「リッチモンド」の版間の差分
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===地名の由来と初代リッチモンド伯=== | ===地名の由来と初代リッチモンド伯=== | ||
− | 「リッチモンド」(Richmond) | + | 「リッチモンド」(Richmond)という地名は、フランス・ノルマンディー地方のリッチモント村(Richemont)に由来する。もともとリッチモント村の領主だった「赤のアラン」という人物が、1071年に北ヨークに所領を与えられ、「リッチモンド」と呼ぶようになったのだ。それ以前、この土地は「ヒンドㇾラァ(Hindrelagh)」と呼ばれていたという説があるが、よくわかっていないそうだ(古北欧語なので、カタカナは怪しい)。先住のアングロ=サクソン人とデーン人を滅ぼしちゃったからね。 |
1066年、ノルマンディー地方のギヨーム1世がイングランドに渡り、ヘイスティングの戦いでイングランド王ハロルド2世を討ち取って王位を奪った。ギヨーム1世はイングランド風には「ウィリアム1世」と呼ぶ。 | 1066年、ノルマンディー地方のギヨーム1世がイングランドに渡り、ヘイスティングの戦いでイングランド王ハロルド2世を討ち取って王位を奪った。ギヨーム1世はイングランド風には「ウィリアム1世」と呼ぶ。 | ||
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しかしイングランド各地、とりわけ北部では、在来のアングロ・サクソン人らが征服王ウィリアム1世を王と認めず、頻繁に反乱を起こした。ウィリアム1世の治世はこうした反乱との戦いに明け暮れたが、業を煮やしたウィリアム1世は、1069年から北イングランドに対する撫で斬りを敢行した。歴史家はこれを「北部殺戮(Harrying of the North)」と呼ぶ。ウィリアム1世はヨーク地方をはじめとした北イングランドの村を一つ一つ焼き払い、住民を皆殺しにし、家畜さえも根絶やしにした。諸説あるが、北イングランドでは1年で15万人が殺されるか餓死するかして、人口の75%が失われたと伝わる。その後、とウィリアム1世は、ノルマンディー地方から連れてきた腹心の部下たちに、北イングランド各地に封じ、所領を与えて治めさせた。 | しかしイングランド各地、とりわけ北部では、在来のアングロ・サクソン人らが征服王ウィリアム1世を王と認めず、頻繁に反乱を起こした。ウィリアム1世の治世はこうした反乱との戦いに明け暮れたが、業を煮やしたウィリアム1世は、1069年から北イングランドに対する撫で斬りを敢行した。歴史家はこれを「北部殺戮(Harrying of the North)」と呼ぶ。ウィリアム1世はヨーク地方をはじめとした北イングランドの村を一つ一つ焼き払い、住民を皆殺しにし、家畜さえも根絶やしにした。諸説あるが、北イングランドでは1年で15万人が殺されるか餓死するかして、人口の75%が失われたと伝わる。その後、とウィリアム1世は、ノルマンディー地方から連れてきた腹心の部下たちに、北イングランド各地に封じ、所領を与えて治めさせた。 | ||
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+ | この地を与えられたのは、生粋のノルマン人ではなく、ブルトン人のアラン・ルーファスという人物だった。「ルーファス」というのは「赤い」という意味で、英語では「アラン・ザ・レッド」(赤のアラン)とよぶ。アランはノルマンディー地方のリッチモント村の領主だった。その父はブルターニュのパンティエール伯である。その血筋をずーっと遡ると、ブルターニュのアラン大王(在位:890年 - 907年)にいきつく。そして、アランはウィリアム1世とも縁戚関係があり、又従兄弟の又従兄弟だったという。(ウィリアム1世はアランのことを「甥」と呼んでいた) | ||
