「ザクセン選帝侯の見本」の版間の差分

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(選帝侯就任)
(選帝侯就任)
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16世紀半ばになると、[[宗教改革]]によって、カトリックの皇帝と、プロテスタントの諸侯の間で争いが生じるようになった([[シュマルカルデン戦争]])。エルンスト家のザクセン選帝侯は、神聖ローマ皇帝と戦って敗れ、ザクセン選帝侯位と領地の大半を没収された。領地と選帝侯位は皇帝に味方したアルブレヒト家に移り、以後1806年に王国になるまで、アルブレヒト家がザクセン選帝侯の本家となった。
 
16世紀半ばになると、[[宗教改革]]によって、カトリックの皇帝と、プロテスタントの諸侯の間で争いが生じるようになった([[シュマルカルデン戦争]])。エルンスト家のザクセン選帝侯は、神聖ローマ皇帝と戦って敗れ、ザクセン選帝侯位と領地の大半を没収された。領地と選帝侯位は皇帝に味方したアルブレヒト家に移り、以後1806年に王国になるまで、アルブレヒト家がザクセン選帝侯の本家となった。
  
17世紀から18世紀には、ザクセン選帝侯アルブレヒト家は、しばしば隣接する[[ポーランド国王|ポーランドの王位]]も獲得している。なかでも18世紀半ばの[[アウグスト3世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト2世]]<ref group="注">ザクセン選帝侯としては「フリードリヒ・アウグスト2世」、ポーランド王としては「アウグスト3世」。</ref>の時代には、ザクセン選帝侯とポーランド国王を兼任していたが、[[七年戦争]]で[[プロイセン王国]]に攻め込まれてザクセンを占領され、ポーランドの[[ワルシャワ]]に宮廷を移す羽目になっている。しかし後継の[[フリードリヒ・アウグスト1世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト2世]]<ref group="注">ザクセン選帝侯としては「フリードリヒ・アウグスト3世」、ザクセン国王としては「フリードリヒ・アウグスト1世」。</ref>の時代には、[[ナポレオン戦争]]を経て[[ザクセン王国]]への昇格を実現した。
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17世紀から18世紀には、ザクセン選帝侯アルブレヒト家は、しばしば隣接する[[ポーランド国王|ポーランドの王位]]も獲得している。なかでも18世紀半ばの[[アウグスト3世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト2世]]<ref group="注">ザクセン選帝侯としては「フリードリヒ・アウグスト2世」、ポーランド王としては「アウグスト3世」。</ref>の時代には、ザクセン選帝侯とポーランド国王を兼任していたが、[[七年戦争]]で[[プロイセン王国]]に攻め込まれてザクセンを占領され、ポーランドの[[ワルシャワ]]に宮廷を移す羽目になっている。しかし後継の[[フリードリヒ・アウグスト1世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト3世]]<ref group="注">ザクセン選帝侯としては「フリードリヒ・アウグスト3世」、ザクセン国王としては「フリードリヒ・アウグスト1世」。</ref>の時代には、[[ナポレオン戦争]]を経て[[ザクセン王国]]への昇格を実現した。
  
 
===ザクセン諸侯===
 
===ザクセン諸侯===

2016年11月28日 (月) 16:28時点における版

ザクセン選帝侯ドイツ語: Kurfürst von Sachsen英語: Elector of Saxony)は、神聖ローマ帝国下のドイツ中世から近代にかけての有力諸侯の1つである。

選帝侯(選挙侯とも)は、神聖ローマ皇帝を選出する投票権(選帝権)[注 1]をもつ特権的な資格で、ドイツの有力諸侯に授けられたものである。

中世初期のザクセン公国(9世紀-)は13世紀に分裂した。その末裔であるザクセン=ヴィッテンベルク公は1356年に選帝侯位を与えられて「ザクセン選帝侯」となった。当時の選帝侯は全部で7名であった。

19世紀のはじめ、ナポレオンによって神聖ローマ帝国が解体されると、1806年にザクセン選帝侯は王位を名乗ってザクセン王国となり、ライン同盟に加わった。

ザクセン王国は普墺戦争(1866年)に敗れてプロイセン王国に降伏し、北ドイツ連邦に加盟、さらに1871年にドイツ帝国の一部となった。

訳語対照表

ドイツ語 日本語 英語
Kurfürst von Sachsen ザクセン選帝侯 Elector of Saxony
Kurfürstentum Sachsen ザクセン選帝侯領 Electorate of Saxony
ザクセン公
ザクセン大公
Duke of Saxony
Herzogtum Sachsen ザクセン公国 Duchy of Saxony
Königreich Sachsen ザクセン王国 Kingdom of Saxony
Könige von Sachsen ザクセン王 King of Saxony

小史

家系の変遷

ザクセン公位

最初の「ザクセン公」は、9世紀にリウドルフィング家へ与えられ、ザクセン公国(Herzogtum Sachsen)が成立した。同家からは後に初代神聖ローマ皇帝オットー1世(在位962-973年)を出しており、これを「ザクセン朝」と呼ぶこともある。

