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===銅像の建立===
 
===銅像の建立===
メルボルンカップでの劇的な勝利から33年後の2016年に、キーウイの銅像製作が行われた<ref name="Stuff-20161029"/>。製作にあたったのは[[タラナキ地方]]の元外科医で、[[ニュープリマス]]で彫刻家をしているフリチョフ・ハンソン(Fridtjof Hanson)という人物<ref name="Stuff-20161029"/>。ハンソンは競馬好きで、キーウイの大ファンでもあった<ref name="Stuff-20161029"/>。
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メルボルンカップでの劇的な勝利から33年後の2016年に、キーウイの銅像製作が行われた<ref name="Stuff-20161029"/>。製作にあたったのは[[タラナキ地方]]の元外科医で、[[ニュープリマス]]で彫刻家をしているフリチョフ・ハンソン(Fridtjof Hanson)という人物<ref name="Stuff-20161029"/>。ハンソンはオーストラリア出身だが、競馬好きが高じてニュージーランドに移り住んだといい、キーウイの大ファンでもあった<ref name="Stuff-20161029"/>。
  
 
ハンソンは「あらゆる機会にキーウィのメルボルンカップ優勝を祝うべきだ」「Kiwi's cup win should be celebrated at every opportunity」と訴え<ref name="Stuff-20161029"/>、キーウィのメルボルンカップ制覇は国民の誇りであると同時に、ニュージーランドが伝統的に長距離馬を出す特別な馬産地であることを思い起こすべきだとして、銅像製作を思い立ったという<ref name="Stuff-20161029"/>。
 
ハンソンは「あらゆる機会にキーウィのメルボルンカップ優勝を祝うべきだ」「Kiwi's cup win should be celebrated at every opportunity」と訴え<ref name="Stuff-20161029"/>、キーウィのメルボルンカップ制覇は国民の誇りであると同時に、ニュージーランドが伝統的に長距離馬を出す特別な馬産地であることを思い起こすべきだとして、銅像製作を思い立ったという<ref name="Stuff-20161029"/>。

2023年8月18日 (金) 01:30時点における版

冒頭文

キーウイ(英語: Kiwi、1977年10月19日[1] - 1995年2月2日[2])はニュージーランド競走馬で、1983年にニュージーランドウェリントンカップと、「南半球で最も権威のある[3]」と言われるオーストラリアメルボルンカップを勝った。この2大競走を同一年に制したのは歴史上唯一で[4]、しかもメルボルンカップでは最後の直線だけで最後方からの劇的な追い込み勝ちを決め[5][6]、「史上最高の勝利の一つ[7][8]」と評されている。2018年にはニュージーランドの国営放送でテレビ映画化された[9]



※南半球に位置するニュージーランド・オーストラリアは、北半球とは季節が逆転しており、12月から2月にかけてが「夏」になる[10]。このため競馬は真冬に相当する8月1日を境に暦が変わり、たとえば2023年8月1日から2024年7月31日までを「2023/24シーズン」と表現する。馬齢も8月1日に1歳加算される。[10]

概要

血統

父系

ニュージーランドでは、ロイヤルチャージャー系ロイヤルチャージャー(Royal Charger)の直仔、イギリス産のコペンハーゲンⅡ(CopenhagenⅡ)がニュージーランドへ輸出され、1967/68、1969/70、1974/75、1975/76シーズンの4度、ニュージーランドの種牡馬チャンピオンになった[11][12]

本馬の父の父アイリッシュランサー(Irish Lancer)もロイヤルチャージャーの直仔で、2歳時(1959年)にサラトガスペシャル(Saratoga Special S)に勝っている[12]。アイリッシュランサーの全姉のイドゥン(Idun[注 1])は全米3歳牝馬チャンピオンである[12]

父馬のブラーニーキス(Blarney Kiss)はアメリカ産で、北米で36戦11勝をあげ、8万0,161米ドルを稼いだ[13][注 2]。主な勝鞍に1968年のミシガンダービー(Michigan Derby、8.5ハロン≒1710メートル)、フェアモントダービー(Fairmont Derby、8.5ハロン)、ミシガンダービートライアルハンデ(Michigan Derby Trial H、8.0ハロン≒1609メートル)がある[12]

父ブラーニーキスは、1971年にアメリカで種牡馬になり、その初年度産駒が2歳になる1974年にニュージーランドに輸出された[12][注 3](前述の通り、この時点のニュージーランドではコペンハーゲンが2回、種牡馬チャンピオンになっている。)。ニュージーランド北島のワイカト州ケンブリッジで繋養され、1976年の種付料は800NZドルだった[12]。ブラーニーキスがニュージーランドで初供用されてできた最初の世代の産駒は1975/76シーズン生まれで、キーウィの母が1976/77シーズンに種付けされた時点では、まだ産駒はニュージーランドで走っていなかった[12]




[13]

母系

生産関係

  • South Taranaki で生産[8]

Dargaville 在住のBrian Fischer(ブライアン・フィッシャー)。キーウィの生産者。生産地は、Dargavilleの北8kmにあるParore。「伝説的な」( legendary)1983年の優勝馬キーウィの生産者[14]

馬主・調教師

  • 馬主は「Mr & Mrs ES Lupton」(E.S.ラプトン夫妻)[15]
  • 本名は Ewen Sneddon Luptonなのだが、妻のアンによると、若い時分から「Ewen "Snow" Lupton」と呼ばれていたといい、おそらく「Snow」は髪の色がブロンドであることに由来するのではないかという。[17]



  • Anne Lupton[3]
  • スノーの妻[3]
  • アンはダーガビル生産の1歳馬を1000ドルで購入[3]
  • 「キウイ」と命名。のちにそれがニュージーランドの象徴になるとは考えてもいなかった[3]
  • はじめ、キーウィは、Whanganuiの北西にあるSouth TaranakiのWaverleyのラプトンの農場で、羊を集める(round up sheep)のに使われていた。[3]
  • スノー氏は、キーウィにステイヤーとしての資質を見出した。[3]
  • 調教メニューの一環として、「羊を集める(round up sheep)」ことも続けた。[3]
  • 数年後、ラプトンは、1983年1月のトレンサム競馬場のウェリントンカップに登録した。[3]

