「ヨーク・オールバニ公フレデリック・オーガスタス殿下」の版間の差分
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*1764年 - 生後6ヶ月でオスナブリュック司教(ドイツ)に就任。 | *1764年 - 生後6ヶ月でオスナブリュック司教(ドイツ)に就任。 | ||
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+ | フレデリック王子は、1763年10月16日に、ハノーヴァー朝英国王室のジョージ3世の次男として、セント・ジェームズ<ruby>宮殿<rt>パレス</rt></ruby>で生まれた。1764年2月、生後6ヶ月の時点でハノーファー選帝侯領(現在のドイツ北部)のオスナブリュック司教位に就いた。(Hanoverは英語読みでハノーヴァー、ドイツ語読みでハノーファー。) | ||
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+ | オスナブリュックはハノーファー地方の代表都市のひとつで、中世ドイツのハンザ同盟を構成し、古くから交易で栄えてきた。その司教位の創設は西暦780年に遡る。17世紀の前半、欧州ではカトリックとプロテスタントが激突する三十年戦争が起きて、ドイツの大部分が荒廃した。しかしオスナブリュックはほとんど被害を受けなかったため、この戦争を集結させるウェストファリア条約締結の地に選ばれた。 | ||
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+ | そのウェストファリア条約での取り決めの一つとして、オスナブリュック司教位はカトリックとプロテスタントは交代で務めることと定められた。カトリック側はバイエルンのヴィッテルスバッハ家から司教を出すことになっていて、バイエルン選帝侯がその任に就いていた。そのバイエルン選帝侯が1761年2月に死去してオスナブリュック司教位は空位となり、1年後の1762年にプロテスタント側のブラウンシュヴァイク=リューネブルク家(ハノーファー朝の母体)から新司教を出すこととなっていた。 | ||
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+ | そこへちょうどいいタイミングで、ハノーファー本家に第二王子フレデリックが生まれたのである。そんなわけでフレデリック王子は、0歳6ヶ月でオスナブリュック司教に就任したのだった。むろん、司教と言っても名ばかりであり、まして6ヶ月の赤子に実際に司教として儀式を執行することなどできるわけはない。単にオスナブリュック司教領の領主として、町のあがりを得るだけの職である。このエクストラの収入が、長きに渡り、ヨーク公フレデリック王子の「遊ぶ金」の原資となった。 | ||
===幼少期=== | ===幼少期=== | ||
− | + | 1767年、満4歳になるとバス勲章が授けられて騎士団に入団し、1771年(7歳)にはガーター騎士団に名を連ねた。1780年、17歳になったフレデリック王子は軍人としての道を歩み始めることになる。 |
2018年3月25日 (日) 13:06時点における版
ヨーク・オールバニ公フレデリック・オーガスタス殿下(HRH Prince Frederick Augustus, Duke of York and Albany、1763年 - 1827年)は、英国王ジョージ3世(在位1760年 - 1820年)の次男である。
父の在位期間が長かったがゆえに、フレデリック王子もまた長く「ヨーク公(第二王子)」であった。ヨーク公に叙されたのは19歳のとき、1784年で、それから43年間「ヨーク公」だった。同時に「オールバニ公(Duke of Albany)」と「アルスター伯(Earl of Ulster)」も兼ねていた。オールバニというのはスコットランドの地名、アルスターはアイルランドの地名である。
フレデリック第二王子は、兄であるジョージ・オーガスタス・フレデリック第一王子(のちのジョージ4世)とともに、青年時代から競馬にのめり込んだ。1816年のPrince Leopoldと1822年のMosesの2回、ダービーを勝っている。
主な所有馬
- Prince Leopold - 1816年ダービー
- Moses - 1822年ダービー
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生涯
年表
- 1760年 - 父ジョージ3世が戴冠。
- 1762年 - 兄ジョージ・オーガスタス・フレデリック(のちのジョージ4世)が誕生。
- 1763年 - フレデリック・オーガスタスが誕生。
- 1764年 - 生後6ヶ月でオスナブリュック司教(ドイツ)に就任。
家柄
オスナブリュックからのお小遣い収入
フレデリック王子は、1763年10月16日に、ハノーヴァー朝英国王室のジョージ3世の次男として、セント・ジェームズ宮殿で生まれた。1764年2月、生後6ヶ月の時点でハノーファー選帝侯領(現在のドイツ北部)のオスナブリュック司教位に就いた。(Hanoverは英語読みでハノーヴァー、ドイツ語読みでハノーファー。)
オスナブリュックはハノーファー地方の代表都市のひとつで、中世ドイツのハンザ同盟を構成し、古くから交易で栄えてきた。その司教位の創設は西暦780年に遡る。17世紀の前半、欧州ではカトリックとプロテスタントが激突する三十年戦争が起きて、ドイツの大部分が荒廃した。しかしオスナブリュックはほとんど被害を受けなかったため、この戦争を集結させるウェストファリア条約締結の地に選ばれた。
そのウェストファリア条約での取り決めの一つとして、オスナブリュック司教位はカトリックとプロテスタントは交代で務めることと定められた。カトリック側はバイエルンのヴィッテルスバッハ家から司教を出すことになっていて、バイエルン選帝侯がその任に就いていた。そのバイエルン選帝侯が1761年2月に死去してオスナブリュック司教位は空位となり、1年後の1762年にプロテスタント側のブラウンシュヴァイク=リューネブルク家(ハノーファー朝の母体)から新司教を出すこととなっていた。
そこへちょうどいいタイミングで、ハノーファー本家に第二王子フレデリックが生まれたのである。そんなわけでフレデリック王子は、0歳6ヶ月でオスナブリュック司教に就任したのだった。むろん、司教と言っても名ばかりであり、まして6ヶ月の赤子に実際に司教として儀式を執行することなどできるわけはない。単にオスナブリュック司教領の領主として、町のあがりを得るだけの職である。このエクストラの収入が、長きに渡り、ヨーク公フレデリック王子の「遊ぶ金」の原資となった。
幼少期
1767年、満4歳になるとバス勲章が授けられて騎士団に入団し、1771年(7歳)にはガーター騎士団に名を連ねた。1780年、17歳になったフレデリック王子は軍人としての道を歩み始めることになる。