「95ヶ条の論題」の版間の差分
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*図説『世界の歴史6近代ヨーロッパ文明の成立』,[[:en:John Roberts (historian)|J.M.ロバーツ]]/著,鈴木董/監修,金原由紀子/訳.[[創元社]],2003,2006(1版2刷),ISBN 4-422-20246-4 | *図説『世界の歴史6近代ヨーロッパ文明の成立』,[[:en:John Roberts (historian)|J.M.ロバーツ]]/著,鈴木董/監修,金原由紀子/訳.[[創元社]],2003,2006(1版2刷),ISBN 4-422-20246-4 | ||
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+ | *世界史リブレット27『宗教改革とその時代』,小泉徹<!--[[北山耕平]]のリダイレクトである[[小泉徹]]とは同姓同名の別人と思われる。-->/著,[[山川出版 <nowiki>*ヨーロッパ史入門『ドイツ宗教改革』,[[:de:Robert W. Scribner|R.W.スクリブナー]]・C.スコット・ディクスン/著,[[森田安一]]/訳,[[岩波書店]],2009,ISBN 978-4-00-027203-2 | ||
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2017年1月2日 (月) 02:16時点における版
目次
冒頭文
概要
通説による簡単な経緯と評価
当時のヴィッテンベルクの人口は2000人程度。しかしザクセン選帝侯の本拠がおかれ、1502年に開設されたばかりのヴィッテンベルク大学があった。城はヴィッテンベルクの西端に位置し、それに隣接して教会があった[1]。
ルターが貼りだしたのは1517年10月31日。教会の門の扉に、印刷された紙。ラテン語で書かれているため、一般市民には読むことができないものだった。つまりこれは一般市民向けのものではなく、神学者に対する告知である。また、教会の門にこうした告知を貼りだすというのは、学術的な議論を提起する際の当時のしきたりだった[1] 。
ヴィッテンベルク大学の神学教授であるが、まだ無名の存在であった[1]。
免罪符を批判していた[1]。
同じものをドイツの首座司教だったマインツ大司教に送りつけた。マインツ大司教はそれをローマに送り、こうした説教を行うことを禁止するように求めた。しかし既にドイツ語に翻訳され、当時生まれたばかりの活版印刷によってドイツ各地に瞬く間に広まった[2]。
ルター自身の言葉によると、これは「天使ご自身が飛脚であったかのごとく」わずか2週間でドイツ中に広まった[3]。
こうしてこの問題提起は大きな論争を巻き起こすことになった[2]。
「掲示」のもつ意味
本当に「掲示」されたのか?
贖宥状に関する背景
ルターの意図は?
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6
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8
脚注
注釈
出典
参考文献
- 世界歴史大系『ドイツ史1』先史-1648年,成瀬治・山田欣吾・木村靖二/編,山川出版社,1997,ISBN 463446120X
- 『世界の歴史12ルネサンス』,会田雄次・中村賢二郎/著,河出書房新社,1989,2000(9版),ISBN 4-309-47171-4
- 図説『世界の歴史6近代ヨーロッパ文明の成立』,J.M.ロバーツ/著,鈴木董/監修,金原由紀子/訳.創元社,2003,2006(1版2刷),ISBN 4-422-20246-4
- 世界史リブレット27『宗教改革とその時代』,小泉徹/著,[[山川出版 *ヨーロッパ史入門『ドイツ宗教改革』,[[:de:Robert W. Scribner|R.W.スクリブナー]]・C.スコット・ディクスン/著,[[森田安一]]/訳,[[岩波書店]],2009,ISBN 978-4-00-027203-2 ==旧日本語版== [[ファイル:95Thesen.jpg|thumb|95ヶ条の論題]] {{宗教改革}} {{プロテスタント}} '''95ヶ条の論題'''(95かじょうのろんだい、{{lang-de-short|95 Thesen}})は、正式名称『'''贖宥状の意義と効果に関する見解'''』({{lang-la|Disputatio pro declaratione virtutis indulgentiarum}}, {{lang-en-short|The Ninety-Five Theses on the Power and Efficacy of Indulgences}})と言い、[[1517年]]に[[マルティン・ルター]]が当時の[[カトリック教会]]の免償理解に疑義を呈して発表した文章、提題(テーゼ)である。 ルター自身があくまでも[[神学]]上の論争と考えていたことから、当時の民衆にはほとんど読めなかった[[ラテン語]]で書かれている。 [[ドイツ]]における[[贖宥状]]の大量販売にはドイツ諸侯の思惑もからんでいたため、ルターのテーゼがもたらした議論は単なる神学論争から一大政治論争へと発展、「[[プロテスタント]]」と呼ばれる新しいキリスト教グループを生み出すことになった。[[宗教改革]]の幕開けの事件とみなされる。贖宥行為の濫用は、現代でも[[宗教事業協会]]をめぐる問題として衆目を浴びている。 === 目的と経緯 === [[ヴィッテンベルク]]の教会は、当時ヨーロッパで最も豊富な[[聖遺物]]コレクションがあった。それらは[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]][[フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ3世]](賢公)が収集したものだった。 当時、聖遺物に対する崇敬は盛んで、見るだけで免償(罪の償いの義務を軽減すること)が得られたり、[[煉獄]]での清めの期間を短くできると信じられていた。ルターの研究書を書いているマルティン・トロイ(Martin Treu)によれば、選帝侯は[[1509年]]ごろ、「すでに5005もの聖遺物を収集していた。その中には[[聖母マリア]]の母乳入りの瓶、[[イエス・キリスト|イエス]]の生まれた飼い葉おけのわら、[[ヘロデ大王]]による[[幼児虐殺]]の被害者の完全な遺骨などがあった。このような遺物は通常、手の込んだ銀細工が施された保管容器に収められ、年一度公開されて参拝者を集めていた」という。1520年、選帝侯の聖遺物コレクションの数は19013にも達したという。人々は免償を得ようとこぞってヴィッテンベルクの教会を訪れ、その齎す功徳の総計は「人々が煉獄に入る期間を合計にして19万年も減らす」(トロイ)ほどのものだったという。 ヴィッテンベルクの教会の扉に論題が張られたのにはこのような経緯があったが、ルターが当時の教会の贖宥理解に疑問を抱いたのには、贖宥状販売で有名だった[[ドミニコ会]]員[[:w:Johann Tetzel|ヨハン・テッツェル]]の存在が大きかった。 テッツェルは[[教皇]][[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]と[[マインツ大司教]][[アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク (1490-1545)|アルブレヒト]]のお墨付きを得て贖宥状を売り歩いていた。聖遺物展示による贖宥状売り上げが落ちることをおそれたフリードリヒ賢公と資産の流出を嫌ったザクセン公[[ゲオルク (ザクセン公)|ゲオルク]]の命により、領内での贖宥状の販売は禁止されていたが、人々はわざわざ他領へ赴いてテッツェルの贖宥状を求めるほどの人気ぶりだった。 ルターのもとに告白に来る信徒たちも誇らしげに贖宥状を示し、自分にはもう罪の償いは必要ないと言い切るのを見てルターは複雑な気持ちになった。 == 提示方法 == 通説では、ルターは95ヶ条の論題を1517年[[10月31日]]に[[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク|ヴィッテンベルク大学]]の聖堂の扉に提示したとされ、この日が[[宗教改革記念日]]となっている。 これに対して研究者の一部には、当時の記録に記述がないという理由で通説を疑問視する者もいる。通説擁護派からは、「当時の大学では、何か意見がある時は聖堂の扉に掲示するのが一般的だった(現代で言えば「[[掲示板]]」)ので、当たり前すぎて記録に残していないのだ」という反論がされている。 更に論題が各地で急速に話題になったことから、ルターが論題を掲示するだけでなく各地に送付したという説もある。この説は研究者の中でも否定する声が少ない。というのも、たとえばマインツ大司教、教皇、ルターの友人たち、各地の大学などに送られたと考えるのは至極妥当なことだからである。[[1518年]]に入ると、論題は[[ドイツ語]]等に翻訳された印刷物となって急速にヨーロッパ全土に広がった。 ===脚注=== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ===参考文献=== ====邦訳==== [[徳善義和]]ほか訳『ルター著作選集』収録「贖宥の効力を明らかにするための討論」、2012/4、ISBN 9784764218055 === 関連項目 === *[[対抗改革]] *[[宗教改革記念日]] *[[ナチス・ドイツの焚書]] == 外部リンク == {{wikisourcelang|la|Disputatio pro declaratione virtutis indulgentiarum}} {{Wikisourcelang|en|95 Theses}} * [http://www.iclnet.org/pub/resources/text/wittenberg/luther/web/ninetyfive.html Project Wittenberg Disputation of Doctor Martin Luther on the Power and Efficacy of Indulgences by Dr. Martin Luther, 1517] * [http://mb-soft.com/believe/txc/luther.htm BELIEVE Religious Information Source] {{マルティン・ルター}} {DEFAULTSORT:きゆうしゆうこかしようのろんたい}} [Category:宗教改革]] [Category:1517年]] [Category:16世紀のヨーロッパ]] [Category:マルティン・ルター]] [Category:キリスト教に関する論争]] [Category:名数|95 ろんたい]] [Category:ラテン語の成句]]