人物C

戦績

  • 60戦13勝[18]
  • 総獲得賞金(Prizemoney)$ 549,839.00[18]


デビュー前

[17]
  • 妻のアンが、夫のスノーが亡くなったあと2004年に語ったことによると、
  • Kiwiを1000ドルで購入したのはアン
  • キウイが活躍した当時、いくつかのマスコミが、キウイを買った1000ドルは、夫から渡された家計のためのお金( housekeeping money)を使ったものだった、と報じられた。
  • それは間違いで、1000ドルは自分のお金を出したものだと言った。
  • Kiwiという馬名はアンが考えた。夫は最初、その名前はダメだといった。というのは、鳥のキウイは動きが緩慢なので、競走馬の名前にはふさわしくないというのだった。


1980/81(2歳時)

1981/82(3歳時)

1982/83(4歳時)

ウェリントンC

  • Mr & Mrs ES Lupton、JA Cassidy、

3.20.29、調教師はES Lupton[15]

  • 馬主はE.S.ラプトン夫妻、騎手はJ.A.キャシディ、調教師はE.S.ラプトン[15]


  • 数年後、ラプトンは、1983年1月のトレンサム競馬場のウェリントンカップに登録した。[3]
  • 最後方に位置し、最後の直線まで追い出しを待った。[3]


  • ウェリントンカップは、(オークランドCとともに)ニュージーランドを代表するカップ戦。[20]
  • ※「カップ戦」というのは・・・


  • 2着馬Mauritaはマーベラスクラウンの母。Nz Oaks 勝馬。


  • [19]
  • 「a paralysing run from last at the home turn」
  • ウェイバリーの所有・調教のキウイが、最終コーナー最後方からの追い込みで、最後の一完歩で届いてハナ差勝ち。
  • 賞金はオーストラリアドル換算で81,400
  • 2着モリタは、前走までオークランドCを含め3回連続の入着。残り200mの時点では勝利確実と思われたが、残り一完歩で。
  • キウイの馬主、ラプトン家は、among New Zealand's noted racing identities and have been in racing for 100 years.
  • They have had some very good flat horses and jumpers in that time.
  • Mr Ewen Lupton and his wife wace Kiwi, and train the 5YO
  • A slow-maturer, Kiwi was a relatively cheap buy at the Waikato sales.
  • the absence of a noted pacemaker predictabley eneded up with a large number of the field racing too keenly.
  • After Sirtain had worked across from a wide draw to lead, Daisy pulled her way to the front as they went into the back straight.
  • Daisy led down the back by three-quaters of a length from Rama, with Sirtain trailling.
  • Avitt and Mautita were well placed next with Bound to Honour.
  • Clive Comet, Macloud , Speculation, Langeland, Mary Wake, Bold Monarch, Tun Doon, Von Cettes, Magistrate, Peak and Kiwi next in that order.
  • There was not a great deal of change up front at the turn.
  • Sirtain moved through on the inner on straighting to challenge Daisy with Mautita closing fast on the outer.
  • Mautita got the upper hand only to be collared on the post by Kiwi who gained a charmed run through a wall of horses.
  • Daisy was a very good fourth ahead of Bold Monarch.
  • 3YO Australian colt Undaunted Spirit was a late scratching from the Telegraph Handicap, the feature sprint on the Cup Day program.

1983/84(5歳時)

メルボルンC

  • メルボルンカップは世界最大[21]
  • 「国家活動が止まる」と言われる[22]
  • (かつてイギリスではダービー当日は祝日だったが、現在では平日になった。)[22]
  • 英国ダービー(6月第1○曜日 いまはちがう)、ケンタッキーダービー(5月第1土曜日)、メルボルンカップは11月第1火曜日。世界的に有名[22]
  • メルボルンカップの当日、オーストラリアの人は、アメリカ人がケンタッキーダービー当日にそうするように、職場に仮病の電話を入れたり昼休憩を延長したりする。[22]
  • フレミントン競馬場のあるビクトリア州ではメルボルンカップ当日が祝日になっている[22]。(ビクトリア州のほかキャンベラ首都特別地域でも祝日。国内の他地区は「半休日」となっている。)
  • フレミントン競馬場は「洋梨型」と呼ばれる形状で、第3コーナーから第4コーナー(最終コーナー)にかけては連続して一体的になっており、その長さは5.5ハロン(約1106メートル)と、「世界最大のコーナー」になっている。[22]


  • 11月第1火曜日のメルボルンカップデーは、「ニュージーランドとオーストラリアの2カ国が停止する日」[8]
  • 最後方からの追い込みで勝利[8]
  • 残り1200メートルで30馬身差からの逆転劇[8]
  • 史上最高の勝利の一つ[8]
  • 出走馬は24頭[8]
  • 毎年「春」(11月)のメルボルンカップが近づくと、キーウィの話題で盛り上がる[8]


  • 毎年のメルボルンカップの金製優勝杯は、事前にオーストラリアとニュージーランドの各地でお披露目される。2012年には、ニュージーランドのDargavilleで公開された。[14]
  • Dargaville 在住のBrian Fischer(ブライアン・フィッシャー)が招かれた。キーウィの生産者。生産地は、Dargavilleの北8kmにあるParore。「伝説的な」( legendary)1983年の優勝馬キーウィの生産者[14]


