、小田川との合流によって河川争奪が起き、今は西へ向かって網代漁港で日本海へ注いでいる[7][8]

網代漁港のある河口付近には三角州を塞ぐ形で大谷砂丘が発達していて、周囲には砂礫台地がある[3][2]。現在の蒲生川と大岩駅のあいだの平野部はかつての潟湖がしだいに埋め立てられて後背湿地となり、江戸時代までは「大谷沢」と称する沼沢地だった[3][2][9]。これが江戸期を通じて埋め立てられ、現在は水郷地帯となっている[9][10]

岩本地区から下流は網代漁港となっており、河岸には造船工場や水産加工場が並んでいる[3]


小田川

荒金川

延長4.8km(指定延長2.2km)、流域面積8.4km2 [11]

流路と支流

二級河川コード表に掲載のもの[1]

  • 蒲生川
  • 日比野川(ひびのがわ[1]、ひびやがわ[2]
  • 小田川(おだがわ[1]
  • 荒金川(あらかねがわ[1]
  • 宇治下の谷川(うじしものたにがわ[1]
  • 瀬戸川(せとがわ[1]
  • 真名川(まながわ[1]
  • 長谷川(はせがわ[1]、ながたにがわ[2]


利用と治水

流域の平均降水量は年2,200ミリで、中国地方としてはやや降水量の多い地域である。蒲生川は流域の水田の灌漑に広く使われており、約800haの農地を潤している。過去の渇水期でも、これらの農業用水が不足するようなことになったことがない[2]

1959(昭和34)年の伊勢湾台風では、豪雨によって堤防が決壊した。このときは岩井温泉の下流側にある恩志橋付近から堤防が破れ、岩美駅周辺の家屋に広く浸水被害を出した。これを受けて1965(昭和40)年から河道と堤防の改修事業が始まり、河道の拡幅や付け替えが行われた[2]

しかしその後も1979(昭和59)年、1990(平成2)年、2004(平成16)年にも川の氾濫で浸水被害が出ている。とりわけ平成2年台風第19号では小田川との合流地点を中心に、恩志、岩美駅付近から大岩駅付近に至るまで広い範囲で浸水し、130戸近くの浸水家屋を出した。現在も治水対策が進められている[2][4]

親水面では、岩井温泉付近に親水地が設けられ、湯治客の散策路として整備されている[2]

水質はよく、1998(平成10)年から2007(平成19)年の生物化学的酸素要求量(BOD)75%値は0.5から1.8mg/lで推移し、環境基準AAないしA類型をクリアしている[2]

自然環境

植生

蒲生川の流域は対馬海流の影響を受けて暖かく、特に海岸付近では暖地性植物が分布している。河口付近の浦富地域では、シイノキ、タブノキ、モチノキなどが自然林を形成している。山間部にはコナラが広く分布していて、ところどころにアカマツ、スギ、ヒノキ、サワラの人工林がある。源流の天神池のまわりにはブナ林がある[2]

動物

流域で見られる貴重な動物としては、日本最小のハッチョウトンボ、絶滅危惧種のカスミサンショウウオが挙げられる。このほか上流の湛水域ではオオサンショウウオ、カワムツ、タカハヤが生息し、岩場や渓流域にはドンコが分布している[2]

中流の川筋には人の手が入っておらず水質もよく、淵、瀬などの変化に富み、水田との連続性も保たれている。このあたりでは絶滅危惧種のスジシマドジョウが確認されているほか、砂利の川床はアユの産卵地になっている[2]

下流ではホクラクハゼ、スミウキゴリ、ヌマチチブなどの汽水性の魚類や、水生植物の密集地には絶滅危惧種のメダカが確認されている[2]。このほかヤリタナゴ、[12]

過去の著しい渇水期でも川が枯れることはなく、水棲生物は淵や澪筋で棲息が可能である。ただし海と川を行き来する魚類にとっては堰を超えるのが困難になるため、アユ、ウナギ、モクズガニの生息環境を維持するため、魚道の整備が課題になっている[2]

このほか野生動物の哺乳動物として、タヌキ、キツネ、イノシシ、鳥類ではウミウ、クロサギ、イソヒヨドリ、両生類ではモリアオガエルや各種のサンショウウオなどが広く分布している[2][13]

