「ウィリアム1世 (イングランド王)」の版間の差分
Julyfestival (トーク | 投稿記録) |
Julyfestival (トーク | 投稿記録) |
||
行2: | 行2: | ||
ウィリアムは[[英語]]式であるが、フランス出身であり、彼自身も周囲の人も[[フランス語]]を使っていたため、むしろフランス語式に'''ギヨーム''' (Guillaume) と呼ぶ方がふさわしいという見解もある。彼の墓には[[ラテン語]]風に GUILLELMUS と綴られている(右下の墓標の画像)。 | ウィリアムは[[英語]]式であるが、フランス出身であり、彼自身も周囲の人も[[フランス語]]を使っていたため、むしろフランス語式に'''ギヨーム''' (Guillaume) と呼ぶ方がふさわしいという見解もある。彼の墓には[[ラテン語]]風に GUILLELMUS と綴られている(右下の墓標の画像)。 | ||
+ | |||
+ | ===呼称=== | ||
+ | この人物の名前は、出自であるフランスの[[ノルマンディー]]でのフランス風の表記では'''ギョーム'''({{llang|言語記事名=フランス語|fr|'''Guillaume'''}})となり、征服したイギリス風の表記では'''ウィリアム'''({{llang|言語記事名=英語|en|'''William'''}})となる。このほか[[ラテン語]]ではギレルムス(GUILLELMUS)、ドイツ風ではヴィルヘルム({{llang|言語記事名=ドイツ語|goh|Wilhelm}})となる<ref name="人名語源-238"/>。 | ||
+ | |||
+ | この名前のルーツは[[ゲルマン語派|ゲルマン系]]のものである。[[北欧神話]]では「''helm''」は「王冠」や「王」、あるいは「神」を表す語として用いられていて、これが転じて「兜」、さらには「守護」を意味するものとなったと考えられている。これに「意志」を意味する「''wil-''」が前置されて、「意志の強い守護者」を意味する「ヴィルヘルム」({{llang|言語記事名=古高ドイツ語|goh|Willahelm}}、{{llang|言語記事名=ドイツ語|goh|Wilhelm}})となった。「''wil-''」からは「富」を表す語「{{llang|言語記事名=古英語|ang|''willa''}}」(「{{llang|言語記事名=中英語|enm|''wealthe''}}」・「{{llang|言語記事名=英語|en|''wealth''}}」)もうまれており、「富を守る兜」「富を護る王」というニュアンスも持っていたと考えられている<ref name="人名語源-238"/>。 | ||
+ | |||
+ | ゲルマン語では「W-」と綴られていたが、彼らが[[ケルト人]]のいる[[ガリア]](フランス)へ侵入すると、[[ケルト語]]の音変化を受けて「W-」は「Gu-」音となった。この「G」は当初は[[無声喉頭蓋摩擦音]]だったが、時代の経過とともに[[有声軟口蓋閉鎖音]]の{{IPA|ɡʷ}}と発音されるようになっていき、さらに11世紀ごろには{{IPA|ɡ}}と発音されるようになった。これが「ギョーム」である<ref name="人名語源-238"/>。 | ||
+ | |||
+ | ;フランスにおける「ギョーム」 | ||
+ | フランス史では、[[カール大帝|シャルルマーニュ]](カール大帝)の重臣を先祖とする「[[ギレム家]]({{llang|言語記事名=フランス語|fr|Guilhemide}})」という貴族がいる。この家名をゲルマン風に表記すると「ヴィルヘルム家({{llang|言語記事名=フランス語|fr|Wilhelmiden}})」となる。一族からは{{仮リンク|ギヨーム・ド・ジェローヌ|fr|Guillaume de Gellone|label=ギョーム}} ( 755? - 812 ) という人物が、シャルルマーニュ(カール大帝)の三男[[アキテーヌ公|アキテーヌ王]][[ルイ敬虔王|ルイ]]の後見人として登場する。ギョームはルイの部下として[[イベリア半島]]を[[サラセン人]]から奪還する戦い([[レコンキスタ]])に従軍し、特に[[バルセロナ]]奪還で武勲をあげ、フランスの英雄となった。ルイが[[フランク王の一覧|フランク王]]ルイ1世として即位すると、ギレム家はフランス王家の最も有力な貴族となった。「ギレム家(Guilhemide)」の家名はこのギョームの名からとられたものである<ref name="人名語源-238"/>。 | ||
