「シュマルカルデン戦争」の版間の差分
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戦争が始まる時点では、プロテスタント勢は自分たちが戦力面で優勢だと考えていた。皇帝側に味方したドイツ勢はいたものの、皇帝軍の兵力の大半はイタリア、オランダやスペインといった遠方から来る援軍で、その到着にはしばらく時間を要するはずだった。ところが思わぬところから敵が現れた。同盟を率いるザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒとヘッセン方伯フィリップ1世の両方にとっての身内である、[[モーリッツ (ザクセン選帝侯)|ザクセン公モーリッツ]]が、裏切ったのである<ref name="二千年史-6370"/><ref name="ADB-選帝侯JF1世"/>。 | 戦争が始まる時点では、プロテスタント勢は自分たちが戦力面で優勢だと考えていた。皇帝側に味方したドイツ勢はいたものの、皇帝軍の兵力の大半はイタリア、オランダやスペインといった遠方から来る援軍で、その到着にはしばらく時間を要するはずだった。ところが思わぬところから敵が現れた。同盟を率いるザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒとヘッセン方伯フィリップ1世の両方にとっての身内である、[[モーリッツ (ザクセン選帝侯)|ザクセン公モーリッツ]]が、裏切ったのである<ref name="二千年史-6370"/><ref name="ADB-選帝侯JF1世"/>。 | ||
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ザクセン選帝侯の戦力を欠いたシュマルカン同盟軍は、各地で皇帝軍によって個別に撃破されていった。1547年になって、ヨハン・フリードリヒは自領地をすっかり取り戻して皇帝軍の迎撃にあたれるようになったが、既に皇帝軍はモーリッツの手引でボヘミア方面から[[エルベ川]]沿いにザクセン地方へ侵入を始めていた。ヨハン・フリードリヒはライプツィヒの南東にある{{仮リンク|ロホリッツ|de|Rochlitz}}の戦い(3月2日)で[[ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯]][[アルブレヒト・アルキビアデス|アルブレヒト]]を打ち破ってこれを捕縛し、エルベ川沿いの大都市[[ドレスデン]]方面に向かった。しかし皇帝軍が既にドレスデンや[[フライベルク]]を落としたとの報せに接すると、[[マイセン]]のエルベ川に架かる橋を焼き落として時間を稼ぎ、エルベ川沿いに下って退き、堅牢なヴィッテンベルクで皇帝軍を迎え撃つことに決めた。 | ザクセン選帝侯の戦力を欠いたシュマルカン同盟軍は、各地で皇帝軍によって個別に撃破されていった。1547年になって、ヨハン・フリードリヒは自領地をすっかり取り戻して皇帝軍の迎撃にあたれるようになったが、既に皇帝軍はモーリッツの手引でボヘミア方面から[[エルベ川]]沿いにザクセン地方へ侵入を始めていた。ヨハン・フリードリヒはライプツィヒの南東にある{{仮リンク|ロホリッツ|de|Rochlitz}}の戦い(3月2日)で[[ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯]][[アルブレヒト・アルキビアデス|アルブレヒト]]を打ち破ってこれを捕縛し、エルベ川沿いの大都市[[ドレスデン]]方面に向かった。しかし皇帝軍が既にドレスデンや[[フライベルク]]を落としたとの報せに接すると、[[マイセン]]のエルベ川に架かる橋を焼き落として時間を稼ぎ、エルベ川沿いに下って退き、堅牢なヴィッテンベルクで皇帝軍を迎え撃つことに決めた。 | ||
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===モーリッツの裏切り(1446年秋)=== | ===モーリッツの裏切り(1446年秋)=== |
2016年12月12日 (月) 17:43時点における版
冒頭文
シュマルカルデン戦争(シュマルカルデンせんそう、Schmalkaldischer Krieg)は、16世紀半ばの神聖ローマ帝国で起きた宗教戦争である。