流域各地の小史

蒲生川の流域は古来から「巨濃郡(このこおり)[注 1]」と称し、中世に「岩井郡」と改められた。改名の時期は明確な史料に乏しく、諸説あり定まらないが、戦国期に岩井城が因幡国但馬国の境を守る要衝となったことで岩井郡が通称となり、江戸時代に「岩井郡」が定まったと考えられている。郡衙の位置も複数の説があり、いまの岩井温泉付近とする説と、小田川との合流付近の新井地区とする説がある[14]

いまの蒲生地区は「蒲生郷」と呼ばれており、平安時代には石清水八幡宮の広大な荘園があって「巨野別宮」と呼ばれていた。蒲生地区に隣接する馬場地区は、八幡宮の流鏑馬神事を行う場所だったと伝えられている。かつて蒲生別宮はかなり広い所領を有していたが、中世を通じて「宇治」地区や温泉のあるあたりが栄えるようになり、「蒲生別宮」と「宇治別宮」が区別されるようになっていった[15][16][17][18][6]

蒲生地区のあたりは、山陰道の蒲生峠の関所がおかれたり後述する鉱山によってある程度栄えた。しかし鉱山が江戸時代には下火になっていったのに対し、宇治地区付近の岩井温泉が街道の宿場として繁盛するようになり、地域の中心地は温泉のある岩井地区へ移っていった。両地区の中間辺りの蒲生川右岸には7世紀後半から平安時代のものとされる寺院の遺構(岩井廃寺)があり、国指定の史跡になっている。岐阜県岩井の延算寺の本尊(重要文化財)は巨濃郡岩井から移されたと伝えられており、岩井廃寺がその寺に比定されている。また、岩井地区にある御湯神社はかつて大野宮と称し、いまよりも蒲生地区寄りにあったとされている[6][19]

馬場地区の下流で右岸から合流する白地川の河岸段丘には白地地区がある。延喜年間(901-923)の大洪水で家を失った生き残りが拓いた集落と伝えられており、白い粘土を産したことから白地と称するようになったとされている。また、硯石の産地として知られる。戦国期には白地城が築かれて尼子家臣の安藤信濃守が入り、豊臣秀吉による上月城攻略に参加した[20]

蒲生川流域の鉱山と荒金鉱山の鉱毒問題

蒲生峠の真下の三日月山には、かつて銀山があった。戦国末期の1593(文禄2)年に初めて発見され、当時の鳥取城主宮部継潤が盛んに開発を行った。最盛期には700-800軒の家が立ち並び、1598(慶長3)年には当地産の銀9282枚余が豊臣秀吉に献上されたと記録されている。これは生野銀山に次ぐ産出量だった。しかし、さらに鉱脈を得るために山を崩し、川の水で土砂を流して採掘が行ったところ土砂崩れを招き、銀鉱は間もなく廃絶した。関ヶ原の戦いの後に池田長吉が入封した時には既に銀山からは何も得られなくなっていた[21][22]

銀山の対岸にあたる塩谷・法正寺地区では、江戸中期から金や銅を産する蒲生銅山が開発された。最盛期には銅銭2万貫を鋳造するだけの産出量があり、「因幡銭」と称した。しかし10-20年のうちに銅の産出量は激減し、細々と採掘される程度になった。幕末から明治にかけて再び銅山の開発が盛んになり、明治中期からは「宝得鉱山」として民間の操業が行われたが、明治末期には閉山になった。[23]

一方、これらの鉱山と山を隔てた小田川支流の荒金川上流には荒金鉱山がある。ここでは古代から金を産したが、精錬技術がなかったため鉱石のまま朝廷に献上されており、そのために「鉱(あらかね)」が村の名前になったとされている。荒金川の右岸には、当時の鉱山管理のための役所跡ともみられる古代の建物跡からなる広庭遺跡がある。しかし、鉱山の採掘は近世までほとんど行われておらず、明治中期にはいって銅の露頭が見つかり、開発が本格化した。鉱石は新井地区まで陸送し、そこから船で運び出していたが、明治末期に山陰本線が開通すると、岩美駅から鉄道で輸送するようになった[24][11]

しかし銅山の開発によって荒金川・小田川流域の鉱毒汚染が深刻化し、一帯の水田が無収穫になるほど悪化した。銅山では金銭補償や廃水を中和するための石灰の現物支給、汚染されていない水を引くための水路整備などを行ったが、こうした負担と景気の低迷によって鉱山経営は下火になった。1923(大正12)年に鉱山大手の久原鉱業に経営権が渡ると、第一次世界大戦に伴う好況とあいまって銅山は最盛期を迎え、蒲生川沿いに岩井町営軌道が敷かれて鉱石の輸送を担った[24][11]

