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2017年8月23日 (水) 02:19時点における版
プリニーの下書き
ジョージ4世と競馬
皇太子時代
皇太子時代のジョージに酒と女と賭け事遊びを教えたのは叔父のカンバーランド公爵だったと伝えられている[1] [注 1]。カンバーランド公爵は1780年に創設されたばかりのダービーにたびたび持ち馬を出走させていた[注 2]。ジョージは、1783年にジョッキークラブへの加入が認められる21歳になると、すぐに会員となって競馬を始めた[3]。ジョージは欲しい馬がいれば金に糸目はつけずにいくらでも注ぎ込んだという[4]。ジョージの所有馬はすぐに20頭を超え、経費は年に3万ポンドを要したと伝えられている[4]。
1786年にはジョージが競馬に登録した馬は24頭を数え[5]、2頭をダービーに出場させた[1][注 3]。だがこうした浪費によってジョージはこの年に早くも破綻に直面した[4]。ジョージは持ち馬9頭を手放す羽目になり、ニューマーケットの厩舎も解散せざるをえないところまで追い詰められた[3]。一時期は手元には「半ダースほど」の馬しかいなくなったという[4]。
だが、1787年に議会から与えられた16万1000ポンドの資金で、ジョージは競馬を再開することができた。再び競走馬を買い集め、持ち馬は39頭になり[7]、厩舎を拡張した[4]。1791年の『タイムズ』紙は「皇太子は王国で一番の厩舎を持っている。そのくせ全然レースに勝っていない」と記事にした[7]。実はジョージは既に、1788年にサートーマスをダービーに出走させて勝っており、王族として初めてダービー優勝を果たしている[4]。しかしその頃のダービーの賞金はまだそれほど高くなく、ジョージが勝った年の優勝賞金は971ポンド15シリングに過ぎなかった[1]。一方、ジョージは馬1頭に2000ポンド以上出して購入することもあった。
アスコットでの栄光
ジョージが名実ともにイギリスで一番の馬主となったのは1791年のことである。その前年、1790年6月にアスコット競馬場でイギリス最大の競馬レースが創設された。これはオートランズステークス(Oatlands Stakes)といい、競馬史上初の、3頭以上によるハンデ戦だった。どの馬にも均等に勝つチャンスが有るという企画は画期的で、優勝賞金の原資となる登録料は1頭あたり100ギニー(105ポンド)も必要だったが、イギリス中から出走希望馬が集まり、賞金は膨れ上がった。ジョージも第1回オートランズステークスにエスケープ(Escape)号という持ち馬を出したが、惜しくもアタマ差で2着に敗れた[7][8][注 4]。
ジョージの目標は翌1791年の第2回オートランズステークスに優勝することに熱中した。6月に開催されるレースの半年前に、各登録馬に与えられるハンデキャップが発表されることになっており、それが公表されるとジョージはめぼしい登録馬を買い集めた。そしてそれらの馬をエプソム競馬場に集め、オートランズステークスと同じ距離、同じ斤量で幾度も競わせ、出走させる馬を厳選していった。その結果、エスケープ号を主力とし、そのサポート役としてバロネット(Baronet)号、ペガサス号、スモーカー号の合計4頭の出走を決めた[7]。
第2回オートランズステークスの優勝賞金は2950ギニー(約3100ポンド)と、ダービーの3倍にのぼった。19頭が集まり、なかにはこの年のダービー馬もいた[注 5]。このレースは第1回以上に話題を集め、イギリス中の賭けの総額は10万ポンドを超えた。なかにはバリモア伯爵(Richard Barry)のように、一人で2万ポンドも賭けている者もいた[注 6]。
ジョージはエスケープ号での優勝を狙っていた。だから、バロネット号に乗るお抱え騎手のサム・チフニーには、「とにかくライバルの邪魔をしろ」と指示を出していた。チフニー騎手もエスケープ号が勝つと思っていて、自らエスケープ号の馬券を60ポンド近く購入していた。当たれば1000ポンドになるはずだった。チフニー騎手は念のため、もしもバロネット号が勝ちそうな場合はどうしたらいいか、ジョージに確認した。するとジョージは(そんなことはありえないが)保険としてバロネット号にも賭けており、万が一バロネット号が勝っても1万7000ポンドの儲けになるから心配しなくていい、と答えた[7]。
レースが始まると、エクスプレス号という馬が先頭に立ち、バロネット号がこれに続き、ジョージの本命エスケープ号は3番手につけた。だがレースの中盤でエクスプレス号が後続を離そうとすると、エスケープ号の動きが怪しくなった。バロネット号のチフニー騎手はエスケープ号を置いてエクスプレス号を追いかけることに決め、この2頭が3番手以下を引き離したままゴールへ向かった。叩き合いの末、半馬身差でバロネット号が優勝し、ジョージはイギリスで一番の大レースの優勝馬主となった[7]。