カトリック教会を支持する神聖ローマ皇帝カール5世が、プロテスタント勢力(シュマルカルデン同盟)に侵攻して始まった。宣戦布告は1546年7月10日である。当初、皇帝側の戦力は不十分だったが、同盟側の足並みの乱れや内部分裂があり、1547年5月23日に同盟側の盟主が降伏して終戦した。
これによって一時的に皇帝側のカトリック勢が優位に立つかに見えたが、程なくしてプロテスタント側が再び盛り返し、ドイツにおける両派の争いを決定づけるような帰結はもたらさなかった。しかし戦前戦後の諸侯の領地の扱いには大きな影響が出て、現在のドイツ地理はこの戦争の結果によって生まれたところもある。
概要
シュマルカルデン戦争は、カトリック勢力を率いる神聖ローマ皇帝と、プロテスタント勢力との争いである。皇帝カール5世が即位した頃から、ドイツを中心に宗教改革始まった。ローマ教会は宗教改革の指導者ルターを異端として破門状を出すなどしたが、フランスやトルコを相手に対外戦争に明け暮れていたカール5世にとっては、帝国内でこれ以上の争い増やすことはできなかったので、この問題に深入りしようとはしなかった。ルターを庇護したのはドイツ中部に領地をもつザクセン選帝侯であり、皇帝カール5世がフランスと戦っているあいだに、宗教改革の動きはドイツ中部から北部へ広まっていった。
トルコやフランスとの戦いが一段落すると、皇帝はカトリックとプロテスタントの統一に関心を払うようになっていった。しかしその頃にはもうプロテスタント勢力はドイツの広い地域に拡大していた。皇帝はプロテスタントへ一方的な要求を突きつけたが、プロテスタント勢力はこれに従わず、皇帝による武力行使に備えてシュマルカルデン同盟を結成した。これは加盟する領邦や都市が皇帝・ローマ教会に攻撃された場合には、全同盟が防衛にあたるというもので、集団による安全保障を目的としていた。その趣旨が皇帝への反逆にあたるかどうか、法的な面からの検討が行われた結果、問題ないという結論になった。一方、現実的には、カール5世の側では軍事侵攻を行うだけの武力はなかった。一時的に和睦したとは言えトルコやフランスは長年の仇敵であり、そちらへの備えを疎かにすることはできなかったのである。この結果、シュマルカルデン同盟の結成から約15年の間、実際に戦争が行われるようなことにはならなかった。
1540年代になると、神聖ローマ帝国とフランスの講和、ルターの死、同盟の内部分裂などが重なり、皇帝はシュマルカルデン同盟への軍事侵攻を真剣に検討するようになった。皇帝はそのためにスペインやオランダの兵を集結させようとしたが、その動きを同盟側に見咎められると、まだ戦力が整う前だったが宣戦布告に踏み切った。
シュマルカルデン同盟の内部では意見が分かれた。開戦時点では皇帝側の戦力は数千に過ぎず、カール5世自身はほとんど無防備なままドイツの都市に滞在しており、攻撃すれば簡単に討つことが可能だった。しかし同盟の盟主ザクセン選帝侯は、同盟の目的はあくまでも防衛であり、こちらから攻めていくのは大義がないといって動かなかった。結局、戦争の序盤においては大した戦いは怒らなかった。
秋には戦争の局面が大きく動くことになった。皇帝軍はオーストリア方面の戦力が整い、同盟軍はこれを迎え撃つためドイツから南下した。ここに及んで、ザクセン選帝侯の従兄弟でザクセン公のモーリッツが、突如皇帝側についてザクセン選帝侯の無防備な領地に攻め込んだのである。モーリッツはプロテスタントで、同盟側には中立を宣言していたにも関わらず、皇帝との裏取引で内通していたのだった。ザクセン公の裏切りのため、ザクセン選帝侯は軍を引き返す羽目になった。その冬をかけてザクセン選帝侯は各地でモーリッツの軍勢を駆逐し、春先までにはモーリッツ完全に打ちのめされて敗走した。しかしその間に皇帝軍は進軍し、主力を欠く同盟軍を個別撃破していった。
春になると、皇帝軍はザクセンに侵入、ザクセン選帝侯は軍をまとめて皇帝軍の迎撃にあたろうとした。しかしその移動のさなかに起きたミュールベルクの戦いで、ザクセン選帝侯は決定的な敗北を喫し、自らも捕虜となってしまった。選帝侯は屈服を拒み、妻子は本拠地ヴィッテンベルクに立て籠もって徹底抗戦の構えをみせた。皇帝側は、降伏すれば選帝侯と妻子の命はとらないと確約し、さもなければヴィッテンベルクを破壊し尽くして瓦礫の山にすると脅した。数百年の歴史をもつ都であり、ルターが宗教改革を始めた地でもあるヴィッテンベルクを蹂躙されるのは忍びないとして、ザクセン選帝侯は降伏文書に署名し、戦争は終わった。
