「ユーストンホール」の版間の差分
Julyfestival (トーク | 投稿記録) (ページの作成:「en:Euston Hall カントリー・ハウス」) |
Julyfestival (トーク | 投稿記録) |
||
(同じ利用者による、間の12版が非表示) | |||
行2: | 行2: | ||
[[カントリー・ハウス]] | [[カントリー・ハウス]] | ||
+ | |||
+ | ==冒頭文== | ||
+ | '''ユーストン・ホール'''(英:Euston Hall)はイングランド東部の[[サフォーク|サフォーク州]]{{仮リンク|ユーストン (サフォーク)|en|Euston, Suffolk|label=ユーストン}}にある[[カントリー・ハウス]]で、[[グラフトン公|グラフトン公爵家]]の邸宅である。 | ||
+ | |||
+ | ==来歴== | ||
+ | ===前史=== | ||
+ | 集落地{{仮リンク|ユーストン (サフォーク)|en|Euston, Suffolk|label=ユーストン}}の名は1087年の検地帳([[ドゥームズデイ・ブック]])に見られる<ref name="公式-歴史-ホール"/>。 | ||
+ | |||
+ | ===チャールズ2世による整備=== | ||
+ | 1660年に[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]が[[イングランド王政復古|王政復古]]を果たした。 | ||
+ | |||
+ | 1666年、チャールズ2世の秘書([[:en:Secretary of State (United Kingdom)|Secretary of State]])を務める[[ヘンリー・ベネット (初代アーリントン伯)|アーリントン男爵]]{{refnest|group="注"|アーリントンの爵位は1666年時点では男爵([[アーリントン男爵]])。のち、1672年にアーリントン伯爵位となり、同時にセットフォード子爵位も与えられた。セットフォード(ノーフォーク州)は、サフォーク州ユーストンとは州境を挟んで隣接する位置にある。}}が、ユーストンにあった領主の邸宅([[マナー・ハウス]])を購買した<ref name="公式-歴史-ホール"/>。 | ||
+ | |||
+ | (チャールズ2世と)アーリントン卿<!--「男爵」と「伯爵」が混在するとややこしいので、ここでは「卿」とした-->が館全体に大掛かりな再整備を行ったことで、ユーストン・ホールはフランス様式の邸宅へと生まれ変わった<ref name="公式-歴史-ホール"/>{{refnest|group="注"|チャールズ2世は、王太子時代に[[清教徒革命]]が起きて1646年にイングランドを追われ亡命、16歳から14年あまりをフランスで過ごした。[[騎士党|王党派]]だったアーリントン伯は、はじめはイングランドに踏みとどまって[[円頂党|議会派]]と戦ったが、敗戦によってフランスに逃れ、チャールズ2世の側近となった。初代グラフトン公の母であるバーバラは、王党派のヴィリアーズ家の出自だった。しかしバーバラが3歳のときに父は議会派との合戦に敗れて討死にし、ヴィリアーズ家は没落した。その後、バーバラは亡命時代のチャールズ2世に出会い、愛人関係が始まった。}}。 | ||
+ | |||
+ | ===グラフトン公の時代=== | ||
+ | |||
+ | チャールズ2世は亡命中に[[バーバラ・パーマー]]という人妻と愛人関係を結んでいて、チャールズ2世がポルトガル王女カタリナを正式な王妃として迎えた後も、バーバラを愛人とした。しかしバーバラにはほかにも愛人がいて、出産のたびに本当の父親が誰であるか、チャールズ2世の悩みの種になった。バーバラは生涯で6人の子を産み、チャールズ2世は結局そのうち5人を庶子として認知した。[[ヘンリー・フィッツロイ (初代グラフトン公)|ヘンリー]](のちの初代グラフトン公)はそのうちの一人である。 | ||
+ | |||
+ | 1672年に、庶子ヘンリーは、アーリントン卿の一人娘[[イザベラ・フィッツロイ (グラフトン公爵夫人)|イザベラ]]が結婚することになった<ref name="公式-歴史-公爵家"/><ref name="Collins1741-p63"/>。このときヘンリーは9歳、イザベラは5歳だった。1675年、チャールズ2世は、庶子ヘンリーのためにグラフトン公爵位を創設した<ref name="公式-歴史-公爵家"/>。1679年にイザベラが12歳になり、法的に正式な結婚が認められる年齢に達したので、ヘンリーとイザベラは改めて正式に結婚式を行った。 | ||
+ | |||
+ | イザベラの父、アーリントン卿が1685年に没すると、ユーストン・ホールの邸宅はイザベラが相続、グラフトン公爵夫妻のものとなった。 | ||
+ | |||
+ | これ以来ユーストン・ホールは代々のグラフトン公爵の所有となっている<ref name="公式-歴史-公爵家"/>。 | ||
+ | |||
+ | ==敷地== | ||
+ | ==構造== | ||
+ | |||
