「プレイス家」の版間の差分
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+ | 護国卿オリバー・クロムウェルは、英国の血脈の改善について心配していた。クロムウェルは嘆く、1650年のタトベリー王室牧場の破壊と、それによって起きた、血脈に流れていたアイリッシュホビー種と英国産ランニングホースのスプリントスピードが分散してしまったことを。 | ||
+ | 1657年の早い頃、おそらく、彼のトルコに送った大使であるSir Robert Bradyshe(ロバート・ブレイディシェ)を通して、クロムウェルはオスマン帝国19代皇帝のメフメト4世に外交の贈り物としてアレッポからアラビア馬の種馬を遅れと頼んだ。クロムウェルや他のイギリスの生産者は明らかに、アレッポのアラビア馬の持ち出しは厳しく禁じられているということを知らなかった。この禁制は、たとえ皇帝その人であっても破ってはならないものだったのだ。 | ||
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+ | メフメト4世はクロムウェルに返信した。代わりに16世紀の皇帝(スルタン)の標準的な外交上の贈り物を送った。これがターコマン=アラビアン種牡馬で、その血統には、アラビア種の血が1ないしクロスして含まれていた。この馬は外交の宮廷に受け入れられた。1657年11月上旬、明るい芦毛の種牡馬が、Gentleman of Horses(御馬係)のNicholas Baxterに伴われて、オランダのブリル(Brill、Brielle)から、5等フリゲート艦ダートマス(HMS Dartmouth)(艦長Captain Richard Booth)に乗船して、運ばれ、イングランドのグレーブセンド(Gravesend、テムズ川のほとり)に到着した。 | ||
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+ | 到着した種馬は、おそらくハンプトンコート牧場の王室厩舎にいれられ、クロムウェルお抱えのHorse master(厩舎長)ローランド・プレースに預けられた。 | ||
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+ | 10ヶ月後、1658.09.03、オリバー・クロムウェルは死んだ。すぐに、「イングランド共和国」政府は、クロムウェルなしにはやっていけないことが明白になった。1659年、チャールズ2世による王政復古の前年、議会政府はよちよち歩きになっていた。ローランド・プレースの領地、Dinsdale(北ヨーク郡の牧場に隣接する)は、種牡馬の繋養に理想的だった。しかし、もはや政府の権威は機能していなかったが、ローランド・プレースは種馬を移動させる許可を求めた。 | ||
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+ | ローランド・プレースも種馬もクロムウェルに帰属しており、プレースはチャールズ2世の支持者である騎士党に嫌悪されていた。もし彼が、すでに十分に手馴れた種馬をとれば、許可なしに自分の家につれていった。プレースはクロムウェル派の円頂党員からも盗っ人として嫌われ、こうして種馬は盗品としての烙印を押された。プレースの個人的キャリアは滅亡した。 | ||
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+ | 両方から烙印をおされた(double-dammned)プレースは、勇気を持って、芦毛の種馬を、Dinsdaleに移動した。そこは、ノースヨークシャーの、Richmondの町とBedale谷に隣接している。(ダラム州のダーリントンの東、ティーズ川岸) | ||
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2021年6月15日 (火) 14:07時点における版
ローランド・プレイス(Rowland Place)は、サラブレッド黎明期の17世紀競馬における「大逆人」だ。プレイスは、17世紀中葉の英国で起きた大反乱(清教徒革命)の首謀者である独裁者クロムウェルの手下で、クロムウェルと一緒になって各地の由緒ある王室牧場を荒らし回り、名馬を略奪して我がものとした。
クロムウェルがくたばって王政復古すると、プレイスには大犯罪者の烙印が押され、名馬たちは取り戻されて、プレイスの名は歴史から消し去られた。そのときに多くのサラブレッドの祖先たちが改名されて、その後の血統書の混乱をもたらしたのだという。だから実は、われわれが「三大父祖」の一頭としているバイアリータークは、実は父祖ではない、という新説がある。
- プレースズホワイトターク(Place's White Turk)にその名を残している。
経歴
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Speed and the Throughbred
p124
護国卿オリバー・クロムウェルは、英国の血脈の改善について心配していた。クロムウェルは嘆く、1650年のタトベリー王室牧場の破壊と、それによって起きた、血脈に流れていたアイリッシュホビー種と英国産ランニングホースのスプリントスピードが分散してしまったことを。
1657年の早い頃、おそらく、彼のトルコに送った大使であるSir Robert Bradyshe(ロバート・ブレイディシェ)を通して、クロムウェルはオスマン帝国19代皇帝のメフメト4世に外交の贈り物としてアレッポからアラビア馬の種馬を遅れと頼んだ。クロムウェルや他のイギリスの生産者は明らかに、アレッポのアラビア馬の持ち出しは厳しく禁じられているということを知らなかった。この禁制は、たとえ皇帝その人であっても破ってはならないものだったのだ。
メフメト4世はクロムウェルに返信した。代わりに16世紀の皇帝(スルタン)の標準的な外交上の贈り物を送った。これがターコマン=アラビアン種牡馬で、その血統には、アラビア種の血が1ないしクロスして含まれていた。この馬は外交の宮廷に受け入れられた。1657年11月上旬、明るい芦毛の種牡馬が、Gentleman of Horses(御馬係)のNicholas Baxterに伴われて、オランダのブリル(Brill、Brielle)から、5等フリゲート艦ダートマス(HMS Dartmouth)(艦長Captain Richard Booth)に乗船して、運ばれ、イングランドのグレーブセンド(Gravesend、テムズ川のほとり)に到着した。
到着した種馬は、おそらくハンプトンコート牧場の王室厩舎にいれられ、クロムウェルお抱えのHorse master(厩舎長)ローランド・プレースに預けられた。
10ヶ月後、1658.09.03、オリバー・クロムウェルは死んだ。すぐに、「イングランド共和国」政府は、クロムウェルなしにはやっていけないことが明白になった。1659年、チャールズ2世による王政復古の前年、議会政府はよちよち歩きになっていた。ローランド・プレースの領地、Dinsdale(北ヨーク郡の牧場に隣接する)は、種牡馬の繋養に理想的だった。しかし、もはや政府の権威は機能していなかったが、ローランド・プレースは種馬を移動させる許可を求めた。
ローランド・プレースも種馬もクロムウェルに帰属しており、プレースはチャールズ2世の支持者である騎士党に嫌悪されていた。もし彼が、すでに十分に手馴れた種馬をとれば、許可なしに自分の家につれていった。プレースはクロムウェル派の円頂党員からも盗っ人として嫌われ、こうして種馬は盗品としての烙印を押された。プレースの個人的キャリアは滅亡した。
両方から烙印をおされた(double-dammned)プレースは、勇気を持って、芦毛の種馬を、Dinsdaleに移動した。そこは、ノースヨークシャーの、Richmondの町とBedale谷に隣接している。(ダラム州のダーリントンの東、ティーズ川岸)