この降伏文書によって、ザクセン選帝侯はその地位を失い、モーリッツが新たなザクセン選帝侯となった。領地もほとんどがモーリッツのものとなり、前ザクセン選帝侯にはチューリンゲン地方の領地のみが残された。死罪は免れたものの、前ザクセン選帝侯は戦争の首謀者として終生虜囚として監禁されることになった。
戦争の結果、プロテスタント勢は厳しい条件をつきつけられた。ところが、大きな働きをしたモーリッツはプロテスタントであるうえ、新ザクセン選帝侯として以前のザクセン選帝侯よりも領土が大きく広がっており、そのモーリッツはプロテスタントよりの立場をとるようになった。モーリッツは、この戦争で皇帝側のボヘミア軍を率いたフェルディナント1世と組んでカール5世の追い落としにかかり、二人の間で、新旧両派の併存を赦すパッサウ条約を結んだ。これによって、プロテスタントの権利はむしろ確保されるようになった。
背景
神聖ローマ帝国とハプスブルク家
12世紀の末から、神聖ローマ帝国では皇帝を選挙で決めるようになった。投票権を有する者を選帝侯(ドイツ語: Kurfürst)といい、各地の有力諸侯と大司教にその特権が与えられた。13世紀の末に選帝侯は7名になった。その内訳は、聖界諸侯を代表してマインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教、世俗諸侯としてザクセン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯、プファルツ選帝侯(=ライン宮中伯)、ボヘミア王である。
厳密には、彼らが選ぶのは実質上のドイツ王であるが、そのドイツ王が「ローマ王」を名乗り、これがイタリアへ赴いてローマ教皇から戴冠されて神聖ローマ皇帝となる。しかし、北イタリアやイタリアが神聖ローマ帝国の支配を逃れ、選挙で選ばれたドイツ王がローマへ遠征することが事実上困難になっていった。
13世紀にオーストリア公国を本拠とするハプスブルク家から神聖ローマ皇帝が出ると、同家は勢力を拡大した。1508年にハプスブルク家のマクシミリアン1世がドイツ王に選ばれると、教皇による戴冠を経ないまま「神聖ローマ皇帝」を名乗るようになった。マクシミリアン1世のもと、ハプスブルク家は結婚と相続によって、オランダ、スペイン、ナポリ、シチリアや中南米の植民地の支配権を手に入れ、ヨーロッパに巨大な版図を広げた。
ハプスブルク家はさまざまな勢力と争うことになった。フランスやイギリスの王はハプスブルク家と覇権を争った。東方ではトルコが隆盛期を迎え、さかんに東ヨーロッパへの侵入を図った。ドイツの諸侯は、ハプスブルク家の権力拡大を警戒し、各諸侯の独立性を守るために連携した。フランス、イギリス、トルコやドイツの諸侯は、ハプスブルク家に対抗するためにしばしば手を組んだ。
皇帝選挙、カール5世とそのライバル
マクシミリアン1世は1519年に没し、次期神聖ローマ皇帝が選ばれることになった。このとき候補となった者には、マクシミリアン1世の孫でスペイン王のカルロス1世、フランス王のフランソワ1世、ザクセン選帝侯のフリードリヒ3世などがいた。
彼らは7票を奪い合い、選挙資格をもつ7名の票を争って買収合戦を行ったが、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世は早々と辞退してカルロス1世の支持に回った。フランソワ1世はさかんにドイツ諸侯に手を回したが、イタリアの金融商人をバックにつけたハプスブルク家の勢いに敗れた。こうして1519年にカルロス1世が神聖ローマ皇帝カール5世となった。カール5世はフランス語とスペイン語は解したものの、ドイツ語は不十分だった。
フランスからみると、南のスペインと北のドイツの両方がハプスブルク家の支配下となり、挟撃される格好となった。フランスにとってもハプスブルク家にとっても、イタリアはフランス包囲網の完成の鍵となるため、イタリアを巡って両者の間でイタリア戦争が戦われた[注 1]。