  • 1983年の第123回メルボルンC[3]
  • オッズは10 to 1[3]
  • 南半球で最も権威のあるレース[3]
  • 誰もが欲しがる優勝杯[3]
  • 騙馬キーウィが目覚ましい勝利[3]
  • 11月第1火曜日のメルボルンカップは、「国が5分間停止する」と言われる[3]
  • 2200メートル地点=ゴールまで残り1000メートルで、キーウィは最後方にいた。[3]
  • ニュージーランドの騎手ジム・キャシディに導かれ、そこから22頭を抜き去り、外へ持ち出して、1馬身差で勝利。[3] ※1頭は故障で脱落
  • 最後方からの「 breath-taking burst 」息を呑むばかりの豪脚[3]
  • 最後の直線でのキーウィがあまりにも素早かったので、実況はキーウィを決勝線寸前まで気がつかず、「and here comes Kiwi out of the blue!」と叫ぶことしかできなかった。[3]
  • 「Who would have thought? 」誰がキウイの優勝を予想しただろうか?[3]
  • レース直後のインタビューで、馬主・調教師のEwen "Snow" Lupton ですら、「私はふだんからあんまり馬券を買わないけども、今日はキーウィに1ペニーも賭けていなかったよ」と認めた。[3]
  • (たぶん2017年時点で)63歳の彼は、「私の人生でもっともスリリングなときだった」と述懐する。[3]
  • キーウィの勝利は「ニュージーランド人の誇りの源泉」(source of great New Zealand pride)[3]


  • 1983年後半(※10/19)、ハウェラ競馬場(Hawera)のエグモントC(Egmont Cup、2100m)に勝ち、調子があがっていた。[3]
  • ウェリントンカップ(3200m)で勝ったあと、ラプトンは、もっと大きな野望を抱いた。[3]
  • 同一年に、ウェリントンCかオークランドCと、メルボルンCの二冠を取った馬は史上初にして(現在)唯一で、「歴史を作った(history in the making)」(the first and only horse)[3] ※2017年現在
  • キーウィは、ニュージーランドから、オーストラリアのレースに一度も出走しないまま、メルボルンカップに直行した。[3]
  • そんなことは前代未聞で、オーストラリア最大の行事であるメルボルンカップに対す不敬(sacrilegious)だとまで言う者もいた。[3]
  • メルボルンカップに出走する他馬は、ブリンカーを着用したり、シャドーロールを試したりして、本番に向けた様々なトレーニングを積んでいた。一方キウイはその間、メルボルンから南に1時間半のMornington Peninsula(モーニントン半島)の農場で、故郷にいつときと同じように、牛や羊にまじってリラックスしていた。そして牧草地で軽い運動をしたり、農場を何周かしたりしていた。[3]


  • 1983年のメルボルンカップでのキウイの優勝は、テレビの生中継によって、NZでのメルボルンCの知名度を高めた。[7]
  • ゴール寸前まで、実況者はキウイのことをほとんど喋らなかった。[7]
  • ゴールが目前になったあたりで、実況者は「and here comes Kiwi out of the blue」(キーウイが突然やってきた)と叫んだ。これはメルボルンC史上、最高のゴールの一つ(one of the greatest-ever finishes in the history of the Cup)[7]
  • 騎手はニュージーランド人のジム・キャシディ。[7]
  • 調教はウェイバリーのSnowy Lupton。
  • 1000ドルで同馬を買った時点では、まさかメルボルンCに出走することになるとは考えてもおらず、主に牧場で羊を集める(to round up sheep on the farm)のに使役されていた。[7]
論文
  • [16]
  • 「A Social and Cultural History of the New Zealand Horse」(ニュージーランドの馬事文化史)
  • Carolyn Jean Mincham、2008
  • NZアルバニーのマッセー大学の思想史教授(Doctor of Philosophy in History)
  • ニュージーランド人とオーストラリア人は、サラブレッドの生産と競馬を通じて、繋がりがある。
  • Snow Luptonは、1983年のメルボルンCの覇者キウイの馬主・調教師。
  • ラプトン家は、古くからの馬産一家で、スノーもその伝統に影響されたと云われている。
  • 競馬記者のPeter Hiltonによると、ラプトン家の競馬の伝統は、スノーの祖父、Isaac Luptonによって築かれた。この人物は、New Zealand War(en:New Zealand Warsニュージーランドの歴史#マオリ戦争参照、(1845-1872、マオリ族との戦争)世界大百科事典ではマオリ戦争)への貢献によって、Wanganuiに土地を得た。<出典はDianne Haworthの「Give a Man a Horse」2007、p17>
  • オーストラリアの最良の馬たちあいてにキウイが勝ったのは、キウイのつつましいい出自により、とても劇的なものだった。
  • ラプトンは相馬眼があり、キウイをたった1000ドルで買った。
  • 自分の農場で、羊を集めるのに使いながら調教した。
  • 描写されている。Max Lambert著の「November Gold:New Zealand's Quest for the Melbourne Cup」(1986)に。
  • 同書で次のようにオーストラリアのコメンテーターの言葉が引用されている。
  • For them it is all take and no give. Apparently devoid of shame or even British Empire loyalist sentiments, they come to our shores, but briefly, each year in springtime. They bring with them horses of uncommon plainness and curious breeding who tend to reside in their homeland upon dairy farms and kiwifruit plantation.
  • 彼らは、奪うだけで何も与えなかった。 彼らには、大英帝国の信奉者らしい感情も恥の概念もなく、毎年春になると海岸にやってきた。彼らは、好奇心旺盛な珍しい品種の馬を連れてきて、酪農場やキウイフルーツのプランテーションをつくった。
  • この記述は、農場で働くものは、とんでもなく高いお金を払ってオーストラレシア(オーストラリアではなく)馬を飼うことに、ニュージーランドの人々が夢中になった。

egalitarian quality 平等主義の資質

  • ニュージーランドでは、つつましやかな平凡な農夫でも馬を1頭ぐらい育てることができて、それが南半球最大のレースに勝つこともある。そういうことが、ニュージーランド民に夢をあたえる。




