「ヨハン・アルノルト・エーバート」の版間の差分

提供: Test Wiki
移動: 案内検索
(ライプツィヒ大学時代)
(ライプツィヒ大学時代)
行18: 行18:
 
===ライプツィヒ大学時代===
 
===ライプツィヒ大学時代===
 
1743年の春、エーバートは[[神学]]を学びに[[ライプツィヒ大学]]に留学した。ところが、入学直後にエーバートが作詞した[[セレナーデ]]「''歓喜'' ({{Lang|de|''Das Vergnugen''}})」が、故郷ハンブルグで問題視されることになった。この曲は4月のハンブルクで執り行われたとある結婚式に際して公開演奏されたのだが、歌詞の内容が厳粛な教会での演奏には相応しくない内容だとして、聖職者によって演奏が途中で中止される事件が起きた。ハンブルクの聖職者たちはエーバートを難詰し、エーバートは反論を試みた。が、いずれハンブルクで聖職に就くつもりがあるならば黙って従えと強いられ、エーバートは神学の道を捨てることにした。なお、この曲の作曲者は{{仮リンク|ヨハン・ヴァレンティン・ゲルナー|de|Johann Valentin Görner}}といい、この事件の10年後にハンブルク大聖堂([[:de:Hamburger Dom (Alter Mariendom)|Hamburger Mariendom]])の音楽監督になる人物である。また、当時実際に問題となった部分は楽譜を没収されて破棄されてしまったため現存しない<ref name="アナクレオン派9394"/><ref name="ADB-エーバート"/><ref name="NDB-エーバート"/>。
 
1743年の春、エーバートは[[神学]]を学びに[[ライプツィヒ大学]]に留学した。ところが、入学直後にエーバートが作詞した[[セレナーデ]]「''歓喜'' ({{Lang|de|''Das Vergnugen''}})」が、故郷ハンブルグで問題視されることになった。この曲は4月のハンブルクで執り行われたとある結婚式に際して公開演奏されたのだが、歌詞の内容が厳粛な教会での演奏には相応しくない内容だとして、聖職者によって演奏が途中で中止される事件が起きた。ハンブルクの聖職者たちはエーバートを難詰し、エーバートは反論を試みた。が、いずれハンブルクで聖職に就くつもりがあるならば黙って従えと強いられ、エーバートは神学の道を捨てることにした。なお、この曲の作曲者は{{仮リンク|ヨハン・ヴァレンティン・ゲルナー|de|Johann Valentin Görner}}といい、この事件の10年後にハンブルク大聖堂([[:de:Hamburger Dom (Alter Mariendom)|Hamburger Mariendom]])の音楽監督になる人物である。また、当時実際に問題となった部分は楽譜を没収されて破棄されてしまったため現存しない<ref name="アナクレオン派9394"/><ref name="ADB-エーバート"/><ref name="NDB-エーバート"/>。
 +
 +
こうしてエーバートは文学と哲学に専念することになった。当時のライプツィヒ大学の[[ヨハン・クリストフ・ゴットシェート|ゴットシェート]]教授は、ドイツ語圏の文学界を支配していた人物で、エーバートはすぐにゴットシェートの文芸機関誌「''悟性と機知の楽しみ'' ({{Lang|de|''Belustigungen des Verstandes und Witzes''}})」に小文を寄稿するようになった。
  
 
==ADB==
 
==ADB==

2016年10月16日 (日) 22:12時点における版

ヨハン・アーノルド・エーバートJohann Arnold Ebert、1723年2月8日 - 1795年3月19日)はドイツの文学者である[1]。18世紀半ばに流行した文芸雑誌「ブレーメン寄与」の寄稿者の一人で[1]、とくにイギリス詩をドイツ語に翻訳して紹介したことで知られている[2][3]

カナ表記

「Ebert」のカタカナ転記にあたっては、現代風に「エーバート[1]」と表記するほか、18世紀に成立したドイツ語の舞台風の発音にもとづいて、「エーベルト[4]」と表記される場合もある。

