「ブルック准男爵」の版間の差分

提供: Test Wiki
移動: 案内検索
(ページの作成:「ブルック准男爵家(Brooke)は、イングランド北西部・チェシャー州の在地領主。 開祖のリチャード・ブルック(Richard Brooke)...」)
 
(歴代)
行15: 行15:
 
==歴代==
 
==歴代==
  
 +
 +
==脚注==
 +
<references group="注"/>
  
 
==カテゴリ==
 
==カテゴリ==
 
[[Category:家系]]
 
[[Category:家系]]
 
[[Category:ブルック准男爵|*]]
 
[[Category:ブルック准男爵|*]]

2019年2月7日 (木) 15:49時点における版

ブルック准男爵家(Brooke)は、イングランド北西部・チェシャー州の在地領主。

開祖のリチャード・ブルック(Richard Brooke)は、チェシャー州中部のナントウィッチの出身である。兵士となり、聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)に入ってマルタ島でイスラム教徒と戦い、一隊の指揮官に出世した。

1545年に、国王ヘンリー8世(在位:1509-1547)はイングランドの宗教改革令を出し、旧来のカトリック修道院を廃止させた[注 1]。このとき、ナントウィッチの北にあるノートンの修道院の利権が売りに出た。ブルック家はこれを購入し、チェシャー州の在地領主に名を連ねた。

ブルック家は、ヘンリー8世やメアリー1世の忠臣として仕え、チェシャー州の代官を任されるまでになった。ただし、宗教的にはバランスを保ち、マルタ騎士団時代の縁からカトリックのカンタベリー大司教、レジナルド・ポールに接近したという。“ブラッディ”メアリ1世はプロテスタントを徹底弾圧して殺戮したことで知られ、レジナルド大司教はその尖兵だった。

17世紀の清教徒革命のときは、ブルック家は議会派として王党派と戦った。しかしイングランド北西部は王党派が主流だったため、ブルック家は四方八方から攻め込まれることになった。ブルック家は、寡兵でノートンの城館に立て籠もり、なんとか持ちこたえたという。この内戦は最終的に議会派が勝利をおさめ、ブルック家はチェシャー州長官の地位を手に入れた。ところが、王政復古によって、こんどはブルック家は反逆者の烙印を押される事になり、当主はチェスター城の捕囚となった。1662年にチャールズ2世によって赦され、ブルック家には准男爵位が授けられた。



歴代

脚注

  1. ヘンリー8世は淫蕩な人物で、次々と王妃を変え、ローマ教会が離婚を認めようとしなかったためにローマ・カトリックと断交することにした、というのが通説だ。だがこの時代は、ドイツをはじめヨーロッパ各地で、旧来の教条的なカトリックの縛りから脱却しようという宗教改革運動が盛んだったことも事実で、イングランドの動きもこれに呼応したものだったとも言える。この動きが広まったのは、単なる個人の信仰の問題だけでなく、各地の領主がローマ教会による搾取を拒もうとした運動であったともいうことができる。領主たちは、教会が領民から富を巻き上げて肥えるのをやめさせ、その富が自分の懐に入るようにしたのだ。

カテゴリ