オーストラリア競馬史1983
  • [5]
  • 11月の第1火曜
  • キウイが劇的な勝利を収めた。[5]
  • 「あまりに劇的だったので、記者たちはそれを形容するのにふさわしい派手な言葉をなかなか見つけられなかった。」[5]
  • ジム・キャシディの騎乗は、「恐ろしいほど落ち着き払った」ものだった。[5]
  • 「レースがメルボルンではなくシドニーで行われ、キウイが負けでもしていたら、キャシディの人生は生きるに値しないものになっていたにちがいない。」[5] ※意味わからん
  • 「最後方から息長い追い込みで勝利をもぎとったキウイのレースが、カップ史上最もエキサイティングなもののひとつであるのは、だれもが認めるところだった。」[5]
  • あとになって思えば、ニュージーランド人の馬主兼調教師のユーイン(スノウ)・ラプトンも騎手も、馬の力を最大限引き出す術をしっかり理解していた[5]
Letsgohorseracing
  • [6]
  • 「the race that stops the nation 」
  • For sheer amazement Kiwi's victory in 1983 had to be seen to be believed. After trailing most runners into the long Flemington straight, Kiwi - ridden by a youthful Jim Cassidy - produced a devastating run to beat all comers to the line. His trainer Snowy Lupton from New Zealand openly admitted he used Kiwi to ‘round up the sheep’ when the horse was out spelling. At least he stayed fit.
  • 1983年のキウイの勝利は、まったくの驚き(sheer amazement)だった。
  • 最後の直線で他馬をゴボウ抜きにした。
  • 調教師のスノーウィ・ラプトンは、キウイを「round up the sheep」に使っていることを大っぴらに認めた。


[17]
  • 1983年のメルボルンCのことで、アンがいちばん印象に残っているのは、厩舎の助手をしていた Graham (Shorty) Hareのことだった。「Shorty Hareは、just about threw me off the grandstand」(意味がよくわからない。Throw offで「うろたえさせる」「追っ手から振り払う」などの意味になる)
  • 南TarakaniのWanganui近郊のWaverley出身の農家夫婦にとって、観客席の大観衆は、慣れないもの(something unfamiliar)だった。
  • アンによると、スノーは「砂利のような/イライラさせるような声」(gravel voice)の持ち主で、いつも話すのがゆっくりで、物事に動じないタイプだったという。だからメルボルンカップを勝ったときも、アンは夫のその性格を案じたのだという。メルボルンカップ当日の夜は、優勝馬関係者を招聘しての盛大な行事をやる慣わしになっており、レース直後、ひとまずアンだけが会場に向かい、夫のスノーはキウイを連れて厩舎に戻ったのだが、スノーは「必ず会場に行く」と約束したのに、待ってもスノーは会場に現れなかった。アンは、スノーが寝てしまったのではないかと心配したという。[17]
  • ウェイバリーでは、息子のWarwick(ワーウィック?ウォリック?)が祝勝会をあげていたのだが、徹夜で飲み明かした挙げ句、ホテルの階段で転倒し、脚を4箇所骨折した。[17]



個人サイト

  • [23]
  • 1983最後方からの追い込み勝ち
  • カップの前1ヶ月は出走しておらず、普通ではないトレーニングをしていた。そのため、ブックメーカーはこの馬の力が未知だった。
  • 調教師は、馬の健康を維持するために、羊を集めることを中心とした調教メニューを組んでいた。これはまるで植民地時代のスピリットのようだ。
  • 残り600で最後方
  • 残り300まで先頭はChiamare (チアマーレ)
  • Noble Comment(ノーブルコメント)とMr.Jazz(ミスタージャズ)が先頭にかわり、キウイはジグザグに走って、古典的なステイヤーらしく大きなストライドで、先頭に追いすがった。
  • 残り150で、キウイは尻尾を振り、キャシディは馬群を縫うようにして進み、5完歩でノーブルコメントとミスタージャズをかわしさり、優勝。
  • 観客は唖然として沈黙した。
  • 現代のレースのなかでおそらく最も番狂わせの勝利のひとつ「probably one of the most amazing wins 」

1984/85(6歳時)