+ | |||
+ | 9世紀にはギレム家の当主[[ギヨーム1世 (アキテーヌ公)|ギヨーム1世]] ( 875 - 918 ) が[[アキテーヌ公]]に封じられた。以来、ギレム家では代々の長男に「ギョーム」の名が授けられるようになった。このギョーム1世はさかんに修道院を建設したことで知られ、ヨーロッパにキリスト教を広めた人物として列聖されるまでになった。こうしたことから当時のフランスでは「ギョーム」という名前が流行したという。ウィリアム1世(ギョーム)の名前もこの流行にあやかったものだろうと考えられている<ref name="人名語源-238"/>。 | ||
+ | |||
+ | ==出自== | ||
+ | |||
+ | |||
+ | |||
+ | |||
===血筋=== | ===血筋=== | ||
行84: | 行102: | ||
|refs= | |refs= | ||
<!-- --> | <!-- --> | ||
− | *<ref name=""></ref> | + | *<ref name="人名語源-238">『ヨーロッパ人名語源事典』p238-240「征服王ウィリアムの栄光」</ref> |
+ | |||
+ | |||
+ | |||
+ | |||
+ | |||
+ | |||
*<ref name="">[ ]年月日閲覧。</ref> | *<ref name="">[ ]年月日閲覧。</ref> | ||
}} | }} | ||
===書誌情報=== | ===書誌情報=== | ||
+ | *『ヨーロッパ人名語源事典』梅田修・著,[[大修館書店]],2000,ISBN 4469012645 | ||
+ | |||
==関連図書== | ==関連図書== | ||
==外部リンク== | ==外部リンク== | ||
==関連項目== | ==関連項目== |
2018年4月7日 (土) 12:28時点における版
ウィリアム1世(William I 、1027年 - 1087年9月9日)は、イングランド王(在位: 1066年 - 1087年)。通称は征服王 (William the Conqueror) あるいは庶子王 (William the Bastard) 。ノルマンディー公(ギヨーム2世、在位: 1035年 - 1087年)でもあった。イングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、ノルマン朝を開いて現在のイギリス王室の開祖となった。
ウィリアムは英語式であるが、フランス出身であり、彼自身も周囲の人もフランス語を使っていたため、むしろフランス語式にギヨーム (Guillaume) と呼ぶ方がふさわしいという見解もある。彼の墓にはラテン語風に GUILLELMUS と綴られている(右下の墓標の画像)。
呼称
この人物の名前は、出自であるフランスのノルマンディーでのフランス風の表記ではギョーム(フランス語: Guillaume)となり、征服したイギリス風の表記ではウィリアム(英語: William)となる。このほかラテン語ではギレルムス(GUILLELMUS)、ドイツ風ではヴィルヘルム(ドイツ語: Wilhelm)となる[1]。
この名前のルーツはゲルマン系のものである。北欧神話では「helm」は「王冠」や「王」、あるいは「神」を表す語として用いられていて、これが転じて「兜」、さらには「守護」を意味するものとなったと考えられている。これに「意志」を意味する「wil-」が前置されて、「意志の強い守護者」を意味する「ヴィルヘルム」(古高ドイツ語: Willahelm、ドイツ語: Wilhelm)となった。「wil-」からは「富」を表す語「古英語: willa」(「中英語: wealthe」・「英語: wealth」)もうまれており、「富を守る兜」「富を護る王」というニュアンスも持っていたと考えられている[1]。
