「シュトゥルム・ウント・ドラング」の版間の差分

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ドイツでは18世紀に[[啓蒙思想]]が隆盛した。イギリスでは啓蒙思想によって市民社会が誕生したが、ドイツではむしろ啓蒙思想は専制政治と結びついた。そして、迷信や因習を打ち破るために理性を重んじるという合理主義が、いきすぎて個人の感情を否定するまでになった。「シュトゥルム・ウント・ドラング」は、こうした抑圧に対する激しい反抗となって現れた運動である。しかしそれはあまりにも激しい「爆発」であり、行き過ぎたものになった。そのために自らの首を絞める結果となり、運動は短い期間で終息することになった。ゲーテとシラーだけはこの運動の限界を早々と見抜いて運動を離れ、次の[[ドイツ文学#ヴァイマール古典主義|古典主義]]に移って華々しい成果をあげることになる<ref name="佐藤_古典主義"/>。
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===人文主義と啓蒙思想===
 
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2016年9月23日 (金) 17:50時点における版

冒頭文

シュトゥルム・ウント・ドラング(独:Sturm und Drang) とは、1770年頃から1780年頃にかけてドイツで見られた革新的な文学運動である。日本では「疾風怒濤」と翻訳されてきた[1][2][3]

ごく短い期間に終わった運動ではあるが、ドイツ文学史における「革命」と位置づけられている。これにより、ドイツ文学界を支配していた従前の啓蒙思想が打破されるとともに、世界的にみてほとんど顧みられることのなかったドイツ文学が世界の主流に躍り出る契機となった[1]

呼称

この運動の名称自体は、この時代の劇作家であるクリンガー戯曲『Sturm und Drang』(1776年)のタイトルからとられている[1]

「シュトゥルム(独:Sturm)」は英語の「storm」に相当し、もっぱら「嵐」などと和訳される語である。「ドラング(独:Drang)」は英語の「drive」「urge」ないし「impulse」「pressure」「thirst」などに相当する語で、「Sturm und Drang」は英語圏では「Storm and Stress[4][5]」などと訳されてきた[4]

日本でのシュトゥルム・ウント・ドラングは「疾風怒濤」と和訳された。ドイツ文学研究者の佐藤晃一は「嵐と衝迫」としている[1][2][注 1]

概要

一般に、「シュトゥルム・ウント・ドラング」運動は、旧来の啓蒙思想・合理主義が個人の感情を否定するものだったことに反対し、個人の感情を爆発的に表現した文学運動だと解釈されている。また、旧来の啓蒙思想・啓蒙文学の担い手がもっぱら老齢な学者だったのに対し、「シュトゥルム・ウント・ドラング」は青年による文学運動だった。その代表人物がゲーテシラーである[1][6]

この運動はもともと、文学のみならず、市民階級を刺激することで社会や政治に対する変革を期待したものであり、当時のプロイセン王国啓蒙専制君主制のイデオロギーを打破しようと目されていたものだったと考えられている。しかし、当時のドイツ社会は、国としても身分・階級としても未だ数多くに分裂した状態であったために、青年たちが期待したような社会運動としては不首尾に終わった。そのため結果的には、この運動は文学の世界のみにとどまることになった[1][6]

「シュトゥルム・ウント・ドラング」の青年たちは、文学界、とりわけ戯曲を支配してきた「三統一」という形式を破り、韻文にこだわることも捨て去った。これによって、青年らしい激しくほとばしる感情を自由な言葉で表現することが可能になった。さらに彼らは遠慮なく反社会的なテーマをモチーフとし、社会の暗部をとりあげた。彼らによれば、イギリスのシェイクスピアがその手本だった[注 2][1][7][6]

しかしこうした激烈な運動はすぐに旧時代的な社会の壁に当たった。激情にまかせて過激な「シュトゥルム・ウント・ドラング」に加わった青年たちは、文学の世界のみならず、社会的・実生活の面で「破滅」した。ドイツを追われて正気を失いロシアの道端で死んだレンツや、体制を批判して投獄されたシューバルトがその典型例である。こうしてこの運動はドイツ文学史のなかではごく短期間で終わった[1][7][6]