1984年のオーストラリア競馬界は不正に揺れていた

  • オーストラリアでは、1980年代から競馬に関する犯罪・事件が相次いだ。[24]
  • シドニーでは、八百長に関連して、犯罪者と多数の騎手や調教師、厩務員が、不正薬物投与や恐喝に関わっていた[25]。彼らは他州の競馬にも手を出していた[26]
  • 騎手たちが、不正な意図で馬が能力を発揮できないような騎乗をするのを監視するため、競馬場に多数のカメラが設置された。[26]。これらは騎乗中の騎手の「顔がぴくつくのまで映っている[26]」ものだった。
  • 1983年の調査では、不法なノミ屋の売上が、ヴィクトリア州だけで年10億ドル以上になると報告されている。[27]。これを受けて州政府は競馬の国営化の検討を始めたが、そのうち立ち消えになった。[27]
  • 1984年1月のドゥームベン競馬場(ブリスベン)で不正薬物投与事件があった。これがきっかけになって、数々の不正が明るみに出た。[28]
  • 他地区で凡走を続けてきた馬が、ドゥームベンに転戦してきた途端に「信じられないほど」走ることがあり、事情を知らないブックメーカーのところで、なぜかその馬に不自然な多額の金が賭けられる、ということが起きるのだった。[29]
  • 同年3月末の土曜日、ドゥームベンの人気薄の馬の馬券が、なぜかニューサウスウェルズ州ヴォロゴングで売れ、ブックメーカーは15倍だった倍率を5倍にまで下げた。ブリスベンでも13倍から9倍に下がるまで売れた。実際のレースではその馬は殿負けをした。翌月曜日、同馬の調教師の惨殺死体がヴォロゴング近郊で発見された。両膝が折られ、左腕は背中までねじ上げられて骨折し、右腕は酷く砕かれ、死ぬまで殴打されたうえガソリンをかけて燃やされていた。同馬の騎手のところには「次はお前の番だ」という電話がかかってきて、恐怖にかられた騎手はただちに失踪した。この事件は未解決となった。[29]
  • 8月18日には替え玉事件が起きた。田舎でひどい成績しか残していないファインコットンという8歳騙馬(※『オーストラリア競馬史』は1993年の刊行なので、馬齢の数え方が現在とは異なり、同書では「9歳」と記されている。)の単勝が、何故か飛ぶように売れた。この「老いぼれ馬」に賭けられた額は推定総額は200万ドルと見積もられている。審判と裁決委員は、なにかが行われていると考え、わずかな不正も見逃さないと徹底的な監視を行った。だがレース中は何もおかしなところはないようにみえ、この9歳馬が1位でゴールした。ただちに審判団は調教師のところに出向き、確認のためこの9歳騙馬の書類を出せといったところ、書類を用意すると言ったまま姿をくらました。実際には別の馬とすり替えられていたのだった。審判団は調教師が戻るのを40分待ち、戻らないのでこの馬を失格処分とした。これにより同馬に賭けられた200万ドルは馬券を売った者の懐に入ることになった。警察がこの調教師の行方を追ったものの見つからなかった。ところが突然テレビ番組に出演し、替え玉に協力しなければ家族も含めて皆殺しにすると脅迫されていた、と暴露した。拳銃を突きつけられて、3月に殺害された調教師のようになりたいかと迫られたという。この事件は国内で大きな話題となり、カトリック神父がこの馬に賭けていたことまで報じられた。数年後に、ブックメーカー最大手のビル・ウォーターハウス(en:Bill Waterhouse)の経営者が関与したとして免許を剥奪された。しかし刑事裁判では無罪を主張した。(出典では「係争中」)(ファインコットン事件(en:Fine Cotton)少なくとも、1月の不正薬物投与事件、3月の調教師殺害、8月の替え玉事件の背後には、同一グループがいるように思われたが、真相はわからないままだった。[29]
  • ファインコットン事件の1週間後には、騎手(en:Malcolm Johnston (jockey))が4人組の男に鉄パイプで襲われ重傷を負う事件が起きたが、これも未解決になった。[29]
  • この年の後半、2500勝をあげて前年に引退したロイ・ヒギンズ騎手(en:Roy Higgins (jockey))が出版した回顧録のなかで、若い頃に八百長を強いられたと書いた。これは競馬の運営会社役員たちを激怒させた。[29]

メルボルンカップの取消騒動

  • 1984年のメルボルンCでは、キウイをめぐって不公正なことがあったとして物議を醸した。[3]
  • オーストラリアではもともとブックメーカーが自由に馬券発売をしていたが、1910年代にランドウィック競馬場でパリミチュエル方式を導入、1960年代に入るとビクトリア州では馬券発売をする公社を発足した。しかしブックメーカーも引き続き存在した。1984年にはビクトリア州都メルボルンで最初のブックメーカー店が開業、これが急速に全国に広がった。これは非合法のもので、取締も行われたものの全く効果がなかった。[30]


  • ウェリントンカップとオークランドカップが2大レース。ともに1874年創設。[31]
  • ニュージーランド産馬はスタミナに優れる。[31]


  • 『オーストラリア競馬史』
  • VRCの裁決委員長を務めていたパット・レイラという人物がいる。 ブリスベンのギャバン・ダフィー(Gavan Duffy)という若手騎手が、レスター・ピゴットやイヴ・サンマルタンに倣い、鐙を短くして乗る騎乗スタイルを取り入れた。(ダフィーはイギリスで修行をした。)ダフィーはブリスベンでリーディングジョッキーを2回とるほどになった。ところがダフィーがビクトリア州に遠征すると、VRCの裁決委員長のレイラが、そんな騎乗方法は認めないと言い、戒告を与えた。他州のトップジョッキーに何を言っているんだと言う意見も出て、世論は二分されたが、ダフィー騎手は裁決委員に従わざるを得ず、「ビクトリア州の競馬は石器時代だ」と捨て台詞を言ってビクトリア州から去った。[29]
  • オーストラリア調教師会のヴィクトリア州支部長を務めるボブ・ホイステッド(en:Bob Hoysted)という調教師がいる。ホイステッドは、「きちんとした教育を受けた調教師ならだれもが」やるように、レースの直前に出走馬に排尿させて膀胱を空にするのを常としていた(経験と運動生理学とに基づいた見解)。ふつう、ウマは(地面が硬いと尿が脚に跳ね返って嫌がるため)藁に排尿をするので、いつもは藁が敷いてあるドーピング検査用の馬房を使っていた。ところがある日、ムーニーヴァレー競馬場でいつものように管理馬リヴァーラフに排尿させようとすると、係員が最近規則が変わったと言って馬房に入れるのを拒んだ。リヴァーラフは厩舎のなかでは短距離最強の馬で、7分後に迫った次のレースの大本命になっていた。ホイステッドは、馬房を使わせないなら出走を取り消すと脅したところ、裁決委員長のパット・レイラはホイステッドの馬を出走取消にしたうえ、5,000ドルの罰金を命じた。この罰金の額はビクトリア州の罰金額のレコードになるほど「法外」なものだったし、レース直前に大本命が取消になって、馬券売り場は大混乱に陥った。ホイステッドは罰金の支払いを拒み、州の調教師たちもホイステッドに同調してVRCに不服申立てをした。これは裁判に発展し、ホイステッドが勝訴した。マスコミと世間は、馬のおしっこにまつわる「くだらない騒ぎ」がエスカレートして裁判になったことを面白がって報じた。(リヴァーラフ事件)