ゲルマン語では「W-」と綴られていたが、彼らがケルト人のいるガリア(フランス)へ侵入すると、ケルト語の音変化を受けて「W-」は「Gu-」音となった。この「G」は当初は無声喉頭蓋摩擦音だったが、時代の経過とともに有声軟口蓋閉鎖音のテンプレート:IPAと発音されるようになっていき、さらに11世紀ごろにはテンプレート:IPAと発音されるようになった。これが「ギョーム」である[1]。
- フランスにおける「ギョーム」
フランス史では、シャルルマーニュ(カール大帝)の重臣を先祖とする「ギレム家(フランス語: Guilhemide)」という貴族がいる。この家名をゲルマン風に表記すると「ヴィルヘルム家(フランス語: Wilhelmiden)」となる。一族からはギョーム ( 755? - 812 ) という人物が、シャルルマーニュ(カール大帝)の三男アキテーヌ王ルイの後見人として登場する。ギョームはルイの部下としてイベリア半島をサラセン人から奪還する戦い(レコンキスタ)に従軍し、特にバルセロナ奪還で武勲をあげ、フランスの英雄となった。ルイがフランク王ルイ1世として即位すると、ギレム家はフランス王家の最も有力な貴族となった。「ギレム家(Guilhemide)」の家名はこのギョームの名からとられたものである[1]。
9世紀にはギレム家の当主ギヨーム1世 ( 875 - 918 ) がアキテーヌ公に封じられた。以来、ギレム家では代々の長男に「ギョーム」の名が授けられるようになった。このギョーム1世はさかんに修道院を建設したことで知られ、ヨーロッパにキリスト教を広めた人物として列聖されるまでになった。こうしたことから当時のフランスでは「ギョーム」という名前が流行したという。ウィリアム1世(ギョーム)の名前もこの流行にあやかったものだろうと考えられている[1]。
出自
血筋
ウィリアム1世(ギヨーム2世)(1027 - 1087)の家柄 | |||
(父) ノルマンディー公 ( 1027 - 1035 ) ロベール1世(1000 - 1035)(ノルマンディー家) |
(祖父)ノルマンディー公 ( 996 - 1026 ) リシャール2世(963 - 1026) |
ノルマンディー公 ( 942 - 996 ) リシャール1世(933 - 996) | |
グンノーラ(936頃? - 1031) | |||
(祖母)ブルターニュ公ジョフロワ1世の姉[† 1] ユーディト(982 - 1017) |
ブルターニュ公 ( 990 - 992 ) コナン1世(? - 992) | ||
アンジュー伯の娘 エルマンガルド(Ermengarde)(956 - 1024) | |||
(母)アルレット[† 2] (1003? - 1050?) |
(祖父) フルベル[† 3]( - ) |
不詳( - ) | |
不詳( - ) | |||
(祖母) 不詳( - ) |
( - ) | ||
( - ) | |||
(兄弟姉妹) 異父弟:オドン(Odon、ケント伯(1067-1088)・バイユー司教(Évêque de Bayeux(1049-1097))) 異父弟:ロベール(Robert、コーンウォール伯(1072-1095)) 異母妹(?[† 4]):アデル(Adelaide) |
|||
(その他の主な血縁者) 伯父:リシャール3世 ( ノルマンディー公 ( 1026 - 1027 ) ) |
- ↑ リシャール2世とユーディトが結婚した1000年の時点では、ユーディトの父でブルターニュ公だったコナン1世は既に没しており、ユーディトの実弟ジョフロワ1世(fr:Geoffroi Ier de Bretagne)がブルターニュ公を継いでいた。
- ↑ 母の名については複数の表記がある。Arlette(アルレット、アーレッテ)やHerleve(エルエーヴ)など。
- ↑ アルレットの出自についての信頼できる確かな記録はない。一般的な伝承では、父はノルマンディー公領内のファレーズ村の皮なめし職人だったという。フルベルの身分については様々な異伝がある。
- ↑ アデルの母がウィリアム1世と同じくアルレットだったかどうかについては不確かである。
脚注
注釈
出典
<references>
で定義されている <ref>
タグに name 属性がありません。書誌情報
- 『ヨーロッパ人名語源事典』梅田修・著,大修館書店,2000,ISBN 4469012645