「ヨハン・ヴァレンティン・ピーチ」の版間の差分
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+ | *ただしGSはその時点で既に一家をなしており、プロイセンの王におもねる必要がなく、むしろそうした人物を避ける必要があり、ライプツィヒに避難した。そして、そこをフランス古典主義の根城とした。 | ||
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+ | *17世紀の新フランス文学を至上とする風潮がドイツにも生まれた。なかでも、プロイセン人のクリスティアン・ヴェルニッケ Christian Wernickeなんかは、教養が有り、具眼が有り、ドイツのへぼ詩人を嘲笑し、フランス新文芸に傾倒した。1700年頃には、ローエンシュタインに倣いつつも、後になってフランス古典主義に変ずる詩人がかなり多かった。彼らはクリスティアーン・ワイゼと一脈通じるところがあったが、その低俗を克服しようと務めた。 | ||
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+ | *ノイキルヒ Neukirch | ||
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+ | *ベルリンは、フランス的傾向の中心地のようになった。 | ||
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+ | *プロイセンの初代王は、革新派のフランスの論客、芸術家を手厚く重用した。ブーフェンドルフ、シューペナー、ライプニッツなど。 | ||
+ | *トマジウス、フランケ、ヴォルフも。 | ||
+ | *芸術家は、建築や彫刻の分野でも、プロイセンの隆運の明瞭な記念碑をつくりあげた。 | ||
+ | *こうした人物のなかで、フォン・カニッツ男爵も上客のひとり。 | ||
+ | *詩人ヨハン・フォン・ベッサーは、その式部卿であった。(比喩?) | ||
+ | *ベンヤミン・ノイキルヒは、ベルリンに職を得た。 | ||
+ | *しかし当時の文芸は、シュリューターの彫刻作品や建築作品の足元にも及ばないレベル。 | ||
+ | *1713年、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の執政は、一切の希望をしばらく全く打ち砕いた。 | ||
+ | *シュリューターはペータースベルクへ、ベッサーはドレスデンへ、ノイキルヒはアンスバッハへ、退いた。カニッツは1699年に没している。 | ||
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2016年11月26日 (土) 01:21時点における版
冒頭文
ヨハン・ヴァレンティン・ピーチ[注 1](ドイツ語: Johann Valentin Pietsch,1690.6.23 - 1733.7.29[2])はドイツの文人である。
概要
資料
ADB
プロイセンのケーニヒスベルク出身。現在のロシア・カリーニングラード。
ケーニヒスベルク大学で、Hellwissenschaften(?)を修め、その後、フランクフルトで詩学を学ぶ。フランクフルトでは1713年に博士となる。
故郷に戻ると、ケーニヒスベルク大学の教授となり、詩学を教える。
そこで『ハンガリー遠征でのオイゲン公』(ドイツ語: Ueber den ungarischen Feldzug des Prinzen Eugen)という一連の詩を作り、それによって名声を博した。
1719年にケーニヒスベルクの宮廷官に任じられた。1733年7月29日に死去。
彼の詩作活動は、このせわしない生涯に見合ったものである。ピーチはそれ以後、新しい詩を作ろうともしなかった。
もっと才能のあった友人たちは、彼のまわりから逃げていってしまった。
彼の名声は、彼の地元でしか通用しないレベルのものだった。同時期の、もっと下の詩人がもっといた。それらを取り巻きにした。
Neukirchとは親しい間柄を保った。
ゴットシェートとはさらに。
双曲線のやりかた(コラボ)は、当時のドイツの大衆によって、「うっとりさせるもの」となった。
「Phöbus Hayneが読む、ピーチの英雄叙事詩」(Wenn Pietschens Helden-Lied durch Phöbus Hayne schallet)が、そのうっとりさせるもの。
ソポクレスやカエサルのような悲劇詩と並び称されるレベル。
ゴットシェートとは特別に親交が厚かった。
ゴットシェートが、フリードリヒ2世 (プロイセン王)(王子時代)と対立したときも、ピーチはゴットシェートをかばった。
このときに、ゴットシェートの発言にピーチの新作詩についての言及が残されているのだが、その新作詩については何も伝わっていない。
1740年に出版。J G Bockによって。したバージョンは、伝わっていない。というのも、ゴットシェートが自分が編集したバージョンをゴリ押ししたので。
シェーラー
- 医を生業とする。
- テーメシュヴァールにおけるプリンツ・オイゲンの勝利を仰山な讃歌によって祝賀したことのために文学教授に任ぜられた。
- 弟子のゴットシェートは、ピーチを「18世紀最大の詩人」と言明した。
- ただしGSはその時点で既に一家をなしており、プロイセンの王におもねる必要がなく、むしろそうした人物を避ける必要があり、ライプツィヒに避難した。そして、そこをフランス古典主義の根城とした。
- 17世紀の新フランス文学を至上とする風潮がドイツにも生まれた。なかでも、プロイセン人のクリスティアン・ヴェルニッケ Christian Wernickeなんかは、教養が有り、具眼が有り、ドイツのへぼ詩人を嘲笑し、フランス新文芸に傾倒した。1700年頃には、ローエンシュタインに倣いつつも、後になってフランス古典主義に変ずる詩人がかなり多かった。彼らはクリスティアーン・ワイゼと一脈通じるところがあったが、その低俗を克服しようと務めた。
- それらの人々の代表格は、カニッツ、ノイキルヒ。
- カニッツ Canitz (フォン・カニッツ男爵)
- ノイキルヒ Neukirch
- ベルリンは、フランス的傾向の中心地のようになった。
- プロイセンの初代王は、革新派のフランスの論客、芸術家を手厚く重用した。ブーフェンドルフ、シューペナー、ライプニッツなど。
- トマジウス、フランケ、ヴォルフも。
- 芸術家は、建築や彫刻の分野でも、プロイセンの隆運の明瞭な記念碑をつくりあげた。
- こうした人物のなかで、フォン・カニッツ男爵も上客のひとり。
- 詩人ヨハン・フォン・ベッサーは、その式部卿であった。(比喩?)
- ベンヤミン・ノイキルヒは、ベルリンに職を得た。
- しかし当時の文芸は、シュリューターの彫刻作品や建築作品の足元にも及ばないレベル。
- 1713年、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の執政は、一切の希望をしばらく全く打ち砕いた。
- シュリューターはペータースベルクへ、ベッサーはドレスデンへ、ノイキルヒはアンスバッハへ、退いた。カニッツは1699年に没している。
脚注
注釈
出典
- ↑ シェーラー『ドイツ文學史II』,p289-291
- ↑ 2.0 2.1 ドイツ歴史委員会(Historical Commission)・バイエルン科学アカデミー(Bavarian Academy of Sciences),ADB(Allgemeine Deutsche Biographie), {{{1}}} (PDF) ,2016年11月23日閲覧。
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- 『ドイツ文學史II』,ヴィルヘルム・シェーラー/著,吹田順助/監修,高橋義孝/訳,創元社,1949