東方ではオスマン帝国がスレイマン1世の時代となり、最盛期を迎えた。スレイマン1世は地中海沿岸から進出して東ヨーロッパを脅かした。
フランス、トルコ、ドイツ諸侯やイギリスは、ハプスブルク家に対抗するために、宗教の壁を超えてしばしば協力をした。
宗教改革
神聖ローマ皇帝の選挙をめぐる買収合戦は宗教界にも飛び火した。ブランデンブルク選帝侯位を有するホーエンツォレルン家では、選帝資格を有するマインツ大司教位も手に入れようと目論んだ。しかしそれには莫大な金が必要で、それを集めるために金融商人フッガー家から借金をし、その返済資金を集めるためにドイツで贖宥状を乱発した。これに批判の目を向けたのがマルティン・ルターである。
ルターはザクセン選帝侯の領地で生まれ育ち、選帝侯の宮廷があるヴィッテンベルクの大学で神学を教授していた人物である。ザクセン選帝侯はルターの庇護者となり、ザクセン選帝侯領はルター派の本拠地となっていった。
ルター以外にも教会を批判する者たちが現れた。スイスのツヴィングリによる改革派、フランスのカルヴァンによるカルヴァン派などの諸派があった。彼らは教義の面で一致することもあれば見解が分かれることもあり、一枚岩ではなかった。
ルターはキリスト教会を苛烈に批判し、教会側はルターを「異端」として攻撃した。ドイツ中部のザクセン領からドイツ北部にかけてはルターの教えが広がり、一方ドイツ南部では従来の教会に従う勢力が多かった。
「プロテスタント」の誕生
カール5世ははじめ、これらの宗派争いから距離を置いていた。カール5世はイタリアや東ヨーロッパでフランス・トルコと戦っており、さらに争いを増やすようなことは避けたかったのである。カール5世自身はカトリックであったので、教皇や教会側はカール5世が宗教改革諸派に厳しい姿勢を取ることを求めた。しかしカール5世は、両派の融和に取り組もうとした。ローマ教会がルターに対して異端の罪で破門状を送りつけたあとも、カール5世は身の安全を保証してルターを召喚し、その見解を尋ね、ローマ教会側と折り合うことを提案した。
しかしルターもローマ教会も頑として主張を曲げず、カール5世の仲裁は成果が得られなかった。カール5世はローマ教会の破門状を追認する形でルターへ帝国アハト刑(追放刑)を申し渡したが、ザクセン選帝侯がルターを匿うと、それ以上は追求しなかった。
戦争前夜
シュマルカルデン同盟の結成
同盟は、防衛のためのもの。
加盟している領邦が攻撃された場合、ほかの領邦が助ける。
反逆に当たるかどうかの解釈問題。
フランス情勢
宣戦布告
戦争の経過
序盤(1446年夏)
戦争が始まる時点では、プロテスタント勢は自分たちが戦力面で優勢だと考えていた。皇帝側に味方したドイツ勢はいたものの、皇帝軍の兵力の大半はイタリア、オランダやスペインといった遠方から来る援軍で、その到着にはしばらく時間を要するはずだった。ところが思わぬところから敵が現れた。同盟を率いるザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒとヘッセン方伯フィリップ1世の両方にとっての身内である、ザクセン公モーリッツが、裏切ったのである[1][2]。
モーリッツはヴェッティン家の分家アルブレヒト家の当主であり、ザクセン公として本家のザクセン選帝侯を支える立場だった。ヨハン・フリードリヒとは又従兄弟の血縁である。そしてモーリッツの妻アグネスはヘッセン方伯の娘である。そのうえモーリッツはプロテスタントだった[2]。
戦争が始まる時、モーリッツは同盟に対して、自分は中立を保つと言っていた。同盟はその言葉を守らせるためにモーリッツに領地を約束していた。ところがその裏でモーリッツは皇帝カール5世に内通していた。カール5世は、戦争に勝った暁にはモーリッツをザクセン選帝侯にしてやると言って内応を誓わせていた。皇帝が開戦に踏み切ったのは、こうした切り札があってのことだった[1][2]。