普段はジョージが競馬に散財することを諌めていた父ジョージ3世も、この時ばかりはジョージを褒めたという。ジョージ3世は「おまえのバロネット号はよく稼ぐ。儂は先週14人に準男爵位(バロネット)を授けたが、奴らは1ペニーだってよこさない。」と言ったと伝えられている。バロネット号はこのあとイギリス各地で勝利をおさめ、アメリカへ種牡馬として売られていった[7]。
エスケープ号事件
しかしこの直後、ジョージとチフニー騎手、エスケープ号は、エスケープ号事件として競馬史に残る悪名高い事件を起こした。オートランズステークス優勝のあと、ジョージは秋のニューマーケット競馬場にエスケープ号を出走させた。騎手はチフニー騎手である。最初のレースでエスケープ号は人気を集め、賭けの倍率も下がったのだが、不可解な大敗をした。翌日、人気の落ちたエスケープ号が再び出走し、楽勝した。前日の敗戦で、賭けの倍率は3倍から6倍にまであがっていた[7]。
すぐに、ジョージらが2日目の馬券で儲けるため、チフニー騎手がいんちきをして初日にエスケープ号が負けるようわざと手綱を抑えたのだ、と非難の声が上がった。ジョッキークラブの会長で審判長をしていたバンベリー準男爵はジョージを呼び出し、詰問した。バンベリー準男爵は、こんなことをしたらジョージの馬と一緒にレースに出る者は一人もいなくなるぞ、と警告したが、ジョージはいんちきを認めず、チフニー騎手を擁護した。この結果、ジョージはニューマーケットから出入り禁止を申し渡された[7]。
ジョージの側は、ジョッキークラブと決別してやったと息巻いていたが、競馬界の人々はみなジョッキークラブを賞賛した。たとえ相手が次期国王であろうとも、筋を通し追放処分を決めたことでジョッキークラブの権威は大いに高まった。もともと当時のジョッキークラブは、何ら法的拘束力を持たない同好会にすぎない存在だったが、これ以後はイギリス中の競馬人がニューマーケットのジョッキークラブのさまざまな決定を遵守するようになった。現代ではニューマーケットのジョッキークラブは「世界の競馬の中心」「世界の競馬の決定機関」などと称されているが、これはエスケープ号事件の結果である[7][注 7][注 8]。
参考文献
- 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』Roger Mortimer and Richard Onslow and Peter Willet,Macdonald and jane's,1978,ISBN 0354085360
- 『英国競馬事典』,レイ・ヴァンプルー、ジョイス・ケイ共著,山本雅男・訳,財団法人競馬国際交流協会・刊,2008
- 『The Derby;A celebration of the world's most famous horse race』,Michael Wynn Jones,1979,London,ISBN 0856648841
- 『競馬百科』日本中央競馬会・編、みんと・刊、1976
- 『競馬の世界史』ロジャー・ロングリグ・著、原田俊治・訳、日本中央競馬会弘済会・刊、1976
- 『Ascot The History』Sean Magee with Sally Aird,Methuen Publishing,Ascot Racecourse,2002 ISBN 0413772039
- 『Racing Calendar In the year 1786』,ジェームズ・ウェザビー/編,H. Reynell/刊,London,1786,GoogleBooks版
- 『世界の名馬』,原田俊治・著,サラブレッド血統センター・刊,1970,1988(4刷)
- 『競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史』デニス・クレイグ著、マイルズ・ネーピア改訂、佐藤正人訳、中央競馬ピーアールセンター刊、1986
- 『ダービー その世界最高の競馬を語る』アラステア・バーネット、ティム・ネリガン著、千葉隆章・訳、(財)競馬国際交流協会刊、1998
- 『伝説の名馬PartIII』山野浩一・著、中央競馬ピーアール・センター・刊、1996
- 『世界百名馬』日本中央競馬会、1978
- 『サラブレッドの世界』サー・チャールズ・レスター著、佐藤正人訳、サラブレッド血統センター刊、1971
- 『最新名馬の血統 種牡馬系統のすべて』山野浩一著、明文社刊、1970、1982
- 『サラブレッド』ピーター・ウィレット著、日本中央競馬会・刊、1978
- 『イギリスの厩舎』,アンドリュー・シム/著,大久保登喜子/訳,財団法人競馬国際交流協会/監修・発行,2002
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