  • まもなく、1984年のメルボルンカップが近づいた。[32]
  • まず、「連覇を目指すキウイがニュージーランドで調教中に怪我をした」という情報が流れた。[32]
  • だが、キウイはメルボルンカップの5日前に飛行機でやってきた。[32]
  • 多数のマスコミが空港に押し寄せた。この時点では、メルボルンカップの主催者側も、無料でレースの宣伝になると、ほくそ笑んでいた。[32]
  • 馬主兼調教師のラプトンも、報道陣にキウイの状態に太鼓判を押し、いい勝負になると断言した。[32]
  • キウイは、その劇的な追い込みで、オーストラリア国民にも多大な人気があった。[32]
  • VRC裁決委員長のパット・レイラは、キウイの状態を確認させるとして、VRCの獣医3名(ジョン・パーク、ジェフ・ハザード、ビル・リッチーズ)を派遣した。
  • メルボルンカップの前日になって、この獣医師団は、キウイの状態は出走に耐えるものではないと診断を下した。
  • これを受け、パット・レイラはキウイの出走を取り消した。
  • レース前日の一方的な取り消して、物静かで穏やかなスノー・ラプトンも、さすがに怒りを隠さなかった。
  • それ以上に、ニュージーランド国民と、キウイに賭けていたファン(特に早売り馬券を勝っていた熱心なファン)が声を上げた。
  • たとえば「オーストラリアの腰抜けどもはまたキウイに勝たれるのが怖くて、夜もおちおち眠れなかったのさ。だから取り消したんだ。」
  • ブックメーカーが裏で手を回しているという声もあった。
  • この騒ぎにより、キウイは過去10年のメルボルンカップ出走馬のなかでもっとも大衆に人気を博している馬だった、ということがわかった。
  • その馬を締め出したことでVRCに対する批難が巻き起こり、これは結局、主催者のVRCにとっての大きな痛手となった。
  • まもなく、キウイの取り消しの決定を下したのが、あのパット・レイラだ、という情報が出回ると、パット・レイラは「南半球でいちばんの嫌われ者」と化した。
  • スノー・ラプトンは、キウイは「鋼鉄の馬」であり、状態は完璧だったと主張した。
  • レイラは、診断を下したのは3名の獣医団であって自分ではないと弁明し、診断が出た以上は出走させるわけにはいかない、自分は間違っていないと「シドニー・ヘラルド」紙に主張した。




[17]
  • 1984年の取り消し騒動では、獣医がキウイにひっかき傷があるとして、出走取消判断をした。[17]
  • これについてスノーは、何年ものあいだ、不満を述べていた。[17]
  • スノーは、キウイの脚全体をスキャン(詳しく調べた)したけども、何の問題もなかったと言っていたという。[17] ※1984年なので、scanはCTスキャンの意味ではないと思う
  • 獣医たちは、キウイに徹底的な検査(stringent examination)を強いたと考えられていて、ニュージーランドの調教師ケヴィン・マイヤー(Kevin Myers)に云わせれば、「even Phar Lap in the museum would have flinched」(博物館に(骨格標本となって)いるファーラップ(ニュージーランドの伝説的名馬)でも縮み上がるだろうさ)と評した。
  • ニュージーランドのマスコミは、この「ひっかき傷」について、あの悪名高い1981年のクリケットのワールドシリーズ決勝でのオーストラリア対ニュージーランドで起きた事件(オーストラリア代表が非紳士的行為をやって大問題になったen:Underarm bowling incident of 1981ボウリング_(クリケット)#現代の下手投げボウリング)と同じことが起きたと騒ぎ立てた。
  • ※オセアニアで最も人気があるスポーツの一つ、クリケットのワールドシリーズ(en:1980–81 Australia Tri-Nation Series)の決勝戦(オーストラリア代表対ニュージーランド代表)で、1981年2月1日に起きた事件。試合の最終盤、あと1打を残した状況で、僅差で勝っているオーストラリア側は、ニュージーランドへの非紳士的プレーを行った。これは当時のルールには抵触しなかったものの伝統的フェアプレー精神には反したもので、騒動に発展し、世界のルール改正に繋がった。(クリケットは野球に似たスポーツで、投げた球を打ち返し、その打球の行方によって点数が決まる。所定の飛距離をクリアすると最大で6点が入る。もしもNZに6点入ると土壇場で同点になってしまう。このときAUSとNZは1勝1敗だった。そこでAUSは、6点入るような打球が絶対に出ないように、投球時に下手投げ(underarm)をやって、ボールを地面を転がした。)
  • スノーは落胆した様子だったが、あまり反抗的な攻撃は口にしなかった。アンは、それがスノーらしいと感じている。

ジャパンカップで来日

キーウイはこのあと、日本中央競馬会(JRA)から11月25日に東京競馬場で行われるジャパンカップへの招待を受け、出走するため来日した。

ジャパンカップは当時創設4年目、過去3回はいずれも外国馬の「二流馬」が日本の超一流馬に圧勝する結果となっていたものの、この年は日本馬の勝利の期待が大きかった。というのも、前年に史上3頭目の三冠馬となり前走天皇賞(秋)を勝ったミスターシービーと、当年に史上初の無敗の三冠を達成したばかりのシンボリルドルフが揃って出走してきたからである。

1番人気はミスターシービーで、前年に三冠制覇を達成したあと1年を休養にあて、今秋復帰、前走天皇賞(秋)を勝って臨んできた。とはいえ「能力以上の人気[33]」の面もあった。2番人気になったのは英国・ハリファックス伯爵の(3rd Earl of Halifax)所有のベッドタイムで[34]、G1出走歴はないもののフランスとイギリスでG3を3連勝中[34]。3番人気のアメリカ馬マジェスティーズプリンスは、北米でG1レースを4つ勝っており、東京競馬場のような広く直線の長いコースを得意としていた[35]

