「ウィリアム1世 (イングランド王)」の版間の差分

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ウィリアムは[[英語]]式であるが、フランス出身であり、彼自身も周囲の人も[[フランス語]]を使っていたため、むしろフランス語式に'''ギヨーム''' (Guillaume) と呼ぶ方がふさわしいという見解もある。彼の墓には[[ラテン語]]風に GUILLELMUS と綴られている(右下の墓標の画像)。
 
ウィリアムは[[英語]]式であるが、フランス出身であり、彼自身も周囲の人も[[フランス語]]を使っていたため、むしろフランス語式に'''ギヨーム''' (Guillaume) と呼ぶ方がふさわしいという見解もある。彼の墓には[[ラテン語]]風に GUILLELMUS と綴られている(右下の墓標の画像)。
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この人物の名前は、出自であるフランスの[[ノルマンディー]]でのフランス風の表記では'''ギョーム'''({{llang|言語記事名=フランス語|fr|'''Guillaume'''}})となり、征服したイギリス風の表記では'''ウィリアム'''({{llang|言語記事名=英語|en|'''William'''}})となる。このほか[[ラテン語]]ではギレルムス(GUILLELMUS)、ドイツ風ではヴィルヘルム({{llang|言語記事名=ドイツ語|goh|Wilhelm}})となる<ref name="人名語源-238"/>。
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;フランスにおける「ギョーム」
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フランス史では、[[カール大帝|シャルルマーニュ]](カール大帝)の重臣を先祖とする「[[ギレム家]]({{llang|言語記事名=フランス語|fr|Guilhemide}})」という貴族がいる。この家名をゲルマン風に表記すると「ヴィルヘルム家({{llang|言語記事名=フランス語|fr|Wilhelmiden}})」となる。一族からは{{仮リンク|ギヨーム・ド・ジェローヌ|fr|Guillaume de Gellone|label=ギョーム}} ( 755? - 812 ) という人物が、シャルルマーニュ(カール大帝)の三男[[アキテーヌ公|アキテーヌ王]][[ルイ敬虔王|ルイ]]の後見人として登場する。ギョームはルイの部下として[[イベリア半島]]を[[サラセン人]]から奪還する戦い([[レコンキスタ]])に従軍し、特に[[バルセロナ]]奪還で武勲をあげ、フランスの英雄となった。ルイが[[フランク王の一覧|フランク王]]ルイ1世として即位すると、ギレム家はフランス王家の最も有力な貴族となった。「ギレム家(Guilhemide)」の家名はこのギョームの名からとられたものである<ref name="人名語源-238"/>。
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*『ヨーロッパ人名語源事典』梅田修・著,[[大修館書店]],2000,ISBN 4469012645
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==関連図書==
 
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==外部リンク==
 
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==関連項目==
 
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2018年4月7日 (土) 12:28時点における版

ウィリアム1世(William I 、1027年 - 1087年9月9日)は、イングランド(在位: 1066年 - 1087年)。通称は征服王 (William the Conqueror) あるいは庶子王 (William the Bastard) 。ノルマンディー(ギヨーム2世、在位: 1035年 - 1087年)でもあった。イングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、ノルマン朝を開いて現在のイギリス王室の開祖となった。

ウィリアムは英語式であるが、フランス出身であり、彼自身も周囲の人もフランス語を使っていたため、むしろフランス語式にギヨーム (Guillaume) と呼ぶ方がふさわしいという見解もある。彼の墓にはラテン語風に GUILLELMUS と綴られている(右下の墓標の画像)。

呼称

この人物の名前は、出自であるフランスのノルマンディーでのフランス風の表記ではギョームフランス語Guillaume)となり、征服したイギリス風の表記ではウィリアム英語William)となる。このほかラテン語ではギレルムス(GUILLELMUS)、ドイツ風ではヴィルヘルム(ドイツ語Wilhelm)となる[1]

この名前のルーツはゲルマン系のものである。北欧神話では「helm」は「王冠」や「王」、あるいは「神」を表す語として用いられていて、これが転じて「兜」、さらには「守護」を意味するものとなったと考えられている。これに「意志」を意味する「wil-」が前置されて、「意志の強い守護者」を意味する「ヴィルヘルム」(古高ドイツ語Willahelmドイツ語Wilhelm)となった。「wil-」からは「富」を表す語「古英語willa」(「中英語wealthe」・「英語wealth」)もうまれており、「富を守る兜」「富を護る王」というニュアンスも持っていたと考えられている[1]

