「カール・クリスチャン・ゲルトナー」の版間の差分

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===「ブレーメン寄与」創刊===
 
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しかしやがて、ゲルトナーはゴットシェートの教えに疑問を抱くようになった。ゲルトナーはゴットシェートに対抗し、新たに「{{Lang|de|''Neuen Beyträgen zum Vergnügen des Verstandes und Witzes''}}」(新・悟性と機知の喜びのための寄与)という文芸誌を1744年に創めた。これにはライプツィヒ大学の同僚[[ヨハン・アンドレーアス・クラーマー|クラーマー]]、{{仮リンク|ゴットリーブ・ヴィルヘルム・ラーベナー|label=ラーベナー|de|Gottlieb Wilhelm Rabener}}、{{仮リンク|ヨハン・アドルフ・シュレーゲル|label=J・A・シュレーゲル|de|Johann Adolf Schlegel}}、さらには{{仮リンク|コンラート・アーノルド・シュミット|de|Konrad Arnold Schmid|label=C・A・シュミット}} 、{{仮リンク|ヨハン・アーノルド・エーバート|de|Johann Arnold Ebert|label=エーバート}}、{{仮リンク|ユストゥス・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァハーリエ|de|Justus Friedrich Wilhelm Zachariae|label=ツァハーリエ}}、{{仮リンク|ニコラウス・ディートリッヒ・ギーゼケ|de|Nikolaus Dietrich Giseke|label=ギーゼケ}}らが参加した。
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しかしやがて、ゲルトナーはゴットシェートの教えに疑問を抱くようになった。ゲルトナーはゴットシェートに対抗し、新たに「{{Lang|de|''Neuen Beyträgen zum Vergnügen des Verstandes und Witzes''}}」(新・悟性と機知の喜びのための寄与)という文芸誌を1744年に創めた。これにはライプツィヒ大学の同僚[[ヨハン・アンドレーアス・クラーマー|クラーマー]]、{{仮リンク|ゴットリーブ・ヴィルヘルム・ラーベナー|label=ラーベナー|de|Gottlieb Wilhelm Rabener}}、{{仮リンク|ヨハン・アドルフ・シュレーゲル|label=J・A・シュレーゲル|de|Johann Adolf Schlegel}}、さらには{{仮リンク|コンラート・アーノルド・シュミット|de|Konrad Arnold Schmid|label=C・A・シュミット}} 、{{仮リンク|ヨハン・アーノルド・エーバート|de|Johann Arnold Ebert|label=エーバート}}、{{仮リンク|ユストゥス・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァハーリエ|de|Justus Friedrich Wilhelm Zachariae|label=ツァハーリエ}}、{{仮リンク|ニコラウス・ディートリッヒ・ギーゼケ|de|Nikolaus Dietrich Giseke|label=ギーゼケ}}らが参加した<ref name="ADB-ゲルトナー"/>。
  
この雑誌は「[[ブレーメン寄与]]」(<ruby>{{Lang|de|''Bremer Beiträge''}}<rt>ブレーマー・バイトレーゲ</rt></ruby>)の通称で知られている。「ブレーメン寄与」にはのちに[[フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック|クロプシュトック]]も参加した。
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この雑誌は「[[ブレーメン寄与]]」(<ruby>{{Lang|de|''Bremer Beiträge''}}<rt>ブレーマー・バイトレーゲ</rt></ruby>)の通称で知られている。「ブレーメン寄与」にはのちに[[フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック|クロプシュトック]]も参加した<ref name="ADB-ゲルトナー"/>。
  
このほか、ゲルトナーは牧歌「{{Llang|言語記事名=ドイツ語|de|''Die geprüfte Treue''}}」(''信なる忠義'')を書いた。しかし、ゲルトナーは著作家としてではなく、批評家として高く評価されるようになった。
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このほか、ゲルトナーは牧歌「{{Llang|言語記事名=ドイツ語|de|''Die geprüfte Treue''}}」(''信なる忠義'')を書いた。しかし、ゲルトナーは著作家としてではなく、批評家として高く評価されるようになった<ref name="ADB-ゲルトナー"/>。
  