オットー1世が皇帝になると、ビルング家が「ザクセン辺境伯」(Markgraf von Sachsen、辺境伯参照)となり、のちにザクセン公位を授かった。

12世紀の初頭にビルング家が断絶し、ズップリンブルク家ロタールにザクセン公位が与えられた。まもなくロタールは神聖ローマ皇帝ロタール3世(在位1133-1137)となり、即位後は、ザクセン公位をヴェルフ家ハインリヒ獅子公に与えた。

ハインリヒ獅子公はザクセン公とバイエルン公の両方を有して権勢を誇ったが、のちに神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と不和になり、ザクセンはアスカニア家に与えられた。その後、数代にわたり、ザクセン公位はアスカニア家とヴェルフ家を転々とし、実際に領有する地域も大きく変わっていった。

13世紀後半、アスカニア家では分割相続が行われた。約30年をかけてあちこちの領地が分けられ、最終的に1296年にザクセン=ヴィッテンベルク公国(Herzogtum Sachsen-Wittenberg)とザクセン=ラウエンブルク公国(Herzogtum Sachsen-Lauenburg)に分裂した。

ザクセンの後裔はなんども分裂や合併が繰り返すが、彼らは代々の称号に「ザクセン=」(Sachsen-)を冠した。

選帝侯就任

ヴィッテンベルク公国とラウエンブルク公国はやがて神聖ローマ皇帝の選出をめぐって意見が合わなくなった。1356年に神聖ローマ皇帝カール4世は、金印勅書を出してザクセン=ヴィッテンベルク公に選帝侯の資格を与え、これ以後「ザクセン選帝侯」となった。この時に選帝侯とされたのは全部で7侯であり、神聖ローマ帝国の中でも特別な地位が確立されたことになった。

15世紀の前半にアスカニエン家が途絶えると、ヴェッティン家がザクセン選帝侯位を継承した。そのヴェッティン家も1464年に兄弟での分割相続が行われ、兄の本家・エルンスト系と弟の分家・アルブレヒト系に分裂した。兄のエルンスト家がザクセン選帝侯位(Kurfürst von Sachsen)を継承し、弟のアルブレヒト家が「ザクセン公(Herzog von Sachsen)」となった。

16世紀半ばになると、宗教改革によって、カトリックの皇帝と、プロテスタントの諸侯の間で争いが生じるようになった(シュマルカルデン戦争)。エルンスト家のザクセン選帝侯は、神聖ローマ皇帝と戦って敗れ、ザクセン選帝侯位と領地の大半を没収された。領地と選帝侯位は皇帝に味方したアルブレヒト家に移り、以後1806年に王国になるまで、アルブレヒト家がザクセン選帝侯の本家となった。

17世紀から18世紀には、ザクセン選帝侯アルブレヒト家は、しばしば隣接するポーランドの王位も獲得している。なかでも18世紀半ばのフリードリヒ・アウグスト2世[注 2]の時代には、ザクセン選帝侯とポーランド国王を兼任していたが、七年戦争プロイセン王国に攻め込まれてザクセンを占領され、ポーランドのワルシャワに宮廷を移す羽目になっている。しかし後継のフリードリヒ・アウグスト3世[注 3]の時代には、ナポレオン戦争を経てザクセン王国への昇格を実現した。

ザクセン諸侯

アルブレヒト家に選帝侯位と領地の多くが移ってしまい、エルンスト家にはチューリンゲン地方を中心にわずかな領地が残されただけになった。さらにその後も代替わりの度に領地の分割が行われ、エルンスト系は小領地をもつザクセン諸侯に分かれていった。

これらのザクセン諸家は、結婚や相続によって領地の分割や統合を繰り返した。なかでもザクセン=ヴァイマルは18世紀から20世紀にかけて格があがってゆき、「ザクセン=ヴァイマル公国」としてライン同盟に加わり、1903年には「ザクセン大公国(Großherzogtum Sachsen)」を名乗るようになった。

また、ザクセン=コーブルク領とザクセン=ゴータ領が合わさってできたザクセン=コーブルク=ゴータ家は、ヨーロッパ各地の王家との結婚によって、イギリス、ベルギー、ブルガリアの王室の祖となった。

特徴

脚注

注釈

  1. より正確には、彼らは「ローマ王」を「選定」する。「ローマ王」というが、実際にはドイツで選ばれるので実質はドイツ王である。選ばれた王は、ローマへ行って、ローマ教皇によって戴冠されて正規の「神聖ローマ皇帝」となる。しかし実際には、ドイツからアルプスを越えてローマへ行くのは困難で、途中の北イタリア地方の反乱やローマ教皇との不和によって正式な戴冠が実現しない場合もあった。後の時代になると、こうした手続を経ないで神聖ローマ皇帝を名乗るようになった。こうしたことから選「帝」侯ではなく「選定侯」や「選挙侯」などの訳語を用いる場合もある。
  2. ザクセン選帝侯としては「フリードリヒ・アウグスト2世」、ポーランド王としては「アウグスト3世」。
  3. ザクセン選帝侯としては「フリードリヒ・アウグスト3世」、ザクセン国王としては「フリードリヒ・アウグスト1世」。

出典

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参考文献

関連項目

カテゴリ