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(William Lister)
(家柄)
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その子孫は、ヨーク州ミッドホープ(Midhope、シェフィールドの北西)、ギスバーン(Gisburn、シェフィールド近郊)、ソーントン(Thornton、キースリーの西[https://www.google.com/maps/place/53%C2%B055'55.2%22N+2%C2%B008'34.8%22W/@53.8456951,-2.0163796,11.25z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d53.932!4d-2.143?hl=en])など、ヨーク州の各所に小領地を獲得していった。それらは、息子たちへ分割したり、娘の嫁ぎ先へくれてやったりして、代を経ていくうちに散逸していった。
 
その子孫は、ヨーク州ミッドホープ(Midhope、シェフィールドの北西)、ギスバーン(Gisburn、シェフィールド近郊)、ソーントン(Thornton、キースリーの西[https://www.google.com/maps/place/53%C2%B055'55.2%22N+2%C2%B008'34.8%22W/@53.8456951,-2.0163796,11.25z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d53.932!4d-2.143?hl=en])など、ヨーク州の各所に小領地を獲得していった。それらは、息子たちへ分割したり、娘の嫁ぎ先へくれてやったりして、代を経ていくうちに散逸していった。
  
しかし16世紀のウィリアム・リスターの時代に、それらの旧領が再び集まった。
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しかし16世紀のウィリアム・リスターの時代に、それらの旧領が再び集まった。親類のミッドホープ家では、嫡流の男子が断絶しかかっていてアンという娘だけが残っていた。ウィリアム・リスターはアン・ミッドホープを嫁にした。やがてミッドホープ家の当主が没すると、ミッドホープ家の財産はリスター家のものになった。アンは男子4人、女子2人を産み、31歳で亡くなった。そのあと、ウィリアム・リスターはピゴット家の未亡人、ブリジット・ピゴットを後添えとして迎えた。ブリジットは75歳まで生き、14人の子を産んだ(といっても、生まれたその日に死んでしまった子や、1歳になる前に死んだ子もいる。)。
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1570年頃、ウィリアムは、先妻アンとの子ローレンス・リスターに、ギスバーンの領地を受け継がせた。この領地はやがて、[[ダーシー家]]に受け継がれることになった。
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ウィリアムとブリジットのあいだに生まれた12番めの子に、医師になったマシューがいる(本項の馬主・生産者であるマシュー・リスターとは同姓同名の別人)。マシューは、1603年に新英国王となったジェームズ1世の王妃、アン・オブ・デンマークのお抱え医師になった。さらに、国王夫妻の息子であるチャールズ1世も診た。チャールズ1世は1625年に王位を継ぎ、マシューは王室御典医に出世した。そして1636年にナイト爵に叙勲された。
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のアン・ミッドホープを嫁に迎え、
  
 
==系譜==
 
==系譜==

2021年6月23日 (水) 16:12時点における版

リンカン州の Burwell Park(Louth近郊)

家柄

リスター家の系譜を遡ると、13世紀中葉のダービー州の小領主サー・トマス・リスターにたどり着く。当時の家名は「Lassetter」(ラセター)とか、「Lyster」などと綴ったらしい。

その子孫は、ヨーク州ミッドホープ(Midhope、シェフィールドの北西)、ギスバーン(Gisburn、シェフィールド近郊)、ソーントン(Thornton、キースリーの西[1])など、ヨーク州の各所に小領地を獲得していった。それらは、息子たちへ分割したり、娘の嫁ぎ先へくれてやったりして、代を経ていくうちに散逸していった。

しかし16世紀のウィリアム・リスターの時代に、それらの旧領が再び集まった。親類のミッドホープ家では、嫡流の男子が断絶しかかっていてアンという娘だけが残っていた。ウィリアム・リスターはアン・ミッドホープを嫁にした。やがてミッドホープ家の当主が没すると、ミッドホープ家の財産はリスター家のものになった。アンは男子4人、女子2人を産み、31歳で亡くなった。そのあと、ウィリアム・リスターはピゴット家の未亡人、ブリジット・ピゴットを後添えとして迎えた。ブリジットは75歳まで生き、14人の子を産んだ(といっても、生まれたその日に死んでしまった子や、1歳になる前に死んだ子もいる。)。