1745年にゲルトナーはライプツィヒを去った。このときにクロプシュトックが友人であるゲルトナーを送る詩「{{Lang|de|''An meine Freunde''}}」をつくった。この詩のなかでクロプシュトックはゲルトナーに対して最大級の賛辞を送っており、クロプシュトックがゲルトナーを高く評価していたことがうかがえる。その後、「ブレーメン寄与」のメンバーから数多くの作品が生まれた。
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1745年にゲルトナーはライプツィヒを去った。このときにクロプシュトックが友人であるゲルトナーを送る詩「{{Lang|de|''An meine Freunde''}}」をつくった。この詩のなかでクロプシュトックはゲルトナーに対して最大級の賛辞を送っており、クロプシュトックがゲルトナーを高く評価していたことがうかがえる。その後、「ブレーメン寄与」のメンバーから数多くの作品が生まれた<ref name="ADB-ゲルトナー"/>。
  
 
===ブラウンシュヴァイク時代===
 
===ブラウンシュヴァイク時代===
  
シェーンブルク家([[:de:House of Schönburg]])の若いプリンスたちの家庭教師をしていたが、1746年に[[ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領]]の首都[[ブラウンシュヴァイク]]に招聘され、ブラウンシュヴァイクに新設されたカール大学([[:de:Braunschweig University of Technology|Collegium Carolinum]]<ref group="注">「Carolinum」は、当時の統治者であるブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公[[カール1世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|カール1世]]の名からとられている。カール1世の名前の表記はドイツ語ではKarl、英語ではCharles、ラテン語ではCarolusとなる。</ref>)で教えるようになった。1748年にはカール大学で弁論術と倫理学の博士号を取得。そのころゲルトナーは[[ホラティウス]]や[[ウェルギリウス]]の作品に傾倒した。1761年に、ゲルトナーは学生向けに「{{Lang|de|Sammlung einiger Reden}}」(弁論集)を著した。
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シェーンブルク家([[:de:House of Schönburg]])の若いプリンスたちの家庭教師をしていたが、1746年に[[ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領]]の首都[[ブラウンシュヴァイク]]に招聘され、ブラウンシュヴァイクに新設されたカール大学([[:de:Braunschweig University of Technology|Collegium Carolinum]]<ref group="注">「Carolinum」は、当時の統治者であるブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公[[カール1世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|カール1世]]の名からとられている。カール1世の名前の表記はドイツ語ではKarl、英語ではCharles、ラテン語ではCarolusとなる。</ref>)で教えるようになった。1748年にはカール大学で弁論術と倫理学の博士号を取得。そのころゲルトナーは[[ホラティウス]]や[[ウェルギリウス]]の作品に傾倒した。1761年に、ゲルトナーは学生向けに「{{Lang|de|Sammlung einiger Reden}}」(弁論集)を著した<ref name="ADB-ゲルトナー"/>。
  
そのころもまだライプツィヒでの「ブレーメン寄与」の仲間との交流は続いており、ゲルトナーの推薦で{{仮リンク|ユストゥス・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァハーリエ|de|Justus Friedrich Wilhelm Zachariae|label=ツァハーリエ}}らがブラウンシュヴァイクの宮廷に召し抱えられている。
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そのころもまだライプツィヒでの「ブレーメン寄与」の仲間との交流は続いており、ゲルトナーの推薦で{{仮リンク|ユストゥス・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァハーリエ|de|Justus Friedrich Wilhelm Zachariae|label=ツァハーリエ}}らがブラウンシュヴァイクの宮廷に召し抱えられている<ref name="ADB-ゲルトナー"/>。
  
1775年に、[[ブラシウス|聖ブラシウス]]に関するカノンを依頼された。その頃、「ブレーメン寄与」仲間の{{仮リンク|コンラート・アーノルド・シュミット|label=K・A・シュミット|de|Konrad Arnold Schmid}}から書簡を受け取っている。
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1775年に、[[ブラシウス|聖ブラシウス]]に関するカノンを依頼された。その頃、「ブレーメン寄与」仲間の{{仮リンク|コンラート・アーノルド・シュミット|label=K・A・シュミット|de|Konrad Arnold Schmid}}から書簡を受け取っている<ref name="ADB-ゲルトナー"/>。
  
1780年にはブラウンシュヴァイクの[[宮中顧問官]]となった。
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1780年にはブラウンシュヴァイクの[[宮中顧問官]]となった<ref name="ADB-ゲルトナー"/>。
  
1791年2月14日に没した。
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1791年2月14日に没した<ref name="ADB-ゲルトナー"/>。
  
 
==脚注==  
 
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2016年10月10日 (月) 20:09時点における版


冒頭文

カール・クリスチャン・ゲルトナー(Karl Christian Gärtner,1712-1791)[1]は18世紀ドイツの文学者である。

文芸雑誌『ブレーメン寄与』を創刊した人物として知られている[2]