+ | ==脚注== | ||
+ | ===注釈=== | ||
+ | <references group="注"/> | ||
+ | ===出典=== | ||
+ | {{Reflist|colwidth=30em | ||
+ | |refs= | ||
+ | <!-- --> | ||
+ | *<ref name=""></ref> | ||
+ | |||
+ | <!--公式サイト --> | ||
+ | *<ref name="公式-歴史-公爵家">Eustonhall.co.uk(公式サイト)、[https://www.eustonhall.co.uk/history History]「THE FITZROY FAMILY」.2020年7月18日閲覧。</ref> | ||
+ | *<ref name="公式-歴史-ホール">Eustonhall.co.uk(公式サイト)、[https://www.eustonhall.co.uk/history History]「EUSTON HALL」.2020年7月18日閲覧。</ref> | ||
+ | |||
+ | *<ref name="Collins1741-p63">Arthur Collins Esq.,“The Peerage of England , vol1”,W.Strahan, J.F and C.Rivington, London, MDCCXLI(1741年).[https://books.google.co.jp/books?id=IkhAAAAAYAAJ Google Books版]。p.63</ref> | ||
+ | |||
+ | }} | ||
+ | ===書誌情報=== | ||
+ | ==関連図書== | ||
+ | ==外部リンク== | ||
+ | *[https://www.eustonhall.co.uk/ Eustonhall.co.uk] - 公式サイト | ||
+ | |||
+ | ==関連項目== | ||
+ | {{Commons&cat|○○○○}} | ||
+ | {{デフォルトソート:○○○○}} | ||
+ | [[Category:○○]] |
2020年7月18日 (土) 13:31時点における最新版
目次
冒頭文
ユーストン・ホール(英:Euston Hall)はイングランド東部のサフォーク州ユーストンにあるカントリー・ハウスで、グラフトン公爵家の邸宅である。
来歴
前史
集落地ユーストンの名は1087年の検地帳(ドゥームズデイ・ブック)に見られる[1]。
チャールズ2世による整備
1666年、チャールズ2世の秘書(Secretary of State)を務めるアーリントン男爵[注 1]が、ユーストンにあった領主の邸宅(マナー・ハウス)を購買した[1]。
(チャールズ2世と)アーリントン卿が館全体に大掛かりな再整備を行ったことで、ユーストン・ホールはフランス様式の邸宅へと生まれ変わった[1][注 2]。
グラフトン公の時代
チャールズ2世は亡命中にバーバラ・パーマーという人妻と愛人関係を結んでいて、チャールズ2世がポルトガル王女カタリナを正式な王妃として迎えた後も、バーバラを愛人とした。しかしバーバラにはほかにも愛人がいて、出産のたびに本当の父親が誰であるか、チャールズ2世の悩みの種になった。バーバラは生涯で6人の子を産み、チャールズ2世は結局そのうち5人を庶子として認知した。ヘンリー(のちの初代グラフトン公)はそのうちの一人である。
1672年に、庶子ヘンリーは、アーリントン卿の一人娘イザベラが結婚することになった[2][3]。このときヘンリーは9歳、イザベラは5歳だった。1675年、チャールズ2世は、庶子ヘンリーのためにグラフトン公爵位を創設した[2]。1679年にイザベラが12歳になり、法的に正式な結婚が認められる年齢に達したので、ヘンリーとイザベラは改めて正式に結婚式を行った。
イザベラの父、アーリントン卿が1685年に没すると、ユーストン・ホールの邸宅はイザベラが相続、グラフトン公爵夫妻のものとなった。
これ以来ユーストン・ホールは代々のグラフトン公爵の所有となっている[2]。
敷地
構造
脚注
注釈
- ↑ アーリントンの爵位は1666年時点では男爵(アーリントン男爵)。のち、1672年にアーリントン伯爵位となり、同時にセットフォード子爵位も与えられた。セットフォード(ノーフォーク州)は、サフォーク州ユーストンとは州境を挟んで隣接する位置にある。
- ↑ チャールズ2世は、王太子時代に清教徒革命が起きて1646年にイングランドを追われ亡命、16歳から14年あまりをフランスで過ごした。王党派だったアーリントン伯は、はじめはイングランドに踏みとどまって議会派と戦ったが、敗戦によってフランスに逃れ、チャールズ2世の側近となった。初代グラフトン公の母であるバーバラは、王党派のヴィリアーズ家の出自だった。しかしバーバラが3歳のときに父は議会派との合戦に敗れて討死にし、ヴィリアーズ家は没落した。その後、バーバラは亡命時代のチャールズ2世に出会い、愛人関係が始まった。
出典
書誌情報
関連図書
外部リンク
- Eustonhall.co.uk - 公式サイト