1570年頃、ウィリアムは、先妻アンとの子ローレンス・リスターに、ギスバーンの領地を受け継がせた。この領地はやがて、ダーシー家に受け継がれることになった。

ウィリアムとブリジットのあいだに生まれた12番めの子に、医師になったマシューがいる(本項の馬主・生産者であるマシュー・リスターとは同姓同名の別人)。マシューは、1603年に新英国王となったジェームズ1世の王妃、アン・オブ・デンマークのお抱え医師になった。さらに、国王夫妻の息子であるチャールズ1世も診た。チャールズ1世は1625年に王位を継ぎ、マシューは王室御典医に出世した。そして1636年にナイト爵に叙勲された。

のアン・ミッドホープを嫁に迎え、

系譜

|Unk Unk Lassetter[2] 1235 - ?
||Thomas Lassetter, (DL=>16th-ggf_mat.)[3] 1260 - ?
|||John Lister, DL=>15th ggf-Mat.)[4] 1290 - 1360 Darby, Darbyshire
||||Sir Richard Lister[5] 1345-1403
|||||Lord John Richard? Lister (Lyster)[6] 1370 - 1434
||||||Lawrence Lister (Lassetter)[7] 1406-1434
|||||||Christopher Lister[8] c.1434 - 1509
||||||||William Lister, Esq.[9] c.14+6 - 1537 Probably Medhope, Yorkshire
|||||||||Sir Christopher Lister[10] c.1496 - 1548.09 Gisburne, Yorkshire
||||||||||Lord of Thornton William George Lister, Esq.◆[11] 1524 - 1582.10.04 Thornton-in-Craven, North Yorkshire


別説

||Sir Thomas Lister[12] 1260 - 1??? Derbyshire
|||Sir John Lister[13] 1290 - 1???
||||Sir Richard Lister[14] 1345 - 1403
|||||Sir John Lister[15] 1380 - 1434
||||||Sir Laurence Lister[16] 1412 - 1???
|||||||Sir Christopher Lister[17] 1434 - 1509
||||||||Sir William Lister[18] 1472 - 1538
|||||||||Lawrence Christopher Lister[19] 1496 - 1551
||||||||||Sir William Lister◆[20] 1512 - 1582.10.04



||||||||||Lord of Thornton William George Lister, Esq.◆[21] 1524 - 1582.10.04 Thornton-in-Craven, North Yorkshire
|||||||||||William Lassetter[22] 1537 - ???? 母Mary
|||||||||||John Lister[23] 1548 - ???? 母Ann
|||||||||||William Lister[24] 1545 - ???? 母Ann
|||||||||||Christopher Lister[25] 1546 - ???? 母Ann
|||||||||||Laurence Lister[26] 1550 - 1609 母Ann
|||||||||||Elizabeth Lister[27] 1551 - ???? 母Ann
|||||||||||Mathew Lister[28] 1550 - 1555 母Bridget
|||||||||||Margrette[29] 1551 - 1591 母Bridget
|||||||||||Isabel Lister[30] 1552 - ???? 母Ann
|||||||||||Bartholomew Lister[31] 1556 - 1583 母Bridget
|||||||||||Frances Lister[32] 1558 - 1559 母Bridget
|||||||||||Frances Lister[33] 1560 - 1560 母Bridget
|||||||||||Mary[34] 1561 - ???? 母Bridget
|||||||||||Jenet Lister[35] 1561 - 1566 母Bridget
|||||||||||Michael Lister[36] 1564 - 1618 母Bridget
||||||||||||Martin Lister, MP[37] 1603 - 1670 Midhope, Yorkshire → Burwell, Lincolnshire
|||||||||||||Michael Lister[38] c.1638 - 1678 Burwell, Lincolnshire
||||||||||||||Mathew Lister[39] 1666 - 1700 Burwell, Lincolnshire
|||||||||||Rosamond[40] 1565 - 1604 母Bridget
|||||||||||Ellen[41] 1566 - 1566 母Bridget
|||||||||||Martin Lister, MP[42] 1569 - 1649 母Bridget
|||||||||||Sir Matthew Lister[43] 1571 - 1656 母Bridget
|||||||||||Capt. Edmund Lister[44] 1572 - 1600 母Bridget
|||||||||||Frances Lyster[45] 1578 - ???? 母Bridget