モーリッツの裏切りを知る由もないザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒは、ドナウ川の河畔で皇帝軍を迎え撃つため、軍勢を率いて本拠を発って南へ向かった。17歳だが武芸の誉れ高いヨハン・フリードリヒ2世もこれに帯同した。だが領地がもぬけの殻になったのを見計らって、1546年9月、モーリッツは軍を選帝侯の領地へ差し向けた。モーリッツは「選帝侯の命令で領地の守備に来た」と偽って選帝侯の領地に入り込み、次々と要地を落としていった。なかでもライプツィヒを占領されたのはヨハン・フリードリヒにとって致命的な痛手になった。ライプツィヒは兵站と兵士へ支払う給与を集める重要都市だったのだ。領地からの急報を受け取ったヨハン・フリードリヒは軍を割いて救援に引き返すほかなくなった。12月の末にザクセンへ到着したヨハン・フリードリヒは、領地から次々とモーリッツの兵を追い払っていった。だがライプツィヒ奪還には3週間を要してしまい、この間に皇帝軍はすっかり陣営を整えてしまった[3][4][1][2]。
ザクセン選帝侯の戦力を欠いたシュマルカン同盟軍は、各地で皇帝軍によって個別に撃破されていった。1547年になって、ヨハン・フリードリヒは自領地をすっかり取り戻して皇帝軍の迎撃にあたれるようになったが、既に皇帝軍はモーリッツの手引でボヘミア方面からエルベ川沿いにザクセン地方へ侵入を始めていた。ヨハン・フリードリヒはライプツィヒの南東にあるロホリッツの戦い(3月2日)でブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯アルブレヒトを打ち破ってこれを捕縛し、エルベ川沿いの大都市ドレスデン方面に向かった。しかし皇帝軍が既にドレスデンやフライベルクを落としたとの報せに接すると、マイセンのエルベ川に架かる橋を焼き落として時間を稼ぎ、エルベ川沿いに下って退き、堅牢なヴィッテンベルクで皇帝軍を迎え撃つことに決めた。
モーリッツの裏切り(1446年秋)
ところが思わぬところから敵が現れた。同盟を率いるザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒとヘッセン方伯フィリップ1世の両方にとっての身内である、ザクセン公モーリッツが、裏切ったのである[1][2]。
モーリッツはヴェッティン家の分家アルブレヒト家の当主であり、ザクセン公として本家のザクセン選帝侯を支える立場だった。ヨハン・フリードリヒとは又従兄弟の血縁である。そしてモーリッツの妻アグネスはヘッセン方伯の娘である。そのうえモーリッツはプロテスタントだった[2]。
戦争が始まる時、モーリッツは同盟に対して、自分は中立を保つと言っていた。同盟はその言葉を守らせるためにモーリッツに領地を約束していた。ところがその裏でモーリッツは皇帝カール5世に内通していた。カール5世は、戦争に勝った暁にはモーリッツをザクセン選帝侯にしてやると言って内応を誓わせていた。皇帝が開戦に踏み切ったのは、こうした切り札があってのことだった[1][2]。
モーリッツの裏切りを知る由もないザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒは、ドナウ川の河畔で皇帝軍を迎え撃つため、軍勢を率いて本拠を発って南へ向かった。17歳だが武芸の誉れ高いヨハン・フリードリヒ2世もこれに帯同した。だが領地がもぬけの殻になったのを見計らって、1546年9月、モーリッツは軍を選帝侯の領地へ差し向けた。モーリッツは「選帝侯の命令で領地の守備に来た」と偽って選帝侯の領地に入り込み、次々と要地を落としていった。なかでもライプツィヒを占領されたのはヨハン・フリードリヒにとって致命的な痛手になった。ライプツィヒは兵站と兵士へ支払う給与を集める重要都市だったのだ。領地からの急報を受け取ったヨハン・フリードリヒは軍を割いて救援に引き返すほかなくなった。12月の末にザクセンへ到着したヨハン・フリードリヒは、領地から次々とモーリッツの兵を追い払っていった。だがライプツィヒ奪還には3週間を要してしまい、この間に皇帝軍はすっかり陣営を整えてしまった[3][4][1][2]。
ザクセン選帝侯の巻き返し(1446年冬)
ザクセン選帝侯の戦力を欠いたシュマルカン同盟軍は、各地で皇帝軍によって個別に撃破されていった。1547年になって、ヨハン・フリードリヒは自領地をすっかり取り戻して皇帝軍の迎撃にあたれるようになったが、既に皇帝軍はモーリッツの手引でボヘミア方面からエルベ川沿いにザクセン地方へ侵入を始めていた。ヨハン・フリードリヒはライプツィヒの南東にあるロホリッツの戦い(3月2日)でブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯アルブレヒトを打ち破ってこれを捕縛し、エルベ川沿いの大都市ドレスデン方面に向かった。しかし皇帝軍が既にドレスデンやフライベルクを落としたとの報せに接すると、マイセンのエルベ川に架かる橋を焼き落として時間を稼ぎ、エルベ川沿いに下って退き、堅牢なヴィッテンベルクで皇帝軍を迎え撃つことに決めた。
