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2020年8月13日 (木) 17:25時点における版

ハンプトンコート王室牧場(Hampton Court Royal Stud)は、英国王が自らサラブレッドを生産するための拠点である。ロンドンの南西部に位置している。

ハンプトンコートの歴史

ハンプトンコート(ハンプトン王宮、Hampton Court)は、テューダー朝のヘンリー8世(在位:1509年 - 1547年)によって王宮として整備された。それ以前には1236年に拓かれた聖ヨハネ騎士団の荘園があり、これをヨーク大司教の臣下、ウルジー枢機卿が借り受け、自宅として壮麗な邸宅につくりかえた。

当時のヨーク大司教は、イングランド王を上回る富を誇っていた。それがヘンリー8世による世俗教会への不信につながり、のちのヘンリー8世による宗教改革につながったのだ。ヘンリー8世は生涯で何度も離婚をし、教会がその承認を渋ると妻を暗殺したと伝わる。また、抵抗した重臣や聖職者を容赦なく死罪とした。ウルジー枢機卿は、枢機卿の邸宅のあまりの豪奢なつくりをヘンリー8世が羨んでいるときいて、身の危険を感じ、邸宅をまるごとヘンリー8世に献上したのだという。

1640年代の清教徒革命では、クロムウェル率いる「清教徒軍」がこの王宮を遅い、略奪した。これによって一時期王宮は荒廃したが、王政復古のあと、ウィリアム3世・アン女王の共同統治時代の1689年から再整備が行われて、いまの荘厳な宮殿となった。

ここに王室牧場が新設されたのは1699年のことである。このとき、新しい牧場長に任命されたのリチャード・マーシャル(Richard Marshall)は、ウィリアム3世の名代となって自ら北アフリカへ赴き、アラビア種、バルブ種、トルコ種、ペルシャ種の馬を買い付け、輸入した。記録では、牡馬9頭、牝馬5頭の計14頭だったとなっているが、明確に名前が残っているのはそのうち数頭である。これらの馬は「ハンプトンコートの基礎輸入東洋馬」(Hampton Court Orientals)として知られている。

1699年に輸入された東洋馬