William Lister

Williamは、コテージ60、水車、などを所有する郷紳だった。1556年に、Earl of Rutland や John Manners, Esqから、それらを購入した。

1571年に、次男のLawrenceにいくつかの所領を分け与えた。その一部は、のちにSir H. Darcyの手に渡った。

はじめはAnne Midhopeと結婚。その叔父の資産を相続した。Anneは1553年6月以前に死去した。1557年までにBridgetと再婚した。Bridgetは未亡人だった。


Ann(1522-1553)は、Anne Midhope。父はRoger Midhope of Skipton。Anneは、おじのWilliam Midhopeの遺産( Thorntonなど5箇所)を相続した。

Bridget(1524-1600.03.06)は、もともとはBridget Pigot。父はBartholomew Pigot、母はJulvan J. Lenthall。

Martin Lister, MP 1569-1649

リスター家の所領のひとつ、ギスバーンは、ランカシャー州との州境にある。

リスター家の年長ローレンスは、1588年からアップルビー(Appleby)の領地を継いだ。だが、議席を失って没落したらしい。

この結果、1604年にリスター家は、ヨーク州の本拠地に近いClitheroeから議員になった。

マーティンは、ちゃんとした大学は出ていない。が、軍人としてキャリアをつんだ。Sir Anthony Wingfieldの配下の士官だった。1592年10月、この部隊はフランスのブルターニュ地方に近いアンブリエ(Ambrières)で捕虜になった。

当時、フランスではプロテスタントとカトリックの内戦であるユグノー戦争の真っ最中で、イギリスのエリザベス1世は、プロテスタントのアンリ4世を支援するため派兵していた。マーティン・リスターはその部隊で騎馬隊の指揮官として参加していた。だがこの派兵は失敗に終わり、部隊はフランスのブルターニュ地方で惨敗、隊員の多くは殺害されたが、マーティン・リスターは捕虜になって生き延びた。彼の身代金を支払うよう求めた書状が残されている。

ほかにも兄弟のEdmundが軍事作戦に参加しアイルランドで戦死している。

その後、マーティンはClitheroe選出の議員になった。選挙の対立候補は、遠縁にあたるSir Christopher Pigottだった。Pigottはのちにスチュワート家のジェームズ1世が即位すると、これに対する反乱に参加。しかし捕縛されて獄死した。マーティンはPigottと和解し、Pigott家の娘と結婚した。(Pigott家は、母のBridgetの最初の嫁ぎ先。)これによってバッキンガム州ミドルクレイトン(Middle Clayton)の領地を獲得したが、これは売り払った。そのほか、マーティンはリスター家のあちこちの領地をちまちま売り払って、楽な暮らしをした。しかし結局、1646年に嗣子なく死んだ。それで、リスター家の主要な資産は、マーティンの実兄ミカエルの息子、マーティンが継いだ。

Sir Martin Lister, MP 1603-1670

Sir Matthew Lister 1571-1656

この人物は、医師であり、Dr Matthew Listerとして、英国王ジェームズ1世の王妃アン・オブ・デンマークと、その子チャールズ1世に仕えた。その功により1636年10月11日に叙勲されSirになった。

生誕地はヨークシャーのThornton。没地はリンカン州のBurwell。