ミュールベルクの戦い(1447年春)
ところがその移動中、4月24日の日曜日に、ミュールベルクで油断して軍を休めているところを皇帝軍に急襲されてしまう。このミュールベルクの戦いで同盟軍は致命的な敗北を喫した。軍兵は散り散りになり、ヨハン・フリードリヒは森へ逃げ込んだが、ハンガリー騎兵に包囲されて斬り合いになり、顔面を斬られた上で捕縛されてしまった。
ヨハン・フリードリヒは皇帝軍の将軍アルバ公の前に連行され、それからアルバ公によって皇帝のもとへと引き出された。そのまま皇帝の捕虜として拘引された。
終戦(1447年春)
選帝侯妃ジビュラは、夫が捕縛されたあと自ら兵を指揮し、ヴィッテンベルクの城門を閉じて立て籠もった。皇帝軍はヴィッテンベルクの城外に陣取って包囲した。
息子のヨハン・フリードリヒ2世はなんとかミュールベルクの戦いから逃げおおせたが、ヴィッテンベルク城内の兵はそう多くはないので、軍勢をかき集めるため、200kmほど離れたゴータに向かった。しかし兵と軍備を整えるのに時間を要してしまい、救援は間に合わなかった。
皇帝は、要塞都市ヴィッテンベルクを力押しで攻略するのは容易ではないと判断し、選帝侯妃に降伏と開城を求めることにした。まず皇帝は将軍のアルバ公に軍事裁判を行わせた。その裁決が下るまでの間、ヨハン・フリードリヒは落ち着き払い、同じく捕虜になっているブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン公エルンスト2世とチェスを指して待っていた。
ヨハン・フリードリヒには、異端と反逆の咎で死罪であるとの裁定が下り、すぐに宣告された。皇帝はヴィッテンベルクの門の前にヨハン・フリードリヒを引き出し、城内の選帝侯妃に対して、選帝侯の死刑を免れたければ降伏しろと迫った。しかしヨハン・フリードリヒは選帝侯妃に「ペルガモス」と一言だけ伝えた[注 2]。これを聞いた皇帝は、これではヴィッテンベルクは降伏しないと悟り、ヨハン・フリードリヒを下げさせ、別の手段を取ることにした。皇帝はヨハン・フリードリヒに対し、降伏しなければ、数百年の歴史を持つヴィッテンベルクの都の何もかもを全て破壊し尽くし、選帝侯妃と息子たちも殺すと脅した。これにはヨハン・フリードリヒも折れ、5月19日にヴィッテンベルクに近いブレーセルンに陣取った皇帝軍の野営地で、降伏文書(Wittenberger Kapitulation)に署名した。
この文書によって、ヨハン・フリードリヒはザクセン選帝侯位をモーリッツへ譲り渡すことになった。さらにザーレ川から東の領地は全てモーリッツのものとなった。このほか南部のプラウエン一帯はボヘミア王のものとなった。ヨハン・フリードリヒに残されたのはチューリンゲン地方の領地だけだった。
これ以後ザクセン・ヴェッティン家の主家はモーリッツのアルブレヒト家となり、エルンスト家は傍系に転落することになった。ヨハン・フリードリヒは皇帝の捕囚として終生まで幽閉されることになり、それと引き換えに、妻子の罪は赦し、チューリンゲン地方の領地と爵位をヨハン・フリードリヒの3人の息子たちへ遺すことになった。さらに息子たちにはそれぞれ、毎年50,000フローリンの金が皇帝から援助されることとなった[2]。
戦後
資料
A
B
C
D
E
F
G
脚注
注釈
- ↑ イタリア戦争は、フランスとハプスブルク家の間で15世紀末から行われていた。皇帝選挙はその一環でもあった。
- ↑ ペルガモスというのは古代ギリシア叙事詩に登場する伝承上の人物である。トロイア戦争でアキレウスとの決闘に敗れて殺さたれたトロイアの王子ヘクトールの妻アンドロマケーの子である。アンドロマケーはトロイアが滅ぼされたあと捕らえられ、アキレウスの子ネオプトレモスの妾とされ、ペルガモスを産んだ。のちにネオプロテモスが殺されると、奴隷にされていたヘレノス(ヘクトールの実弟)と連れ立って脱出、アナトリア半島に渡った。ペルガモスが成人すると都市を築き、その都市はペルガモスの名をとって「ペルガモン」と名付けられ、文化都市として長く繁栄した。ペルガモンの図書館は、エジプトのアレキサンドリア図書館に次ぐ蔵書量を誇った。