この運動の中心的役割を果たしたゲーテとシラーだけは、早い段階で運動に見切りをつけた。彼らは冷静さを取り戻し、次の古典主義の時代を築くことになる[1][7][8][6]

ドイツ文学史における位置づけ

ドイツでは18世紀に啓蒙思想が隆盛した。イギリスでは啓蒙思想によって市民社会が誕生したが、ドイツではむしろ啓蒙思想は専制政治と結びついた。そして、迷信や因習を打ち破るために理性を重んじるという合理主義が、いきすぎて個人の感情を否定するまでになった。「シュトゥルム・ウント・ドラング」は、こうした抑圧に対する激しい反抗となって現れた運動である。しかしそれはあまりにも激しい「爆発」であり、行き過ぎたものになった。そのために自らの首を絞める結果となり、運動は短い期間で終息することになった。ゲーテとシラーだけはこの運動の限界を早々と見抜いて運動を離れ、次の古典主義に移って華々しい成果をあげることになる[6]

人文主義と啓蒙思想

ドイツでは中世の前半にキリスト教文学が育まれ、中世の後半からは『ニーベルンゲンの歌』に代表されるような騎士文学が勃興した[9]。16世紀に入るとルネサンスがドイツにも伝わり、人文主義、すなわち「理性」や「悟性」によって教会の権威や封建的な因習から解放し、個人の自由を実現しようという風潮が広まった[10][注 3]

しかしそれに続く17世紀はドイツ文学にとって「不毛」な世紀だったと評されている[注 4]。17世紀の前半はドイツ全土が三十年戦争の戦地となって荒廃し、キリスト教権威が力を盛り返して文学は「暗黒時代」へと逆戻りした。後半は外国の文学の輸入・模倣が行われた[11]

18世紀に入ると、啓蒙思想がドイツにも入ってきた。啓蒙思想はオランダで興り、イギリスやフランスを経てきたものである。「啓蒙思想」は16世紀の人文主義を下地として醸成されたものであり、「旧来の迷信・因習などの不合理なものを理性によって批判し、それへの従属から脱却して、人間の自由と降伏を獲得[12]」しようという思想だった。しかし、イギリスでは啓蒙思想と産業革命が結びついて近代的な市民社会が形成されていったのに較べると、ドイツではプロイセン王国の軍国主義と結びついて、啓蒙専制君主制と呼ばれる「上からの啓蒙」が行われた。その担い手がヴォルフ(1679-1754)やゴットシェート(1700-1766)である[12]

ライプニッツ(1646-1716)に師事したヴォルフは、哲学界や文学界を自身の信奉者で固めて「支配」した。ヴォルフの後継者となったゴットシェートも文学界の権勢者となって18世紀前半のドイツ文学界・芸術界を取り仕切った。彼らの思想によれば、「文学は悟性の仕事であるから、感情や空想は排すべきで、知識こそその源泉である[12]。」したがって文学は「教訓を与え、人心を教化する」ための存在となった。ゴットシェートはこの考えに基いて演劇界から「低級」なものを駆逐した[12][注 5]

ゴットシェートの後裔と啓蒙主義の完成

ライプツィヒからドイツ文学界を支配したゴットシェートに対して、スイスのチューリッヒにいたボードマーとブライティンガー(en:Johann Jakob Breitinger)は論争を挑んだ。ボードマーらはミルトンの『失楽園』を引き合いに出して文学における「空想」の重要性を主張した。最終的にこの論争はボードマーらの勝利におわり、ゴットシェートの権威は失われることになった[12]

その後のドイツ文学界にはゴットシェートに反対する立場のヴィーラント(1733-1813)やクロプシュトック(1724-1803)が現れた。ヴィーラントは享楽的・ロココ的な作品を、クロプシュトックは感傷的・叙情的な作品を残した。とはいえ、両者の作品も未だ啓蒙主義な性格を強く持っており、啓蒙主義文学を発展させた人物とみなされている[12]