ところが、勝ったのは10番人気の日本馬カツラギエースだった[36]。大本命のミスターシービーと3番人気のマジェスティーズプリンスが後方からの追い込みタイプなのに対し、カツラギエースは逃げるタイプで、ほかの人気馬も後方にいるうちにリードを広げ、終わってみれば2分26秒3の好タイムで逃げ切ってしまった[33]。2着、3着、4着はアタマ差、ハナ差の大接戦で、ベッドタイム、シンボリルドルフと猛然と追い込んだマジェスティーズプリンスがはいった。しかし同じ追込み馬のバウンティーホーク(8番人気)は8着に終わり、ミスターシービーに至っては10着に沈んだ。そんななか、キーウイは同じように追い込んで6着に入った[33]。競馬評論家で「全日本フリーハンデ」を主宰する山野浩一は、キーウイについて、ウェリントンカップ、メルボルンカップについで「三度目の好走」と評したものの、「能力的に6着が精一杯ではないか」とした[37]


山野はこの年の古馬部門のフリーハンデで、キーウイを2400メートル部門の「120点(65.5キログラム相当)」とし、1984年に日本で走った古馬のなかで10位に評価した。[38]

このフリーハンデでは、ジャパンカップを人気薄で逃げ切ったカツラギエースが2位(2400メートルで130点・73キログラム相当)、2着だったイギリスのベッドタイムが3位(2400メートル部門128点・72キログラム相当)で、4着に終わったカナダのマジェスティーズプリンスが首位132点(74キログラム相当)だった。2着のシンボリルドルフは3歳馬部門の首位(128点・72キログラム相当)、5着のウインは6位(126点・71キログラム相当)で、着順ではキウイより下だったバウンティホークとミスターシービーも評価はキウイより高く、ミスターシービーが120点(68キログラム相当)と、キウイよりも5点差とした。[38]


[39]

  • 大将格は北米でG1を6つ勝っているマジェスティーズプリンス(アメリカではジョンヘンリーと並んでビッグ2)
  • マンハッタンH優勝馬のウイン
  • 騙馬なのでG1には出走できないがG3を4連勝中(?)のベッドタイム
  • 前回のJC3着エスプリデュノール(1983の全欧FHでは中距離のトップクラス)
  • オーストラリアのトップから欧州に転戦してドイツバーデン大賞を勝ったストロベリーロード
  • ルドルフ
  • シービー
  • チュウオーリーガルは招待していたがレース3日前の追い切りで骨折
  • 本賞金7500万
  • 馬体重464
  • 2:26.9 11番人気
  • カツラギエースの逃げは、前半800の平均ラップが12.35、中盤の800 の平均が12.25。「逃げ馬としては申し分のないペース配分」
  • それでラスト4F47.4、3F35.5で、「追い込み馬では差しきることができない」展開

1985/86(7歳時)

  • 1985年のメルボルンCでは、5着。[3]

1986/87(8歳時)

  • 1986年のメルボルンCでは、決勝線手前で跛行した。[3]
  • その一ヶ月後の(※注 これは間違いで、実際は1984年のJC)ジャパンカップで輝かしい5着になった(※注 これは間違いで、実際は6着)[3]
  • 戦績は生涯13勝、獲得賞金はニュージーランドドルで50万ドル、うち31万ドルはメルボルンC優勝によるもの。[3]

戦績表

年度 西暦 地区 競馬場 レース 総賞金 距離 騎手 Wgt 着順 獲得
賞金
time 勝馬-着差/(着差-2着)
80/81 1980 12 23 NZ Wang MDN 001,100 1320 soft 16 D.D.Moseley 54.0 2 000.220 Tamisar - 2
1981 01 01 Strt MDN 001,300 1200 good 16 D.D.Moseley 55.0 1 000.900 1:12.6 1 1/2 - Theresa's Pal
01 24 Well CS 003,200 1400 good 08 D.D.Moseley 54.5 6 000.000 Tohar
02 07 Wang 1-2 wins 002,200 1320 soft 13 D.D.Moseley 50.5 3 000.220 Miss Carioca
81/82 08 14 Tara 1-2 wins 001,830 1200 soft 14 J.A.Cassidy 53.5 2 000.390 Labelled Urgent - 1 3/4
08 28 Wang 1 wins 002,000 1320 soft 16 J.A.Cassidy 54.5 2 000.400 Redsidia - 3/4
10 3 Egmn 1 wins 002,200 1600 good 14 J.A.Cassidy 55.5 1 001,430 1:41.4 クビ - Skyward
10 14 Wave 1-3 wins 002,100 1400 good 11 J.A.Cassidy 55.0 3 000.210 Pro Royale
11 21 Wang 1-2 wins 002,500 1600 good 15 J.A.Cassidy 55.0 5 000.000 Papabois
1982 04 07 Wave C4 002,650 2175 soft 16 J.A.Cassidy 56.5 4 000.125 Nukumai
04 21 Otak C3 002,700 2000 good 13 J.A.Cassidy 52.0 5 000.000 Dollar Vision
05 01 Well C3 004,600 2000 heavy 16 D.J.Withington 50.0 3 000.460 Passion's Pride
05 12 Mtu C4 002,200 2200 soft 17 J.A.Cassidy 54.5 1 001,430 2:12.2 クビ - Noble Star
05 26 Egmn C2 003,000 2100 heavy 13 J.A.Cassidy 52.5 2 000.600 All Sevens -
(citeの着差欄が不明瞭
「LEN=1馬身?」)
82/83 09 15 Hawk C3 002,600 2000 soft 12 J.A.Cassidy 55.0 1 001,690 2:07.56 1/2 - Adriano
10 06 Mtu C3 003,100 2200 soft 14 J.A.Cassidy 57.5 1 002,000 2:22.9 1/2 - Tomatin Purple
10 13 Wave C1 010,200 2175 good 10 J.A.Cassidy 54.0 1 006,700 2:17.4 3 - Princess Dan
10 30 Mtu C1 008,250 2200 soft 14 J.A.Cassidy 55.5 9 000.000 Tredici
11 13 Wodv C1 008,275 2000 soft 14 J.W.Walker 55.0 12 000.000 Athams
1983 01 01 Wair C1 008,500 2200 good 10 J.W.Walker 54.0 4 000.000 Peak
01 08 Phrc C1 017,000 2200 good 12 J.A.Cassidy 51.5 3 001,700 Peak
01 22 Well CUP 110,000 3200 good 17 J.A.Cassidy 50.5 1 068,750 3:20.29 ハナ - Maurita
01 29 Well WFA 015,000 2400 good 09 J.A.Cassidy 59.0 6 000.000 Bound to Honour
03 05 Well C1 020,000 2200 good 18 J.A.Cassidy 59.0 11 000.000 Elmar
83/84 08 20 Foxt C1 006,250 2000 soft 14 Noel Harris 58.0 5 000.000 Tredici
09 03 Wang C1 005,000 2000 good 13 Noel Harris 56.0 1 003,250 long neck - Nukumai
09 17 Hawk C1 012,000 2000 good 11 J.A.Cassidy 55.5 3 001,200 Daisy
09 17 Hawk C1 012,000 2000 good 11 J.A.Cassidy 55.5 3 001,200 Daisy
10 08 Wair C1 012,000 2200 good 13 J.A.Cassidy 57.0 5 000.000 Fountaincourt
10 19 Egmn C1 005,000 2100 good 13 J.A.Cassidy 57.0 1 003,250 1 1/4 - Emphatic