同様に「Arnold」は「アルノルド」「アルノルト」と書く場合もある。なお語尾の「d」については、現代の標準的なドイツ語発音では単語の語尾の「d」「g」などは濁らないという規則があり、「ド」ではなく「ト」と発音するというのが一般的である。しかし本項のJohann Arnold Ebertは18世紀中頃の人物で、現代とは発音も異なっているし、ドイツ語は地方ごとの発音の違いが大きく、生まれ育ったハンブルクと、大学時代の中部ドイツ(ライプツィヒ)と、宮廷時代のブラウンシュヴァイクでも発音が異なっていた。(だからゲーテが舞台発音の規則を定めたのだが、それはエーバートよりも後の時代のことである。)ここでは「エーバート」と揃えて現代風の表記として「アーノルド」とした。

「Johann」についても、「ヨハン」「ヨーハン」の表記がみられるが、ここでは「ヨハン」とした。

生涯

青年時代

エーバートは自由都市ハンブルクで軍人の子として生まれた。ハンブルクの名門ヨハネウム学院(Gelehrtenschule des Johanneums)に入学した。そこでのエーバートはヨハン・サミュエル・ミュラーDeutsch版(1701-1773)による音楽の授業に最も関心を示したという[2]

学院時代の学友にはギーゼケ(1724-1765)やバゼドウ(1724-1790)がおり、特にギーゼケとはのちに「ブレーメン寄与」の仲間となる[2]

ヨハネウム学院を卒業後はハンブルグで外国語を学んだ。なかでも詩人ハーゲドルンDeutsch版から英語とイギリス文学、とくにイギリス詩を学んだことが、のちのエーバートに影響を与えた。このほか、この時期にはフランス人歴史家のルイ・ジョワール・デラノーズ(fr:Louis Jouard de La Nauze、1696-1773)の古代ギリシア詩に関する論文の翻訳も手がけている[2][3]

ライプツィヒ大学時代

1743年の春、エーバートは神学を学びにライプツィヒ大学に留学した。ところが、入学直後にエーバートが作詞したセレナーデ歓喜 (Das Vergnugen)」が、故郷ハンブルグで問題視されることになった。この曲は4月のハンブルクで執り行われたとある結婚式に際して公開演奏されたのだが、歌詞の内容が厳粛な教会での演奏には相応しくない内容だとして、聖職者によって演奏が途中で中止される事件が起きた。ハンブルクの聖職者たちはエーバートを難詰し、エーバートは反論を試みた。が、いずれハンブルクで聖職に就くつもりがあるならば黙って従えと強いられ、エーバートは神学の道を捨てることにした。なお、この曲の作曲者はヨハン・ヴァレンティン・ゲルナーといい、この事件の10年後にハンブルク大聖堂(Hamburger Mariendom)の音楽監督になる人物である。また、当時実際に問題となった部分は楽譜を没収されて破棄されてしまったため現存しない[5][2][3]

こうしてエーバートは文学と哲学に専念することになった。当時のライプツィヒ大学のゴットシェート教授は、ドイツ語圏の文学界を支配していた人物で、エーバートはすぐにゴットシェートの文芸機関誌「悟性と機知の楽しみ (Belustigungen des Verstandes und Witzes)」に小文を寄稿するようになった。

ADB

ハンブルグで1723年2月8日に生まれる。父親はハンブルグで軍務に従事。[2]


ハンブルグでは一番長い伝統のあるヨハネ学院(Gelehrtenschule des Johanneums)に入った。そこでの同級生がヨハン・ベルンハルト・バゼドウで、親友になった。


学長であるJohann Samuel Müllerの授業に最も関心を持った。ヨハン・サミュエル・ミュラー(de:Johann Samuel Müller、1701-1773。作曲家。)


ヨハネ学院を卒業後、ハンブルグの高等学院に進み、外国語を習う。この時期に交友関係が広がる。ハーゲドルンに師事するのもこの時期。エーバートは詩についてハーゲドルンから学んだ。英語教育もハーゲドルンから。

エーバートは文学に魅せられ、フランス人歴史家のルイ・ジョワール・デラノーズ(fr:Louis Jouard de La Nauze、1696-1773)の古代ギリシア詩に関する論文を翻訳したりした。


1743年のイースターに、ライプツィヒに進学を学ぶに留学。まもなく彼は「歓喜 (Das Vergnügen)」という結婚を祝うためのセレナーデを編むが、これが故郷ハンブルグの聖職者の不興をかい、問題視されることになった。