そしてそのあとを継ぎ、啓蒙主義文学を「完成」させたのがレッシング(1729-1781)である。レッシングはシェイクスピア、ひいてはギリシア悲劇の影響を受けて多くの演劇作品を残した。レッシングは、英雄譚ではなくドイツ市民の感情を描いたという点で、ゴットシェートに「とどめを刺す」役割を果たした。しかしその文体は感情を前面に押し出すようなものではなく、むしろ「怒号叫喚、感情の爆発を避けて、できる限り筆をおさえ、簡潔な文体に深い内容を盛ろう[12]」という強い意図で作られたものである。そして、人類愛を説き、文学を通じて読者を高めようという意図をもっており、啓蒙主義の完成者と評されている[12]



古典主義啓蒙主義に異議を唱え、理性に対する感情の優越を主張し、後のロマン主義へとつながっていった。代表的な作品として、ゲーテの史劇『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』(1773年)や小説『若きウェルテルの悩み』(1774年)、シラーの戯曲『群盗』(1781年)や悲劇『たくらみと恋』(1784年)など。クラシック音楽では中期のハイドンの名が挙げられる。

代表作

脚注

注釈

  1. 明治時代に東京帝国大学で教鞭をとった斎藤秀三郎が1928年(昭和3年)に刊行した「斎藤和英大辞典」では「storm and stress」を「国民思想の勃興期」などと意訳している。
  2. この頃、イギリスでは既に、教会や宮廷といった旧来の権威の失墜・個人主義の発達と産業革命によって、旧来の王侯貴族の時代から市民の時代に移り変わっていた。その権威の失墜をもたらした要因の一つがシェイクスピア文学だとみなされていた。
  3. この風潮を下地としてルターによる宗教改革が行われ、ルターによる聖書のドイツ語訳によって新高ドイツ語が生まれ、これが現代ドイツ語の直接のもとになった[10]
  4. 「試みに他のドイツ文学史を手にされるならば、十七世紀にさかれた分量があまりにも少ないことに驚かされるであろう。(中略)そしてみないい合わせたように不毛という結論」 - 佐藤晃一『ドイツ文学史』p56「十七世紀文学の位置づけのために」より抜粋[11]
  5. 本筋から外れるのでここでは詳述しないが、ヴォルフやゴットシェートらは、「ドイツ語」の成立に寄与したと評されている。「ドイツ」として統一される前の時代にはまだ「ドイツ語」は完全には成立しておらず、特に三十年戦争でヨーロッパの諸勢力がドイツ中に影響を及ぼしたこともあって、さまざまな言語の影響を受けて分裂状態にあった。とりわけフランス語の影響を強く受けていたが、16世紀にルターが創めた新高ドイツ語をベースとして、ヴォルフやゴットシェートが「正しいドイツ語」を確立していったのである[12]

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 佐藤晃一『ドイツ文学史』p77-78「疾風怒濤とは何か」
  2. 2.0 2.1 三省堂大辞林第三版』「シュトゥルムウントドラング」コトバンク版 2016年9月22日閲覧。
  3. 小学館デジタル大辞泉』「シュトゥルムウントドラング」コトバンク版 2016年9月22日閲覧。
  4. 4.0 4.1 メリーランド大学カレッジパーク校,Jeffrey Jensen Arnett,1999,Adolescent Storm and Stress, Reconsidered (PDF) 2016年9月22日閲覧。
  5. E.g. HB Garland, Storm and Stress (London, 1952)
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 佐藤晃一『ドイツ文学史』p99-126「古典主義」
  7. 7.0 7.1 7.2 佐藤晃一『ドイツ文学史』p81-86「疾風怒濤」の劇作家と詩人たち
  8. 佐藤晃一『ドイツ文学史』p86-89「若きゲーテ」
  9. 佐藤晃一『ドイツ文学史』p8-34「中世」
  10. 10.0 10.1 佐藤晃一『ドイツ文学史』p36-46「宗教改革と人文主義」
  11. 11.0 11.1 佐藤晃一『ドイツ文学史』p46-58「十七世紀」
  12. 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 12.5 12.6 12.7 12.8 佐藤晃一『ドイツ文学史』p60-76「啓蒙思想」

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参考文献

  • 『ドイツ文学史』,佐藤晃一,明治書院,1972,2000(16版),ISBN 4625480310
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