昭和に入ると銅の産出量が落ちてきたが、1943(昭和18)年の鳥取地震で鉱山内の施設が全壊するとともに、鉱泥を溜めた堰堤が崩壊して周辺の家屋を押しつぶして62名の死者行方不明を出すに及び、鉱山経営は行き詰った。さらに翌年の大雨でこの鉱泥が広範囲に流出して水田を汚染し、小田川流域一帯は数年に渡って米の収穫が得られなくなった。鉱山は閉山になり、廃水管理だけを行うようになったが、流域はその後も長年にわたって鉱毒に悩まされることになった[24][11]


蒲生川の水運

恩志には江戸時代に船着き場があり、蒲生川上流から運ばれる年貢米の中継地になっていた。 [25]

下流域の新田開発

蒲生川と小田川の合流地点にある太田地区では、江戸時代には蒲生川を堰き止める築堤(太田堰)があった。山陰では一般に冬の強い偏西風で海から川へ砂があがってきて河口を閉塞したり川床が上昇し、水流が滞って氾濫を招くことが多く、冬の間は太田堰で水を貯め、水路へ放流して水路が砂で埋まるのを防ぐ目的があった[26]


下流域の大谷沢は、2つの大きな沼沢地だった。1711(正徳元)年から埋め立てがはじまり、100年以上をかけて新田開発が続けられた。新田は盛んに新田開発を行った和田徳兵衛(和田得中)の名をとって「和田新田」や「大谷田圃」などと呼ばれた。1815(文化12)年頃には300石弱の石高が得られるようになっていたが、劣悪な沢田も残されていた。蒲生地区や新井地区では条里制を伝える整然とした区画になっているが、この大谷田圃付近では区画が整っていない[10][27]

脚注・出典

注釈

  1. 「古乃」、「巨野」、「巨能」などの表記もある。[14]

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 二級水系総括表 (PDF) 2015年10月2日閲覧。
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 2.15 2.16 2.17 2.18 2.19 2.20 2.21 蒲生川水系河川整備基本方針(平成22年9月) (PDF) 2015年10月2日閲覧。
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 3.8 3.9 『鳥取県大百科事典』p192「蒲生川」
  4. 4.0 4.1 蒲生川水系 河川整備計画(平成23年3月) (PDF) 2015年10月2日閲覧。
  5. 『鳥取県境の山』p110-13「河合谷高原」「扇ノ山」
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p252-253「蒲生」「蒲生川」
  7. 地勢及び地質 (PDF) 2015年10月2日閲覧。
  8. 平成4年統計年鑑 地勢及び地質 (PDF) 2015年10月2日閲覧。
  9. 9.0 9.1 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p75-76「岩美郡・岩美町」
  10. 10.0 10.1 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p85「大谷田圃」
  11. 11.0 11.1 11.2 11.3 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p84「荒金」「荒金川」
  12. レッドデータブックとっとり(魚類) (PDF) 2015年10月2日閲覧。
  13. レッドデータブックとっとり(両生類) (PDF) 2015年10月2日閲覧。
  14. 14.0 14.1 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p53-56「巨濃郡・岩井郡」
  15. 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p77「蒲生別宮」
  16. 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p91-92「馬場村」
  17. 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p92「蒲生村」
  18. 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p88「宇治村」
  19. 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p90「岩井廃寺」
  20. 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p417「白地」
  21. 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p93「銀山村」
  22. 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p288-289「銀山」
  23. 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p92-93「蒲生銅山」
  24. 24.0 24.1 24.2 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p96-97「荒金村」
  25. 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p88「恩志村」
  26. 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p86「太田村」
  27. 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p113-117「岩井」
引用エラー: <references> で定義されている <ref> タグ (name=".E7.94.BA.E8.AA.8C_.E6.B5.B7.E4.B8.8A.E4.BA.A4.E9.80.9A") は、先行するテキスト内で使用されていません。


参考文献

  • 国土交通省中国地方整備局・鳥取河川国道事務所
  • 鳥取県庁


  • 『鳥取県大百科事典』,新日本海新聞社鳥取県大百科事典編纂委員会・編,新日本海新聞社,1984
  • 『鳥取県境の山』,日本山岳会山陰支部・山陰の山研究委員会・編,日本山岳会山陰支部・刊,1999
  • 『岩美町誌』,岩美町誌刊行委員会,1968
  • 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』,平凡社,1992
  • 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』,角川書店,1982,ISBN 978-4040013107

外部リンク