生涯

ザクセン時代

ゲルトナーは1712年にザクセン選帝侯領フライベルクで生まれた。マイセン公立学校フュルステンシューレ(de:Fürstenschule)[注 1]に学んだ。マイセンでの学友にはゲッレールトラーベナーらがおり、彼らとはライプツィヒ大学でも同窓生となる[3]

ライプツィヒ大学に進学したゲルトナーは、当時のドイツ語圏の文学界を取り仕切っていたゴットシェートに師事した。そこではじめに取り組んだのがピエール・ベールの『歴史批評辞典 (Dictionnaire historique et critique)français版』の翻訳である。また、ゴットシェートの信奉者であるシュヴァルベDeutsch版らとともに、文芸誌「Belustigungen des Verstandes und Witzes」(悟性と機知の楽しみ)(1741-1745年)に加わった[3][4]

「ブレーメン寄与」創刊

しかしやがて、ゲルトナーはゴットシェートの教えに疑問を抱くようになった。ゲルトナーはゴットシェートに対抗し、新たに「Neuen Beyträgen zum Vergnügen des Verstandes und Witzes」(新・悟性と機知の喜びのための寄与)という文芸誌を1744年に創めた。これにはライプツィヒ大学の同僚クラーマーラーベナーJ・A・シュレーゲル、さらにはC・A・シュミットDeutsch版エーバートツァハーリエギーゼケらが参加した[3]

この雑誌は「ブレーメン寄与」(Bremer Beiträgeブレーマー・バイトレーゲ)の通称で知られている。「ブレーメン寄与」にはのちにクロプシュトックも参加した[3]

このほか、ゲルトナーは牧歌「ドイツ語Die geprüfte Treue」(信なる忠義)を書いた。しかし、ゲルトナーは著作家としてではなく、批評家として高く評価されるようになった[3]

1745年にゲルトナーはライプツィヒを去った。このときにクロプシュトックが友人であるゲルトナーを送る詩「An meine Freunde」をつくった。この詩のなかでクロプシュトックはゲルトナーに対して最大級の賛辞を送っており、クロプシュトックがゲルトナーを高く評価していたことがうかがえる。その後、「ブレーメン寄与」のメンバーから数多くの作品が生まれた[3]

ブラウンシュヴァイク時代

シェーンブルク家(de:House of Schönburg)の若いプリンスたちの家庭教師をしていたが、1746年にブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領の首都ブラウンシュヴァイクに招聘され、ブラウンシュヴァイクに新設されたカール大学(Collegium Carolinum[注 2])で教えるようになった。1748年にはカール大学で弁論術と倫理学の博士号を取得。そのころゲルトナーはホラティウスウェルギリウスの作品に傾倒した。1761年に、ゲルトナーは学生向けに「Sammlung einiger Reden」(弁論集)を著した[3]

そのころもまだライプツィヒでの「ブレーメン寄与」の仲間との交流は続いており、ゲルトナーの推薦でツァハーリエらがブラウンシュヴァイクの宮廷に召し抱えられている[3]

1775年に、聖ブラシウスに関するカノンを依頼された。その頃、「ブレーメン寄与」仲間のK・A・シュミットDeutsch版から書簡を受け取っている[3]

1780年にはブラウンシュヴァイクの宮中顧問官となった[3]

1791年2月14日に没した[3]

脚注

注釈

  1. フュルスト(Fürst)は領邦君主、シューレは学校のこと。
  2. 「Carolinum」は、当時の統治者であるブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール1世の名からとられている。カール1世の名前の表記はドイツ語ではKarl、英語ではCharles、ラテン語ではCarolusとなる。

出典

  1. 坂田正治『クロプシュトックの抒情詩研究』,p39
  2. de:Universallexikon(ユニバーサル辞典),2012(オンライン版),Bremer Beiträge,2016年10月8日閲覧。
  3. 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 ドイツ歴史委員会(Historical Commission)・バイエルン科学アカデミー(Bavarian Academy of Sciences),ADB(Allgemeine Deutsche Biographie),Gärtner, Karl Christian,2016年10月10日閲覧。
  4. de:Meyers Konversations-Lexikon(メイヤーズ辞典),1905(オンライン版),Bremer Beiträge,2016年10月8日閲覧。

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参考文献

  • 『ドイツ文学史 原初から現代まで』,フリッツ・マルティーニ・著,高木実・尾崎盛景・棗田光行・山田広明・訳,三修社,1979,1980(第2版)
  • 『クロプシュトックの抒情詩研究』,坂田正治・著,近代文芸社,1996,ISBN 4773354348

関連項目

外部リンク

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