出典
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- 『ドイツ二千年史』,若林龍夫/著,靑梧堂,1941
- 世界の教科書=歴史019『ドイツ民主共和国1』,ドレスデン教育大学、ライプツィヒ大学、D・ベーレント、H・ヴェルメス、S・ミュラー/原著,木谷勤、井上浩一、勝部裕/訳,ほるぷ出版,1983
- 世界の教科書=歴史020『ドイツ民主共和国2』,ヴェルテンベルク・ハレ大学、H・ヒュープナー、H・ディーレ/原著,木谷勤、大島隆雄/訳,ほるぷ出版,1983
- 世界歴史大系『ドイツ史1』先史-1648年,成瀬治・山田欣吾・木村靖二/編,山川出版社,1997,ISBN 463446120X
- 世界歴史大系『ドイツ史2』1648-1890年,成瀬治・山田欣吾・木村靖二/編,山川出版社,1996,ISBN 4634461307
- 新版世界各国史13『ドイツ史』,木村靖二/編,山川出版社,2001,ISBN 4634414309
- 『近代ドイツの歴史』,若尾祐司・井上茂子/編著,ミネルヴァ書房,2005,ISBN 4623043592
- ケンブリッジ版世界各国史『ドイツの歴史』,メアリー・フルブロック/著高田有現、高野淳/訳,創土社,2005,2008(第2刷),ISBN 9784789300322
- 『図説 ドイツの歴史』,石田勇治/編著,河出書房新社,2007,2010(第3版),ISBN 9784309761053
- 「知の再発見」双書『カール5世とハプスブルク帝国』,ジョセフ・ペレ/著,塚本哲也/監修,遠藤ゆかり/訳,創元社,2002,,ISBN 442221165X
- 『皇帝カール五世とその時代』,瀬原義生/著,文理閣,2013,ISBN 9784892597190
関連項目
日本語版
テンプレート:Infobox military conflict シュマルカルデン戦争(シュマルカルデンせんそう、Schmalkaldischer Krieg)は、1546年7月10日から1547年5月23日に神聖ローマ帝国内において勃発した戦争である。カトリック教会を支持する神聖ローマ皇帝カール5世とプロテスタント勢力(シュマルカルデン同盟)の間で争われた。
背景
1531年に反ローマ・反皇帝・反カトリックを掲げた諸侯の同盟がシュマルカルデン同盟である。神聖ローマ帝国では当時対オスマン帝国の戦費を集めることに躍起になっており、帝国内情は放置されていた。
先立つドイツ農民戦争でも皇帝は鎮圧しようとせず、諸侯自らこれらを鎮圧した。これらの不満から同盟は結成され、反カトリックを掲げた宗教戦争となった。無論、皇帝が帝国の内情に疎いことや弱体化が明白であったからということもある。オスマン帝国やフランス王国のカトリック支援なども理由の一つといえる。
1542年にはフランスが対神聖ローマ帝国戦争(第五次イタリア戦争)を開始し、皇帝が手薄になった事で同盟は蜂起した。これらの問題に直面した神聖ローマ皇帝カール5世は1544年に対フランス戦争を中止し、内乱の鎮圧に着手した。これにより1546年に皇帝と同盟の間ではっきりとしたシュマルカルデン戦争が始まった。
結果
1547年、ミュールベルクの戦いでカール5世が勝利、同盟の指導者ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒとヘッセン方伯フィリップを捕えてカトリック優位のアウクスブルク仮信条協定を結んだが、1552年にザクセン選帝侯モーリッツ(ヨハン・フリードリヒの又従弟でフィリップの婿、カール5世に就いて選帝侯になった)の反乱でパッサウ条約を締結した。
同年に反対派のアルブレヒト・アルキビアデスが反乱(第二次辺境伯戦争)を起こし、モーリッツが戦死したが1554年に終結したのを機に翌1555年のアウクスブルクの和議が成立。これによりプロテスタントが帝国内で許されることになった。
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