「ブルターニュ」はフランス語で「小ブリタニア」の意味である。古代ローマの時代にイングランドに住んでいたブルトン人は、ローマが滅んだあとに東から侵入してきたゲルマン系のジュート人、アングロ人、サクソン人に駆逐され、ブリタニアの西部や北部の辺境へ押しやられた。このうち行き場を失くした部族は、英仏海峡を渡ってフランス沿岸部のアルモリカ地方に土着した。これがブルターニュの興りである。つまり、ブルターニュ人はもともとはイギリス島の民であり、アランは祖先の地に「帰ってきた」ことになる。 | 「ブルターニュ」はフランス語で「小ブリタニア」の意味である。古代ローマの時代にイングランドに住んでいたブルトン人は、ローマが滅んだあとに東から侵入してきたゲルマン系のジュート人、アングロ人、サクソン人に駆逐され、ブリタニアの西部や北部の辺境へ押しやられた。このうち行き場を失くした部族は、英仏海峡を渡ってフランス沿岸部のアルモリカ地方に土着した。これがブルターニュの興りである。つまり、ブルターニュ人はもともとはイギリス島の民であり、アランは祖先の地に「帰ってきた」ことになる。 |
2020年8月24日 (月) 03:16時点における最新版
リッチモンド(Richmond)は
地理
歴史
地名の由来と初代リッチモンド伯
「リッチモンド」(Richmond)という地名は、フランス・ノルマンディー地方のリッチモント村(Richemont)に由来する。もともとリッチモント村の領主だった「赤のアラン」という人物が、1071年に北ヨークに所領を与えられ、「リッチモンド」と呼ぶようになったのだ。それ以前、この土地は「ヒンドㇾラァ(Hindrelagh)」と呼ばれていたという説があるが、よくわかっていないそうだ(古北欧語なので、カタカナは怪しい)。先住のアングロ=サクソン人とデーン人を滅ぼしちゃったからね。
1066年、ノルマンディー地方のギヨーム1世がイングランドに渡り、ヘイスティングの戦いでイングランド王ハロルド2世を討ち取って王位を奪った。ギヨーム1世はイングランド風には「ウィリアム1世」と呼ぶ。
しかしイングランド各地、とりわけ北部では、在来のアングロ・サクソン人らが征服王ウィリアム1世を王と認めず、頻繁に反乱を起こした。ウィリアム1世の治世はこうした反乱との戦いに明け暮れたが、業を煮やしたウィリアム1世は、1069年から北イングランドに対する撫で斬りを敢行した。歴史家はこれを「北部殺戮(Harrying of the North)」と呼ぶ。ウィリアム1世はヨーク地方をはじめとした北イングランドの村を一つ一つ焼き払い、住民を皆殺しにし、家畜さえも根絶やしにした。諸説あるが、北イングランドでは1年で15万人が殺されるか餓死するかして、人口の75%が失われたと伝わる。その後、とウィリアム1世は、ノルマンディー地方から連れてきた腹心の部下たちに、北イングランド各地に封じ、所領を与えて治めさせた。
この地を与えられたのは、生粋のノルマン人ではなく、ブルトン人のアラン・ルーファスという人物だった。「ルーファス」というのは「赤い」という意味で、英語では「アラン・ザ・レッド」(赤のアラン)とよぶ。アランはノルマンディー地方のリッチモント村の領主だった。その父はブルターニュのパンティエール伯である。その血筋をずーっと遡ると、ブルターニュのアラン大王(在位:890年 - 907年)にいきつく。そして、アランはウィリアム1世とも縁戚関係があり、又従兄弟の又従兄弟だったという。(ウィリアム1世はアランのことを「甥」と呼んでいた)
「ブルターニュ」はフランス語で「小ブリタニア」の意味である。古代ローマの時代にイングランドに住んでいたブルトン人は、ローマが滅んだあとに東から侵入してきたゲルマン系のジュート人、アングロ人、サクソン人に駆逐され、ブリタニアの西部や北部の辺境へ押しやられた。このうち行き場を失くした部族は、英仏海峡を渡ってフランス沿岸部のアルモリカ地方に土着した。これがブルターニュの興りである。つまり、ブルターニュ人はもともとはイギリス島の民であり、アランは祖先の地に「帰ってきた」ことになる。
アランは、1066年のヘイスティングの戦いで、ブルターニュ人の部隊を率いて軍功をあげた。『ノルマンディー年代記(ルー物語)』の伝えによると、劣勢だったノルマンディー軍にあって、アランは左翼を支えて盛り返し、大いに勝利に貢献したという。これによりあらンには「ブルターニュ伯」(Earle of Britaine)の称号が授けられた。
ウィリアム1世は、はじめは北イングランドに腹心の部下を派遣したが、その度に地元の民によって殺害された。そこで北部の殺戮をやったあと、「ブルターニュ伯」のアラン・ルーファスに白羽の矢がたったのである。