ゲルマン語では「W-」と綴られていたが、彼らがケルト人のいるガリア(フランス)へ侵入すると、ケルト語の音変化を受けて「W-」は「Gu-」音となった。この「G」は当初は無声喉頭蓋摩擦音だったが、時代の経過とともに有声軟口蓋閉鎖音テンプレート:IPAと発音されるようになっていき、さらに11世紀ごろにはテンプレート:IPAと発音されるようになった。これが「ギョーム」である[1]

フランスにおける「ギョーム」

フランス史では、シャルルマーニュ(カール大帝)の重臣を先祖とする「ギレム家フランス語Guilhemide)」という貴族がいる。この家名をゲルマン風に表記すると「ヴィルヘルム家(フランス語Wilhelmiden)」となる。一族からはギョームfrançais版 ( 755? - 812 ) という人物が、シャルルマーニュ(カール大帝)の三男アキテーヌ王ルイの後見人として登場する。ギョームはルイの部下としてイベリア半島サラセン人から奪還する戦い(レコンキスタ)に従軍し、特にバルセロナ奪還で武勲をあげ、フランスの英雄となった。ルイがフランク王ルイ1世として即位すると、ギレム家はフランス王家の最も有力な貴族となった。「ギレム家(Guilhemide)」の家名はこのギョームの名からとられたものである[1]

9世紀にはギレム家の当主ギヨーム1世 ( 875 - 918 ) がアキテーヌ公に封じられた。以来、ギレム家では代々の長男に「ギョーム」の名が授けられるようになった。このギョーム1世はさかんに修道院を建設したことで知られ、ヨーロッパにキリスト教を広めた人物として列聖されるまでになった。こうしたことから当時のフランスでは「ギョーム」という名前が流行したという。ウィリアム1世(ギョーム)の名前もこの流行にあやかったものだろうと考えられている[1]

出自

血筋

ウィリアム1世(ギヨーム2世)(1027 - 1087)の家柄
(父)
ノルマンディー公 ( 1027 - 1035 )
ロベール1世
(1000 - 1035)ノルマンディー家
(祖父)ノルマンディー公 ( 996 - 1026 )
    リシャール2世(963 - 1026)
 ノルマンディー公 ( 942 - 996 )
 リシャール1世(933 - 996)
 
 グンノーラEnglish版(936頃? - 1031)
(祖母)ブルターニュ公ジョフロワ1世の姉[† 1]
    ユーディト(982 - 1017)
 ブルターニュ公 ( 990 - 992 )
 コナン1世(? - 992)
 アンジュー伯の娘
 エルマンガルド(Ermengarde(956 - 1024)
(母)
アルレット[† 2]
(1003? - 1050?)
(祖父)
    フルベルfrançais版[† 3]( - )
 
 不詳( - )
 
 不詳( - )
(祖母)
    不詳( - )
 
 ( - )
 
 ( - )
(兄弟姉妹)
異父弟:オドン(Odonケント伯English版(1067-1088)・バイユー司教(Évêque de Bayeux(1049-1097)))
異父弟:ロベール(Robertコーンウォール伯English版(1072-1095))
異母妹(?[† 4]):アデル(Adelaide
(その他の主な血縁者)
伯父:リシャール3世 ( ノルマンディー公 ( 1026 - 1027 ) )
  1. リシャール2世とユーディトが結婚した1000年の時点では、ユーディトの父でブルターニュ公だったコナン1世は既に没しており、ユーディトの実弟ジョフロワ1世(fr:Geoffroi Ier de Bretagne)がブルターニュ公を継いでいた。
  2. 母の名については複数の表記がある。Arlette(アルレット、アーレッテ)やHerleve(エルエーヴ)など。
  3. アルレットの出自についての信頼できる確かな記録はない。一般的な伝承では、父はノルマンディー公領内のファレーズ村の皮なめし職人だったという。フルベルの身分については様々な異伝がある。
  4. アデルの母がウィリアム1世と同じくアルレットだったかどうかについては不確かである。

脚注

注釈

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 『ヨーロッパ人名語源事典』p238-240「征服王ウィリアムの栄光」
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書誌情報

関連図書

外部リンク

関連項目