このことによって、エーバートは神学に対する関心を失う。


そのころにブレーメン寄与に出会う。

はじめは、ゴットシェートの「ヴィッツ」に小詩をいくつか寄稿したが、まもなくブレーメン寄与にうつる。


1748年、友人ゲルトナーの推挙で、ブラウンシュヴァイクの宮廷に招聘。カール大学で教鞭をとるようになる。

カール大学で英語を教える。

プリンスの家庭教師もする。(それによってプリンスは英語好きになる。)


当時、ブラウンシュバイクの宮廷にいたのは、ツァハリエ、ジェルサレム神父、ゲルトナー、それにあとから加わったのがエッシェンブルク(Eschenburg) とレッシングである。

エーバートはレッシングと親しく交流した。

エーバーとの人生には、大した大きな変化はなかった。

1753年、カール大学の教授になり、史学も講義を行う。


1770年、エッシェンブルク  Eschenburgがそれを引き受け、エーバートはギリシャ語の講義を行う。


1773年5月18日、ルイズ(Luise)と結婚。ルイズはグラーフ・Kammerraths Gräfe;の娘。(商工会の長?)

彼は毎夏、ブラウンシュバイクに旅をした。晩年にはハンブルグにも、クロプシュトックを訪ねて。クロプシュトックはそれで「An Ebert」を書いた。


1795年3月19日に死去。


彼の最大の仕事は、「Night Thoughts」の翻訳。これは若者に熱狂的に支持され、模倣者がいっぱいでた。

NDB

エーバートは詩人のハーゲドルンに教えを受けて育った。詩とイギリス文学について。


1743年、ライプツィヒに神学で進学。しかし文学と哲学に関心を持つ。

ところが、エーバートが、結婚式用のセレナーデを書くと、これに対してハンブルグの聖職者が攻撃があった。

しかし、いずれ説教師になるつもりなら、議論から撤退するように言われる。


1748年、彼は教師になる。ブラウンシュヴァイクのカール大学の。1年間、英語を教えた。


1753年、教授に昇格。


1780年にはライプツィヒ大学の宮廷顧問として招聘。


レッシングとも交流した。

クロプシュトック「An Ebert」


ドイツ詩史では、ハーゲドルンとクロプシュトックの橋渡し役。で、イギリスの詩をドイツ語訳してドイツ・クロプシュトックに知らしめた功績。イギリスのen:Edward Youngの「Night Thoughts」をドイツ語に翻訳。「„Nachtgedanken“」。

[3]

ドイツ語版

文献

クロプシュトックの最も親しい友人。クロプシュトックは詩「詩人の友垣に (An des Dichters Freunde)」「ヴィンゴルフ '」を書いて友人たちのことを詠ったが、その最初に登場するのがエーバートである。[4]


「これはようこそ!/オリュンポスの神々の息子よ、きみがいずこから来るにせよ/きみの到来はぼくにはいつも望ましい!/親しきホメーロスのもとからだろうと、マローのもとからだろうと、/ブリタニアの神々の島からだとうと!」[4]

「マロー」はウェルギリウスのこと。[4]

こういってクロプシュトックは、エーバートがギリシア文学、ローマ文学、イギリス文学について「神の子」といえるまでの詩人であると褒め称えている。[4]

脚注

注釈

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 フリッツ・マルティーニ,『ドイツ文学史 原初から現代まで』,p161
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 ドイツ歴史委員会(Historical Commission)・バイエルン科学アカデミー(Bavarian Academy of Sciences),ADB(Allgemeine Deutsche Biographie),Ebert, Johann Arnold,2016年10月12日閲覧。
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 ドイツ歴史委員会(Historical Commission)・バイエルン科学アカデミー(Bavarian Academy of Sciences),NDB(Neue Deutsche Biographie),Ebert, Johann Arnold,2016年10月12日閲覧。
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 坂田正治『クロプシュトックの抒情詩研究』,p27-29
  5. 『Anakreontische Aufklärung』p93-94

参考文献

  • 『ドイツ文学史』,鼓常良・著,白水社,1953
  • 『クロプシュトックの抒情詩研究』,坂田正治・著,近代文芸社,1996,ISBN 4773354348
  • 『ドイツ文学史 原初から現代まで』,フリッツ・マルティーニ・著,高木実・尾崎盛景・棗田光行・山田広明・訳,三修社,1979,1980(第2版)
  • 『Anakreontische Aufklärung』,Manfred Beetz・Hans-Joachim Kertscher/編,2005,ISBN 3484810289