引退後

キーウイは1987年1月の出走を最後に現役を退いた。戦績はニュージーランド、オーストラリア、日本で通算60戦13勝[18]、総賞金は50万0,839ニュージーランドドル以上[8][注 4]

引退後はラプトンの農場で余生を過ごし[3]、1995年2月2日に馬房内で死亡しているところを発見された[2]。17歳だった[2]。発見したスノー・ラプトンは、「最近、肺にわずかに鬱血があったけども、体調は良かったんだ。」といい、自然死だったという[2]。遺体は農場に埋葬された[3][17]

墓碑が設けられたが、そこにはただ「キーウィ、1983年メルボルンカップ」(Kiwi, 1983 Melbourne Cup)とのみ刻まれた[3][17]。のちに、スノー・ラプトンが死去したあと妻のアンが語ったところによると、この墓碑銘には、いかにも口数の少なかったスノーらしさがでている、と評し[17]、「ただキウイとだけ書いてあればそれで十分だったと思うわ」(If it had just Kiwi written on it, he would have been happy[17])と語った。

このほかウェイバリー競馬場にもキウイを讃えた記念プレート(plaque)が設置されている[3]

スノー・ラプトンは、70歳ごろから肺気腫を患い、2001年12月に84歳でハウェラの病院で息を引き取った[3]。アンは75歳まで生き、2008年に亡くなった[3]。遺灰は農場に撒かれ、農場は息子が後を継いだ[17]

評価

  • 「Legendary galloper」[8]


  • デイリーレーシングフォームのアラン・シューバック(Alan Shuback)は、自著『グローバルレーシング』(2010年)のなかで、資源が乏しく競馬の賞金も低いニュージランドの生産馬を「小さなキウイ」(鳥)、オーストラリア産馬を「大きなカンガルー」に譬え、伝統的に長距離重視のニュージーランドの生産馬がしばしば、オーストラリア最大のメルボルンカップ(長距離戦)で勝っていることを指摘している[40]。(2007年時点では、メルボルンカップはドバイワールドカップなどドバイの3レースに続いて、世界4位の高額賞金競走[41]。)

文化

機関車の愛称に採用

2012年に、オーストラリアのCFCL鉄道English版に新型のディーゼル機関車C44aci型(en:UGL Rail C44aci)2輌が納品された[42]。同社では機関車の「馬力」の象徴として1輌づつ競走馬の名前からとった愛称をつけていて、今回納入された2輌、CF4405号機には1980年のメルボルンカップ優勝馬「ベルデールボール」(Beldale Ball)、CF4406号機には「キウイ」(Kiwi)と命名された[42]

銅像の建立

メルボルンカップでの劇的な勝利から33年後の2016年に、キーウイの銅像製作が行われた[8]。製作にあたったのはタラナキ地方の元外科医で、ニュープリマスで彫刻家をしているフリチョフ・ハンソン(Fridtjof Hanson)という人物[8]。ハンソンはオーストラリア出身だが、競馬好きが高じてニュージーランドに移り住んだといい、キーウイの大ファンでもあった[8]

ハンソンは「あらゆる機会にキーウィのメルボルンカップ優勝を祝うべきだ」「Kiwi's cup win should be celebrated at every opportunity」と訴え[8]、キーウィのメルボルンカップ制覇は国民の誇りであると同時に、ニュージーランドが伝統的に長距離馬を出す特別な馬産地であることを思い起こすべきだとして、銅像製作を思い立ったという[8]

ハンソンはひと冬を費やし、キャシディ騎手を鞍上に全力疾走しているキーウイ像の原型を粘土でつくりあげると、ブロンズに鋳造するためマートン(Marton)の鋳物工場へ持ち込んだ[8][4]。銅像はいくつかの部品に分割されていて、ハンソンによると騎手が乗った状態を表現するのが難所だったという。というのも、競馬の騎手は両足をに乗せているだけなので、そのまま造形すると「鐙」が「騎手」の重量を支えきれない。そこで、「騎手」の「ブーツ」部分を別部品として、「ブーツ」を馬本体の側面に溶接し、その上に「騎手」を乗せることにした[4]。台座は、アカシアのなかで「材面の最も美しいものの一つ[43]」と呼ばれる「タスマニアンブラックウッド」(Tasmanian Black Wood)製で、重さは11キログラムある[8]

ウェイバリーの町は、公費から銅像製作費として補助金155,000ニュージーランドドルを支弁することを決定[4]、2022年10月中旬の時点で完成間近と伝えられる[4]

映画化

2018年に、キーウイの物語が90分[44]で映画化され、国営放送のテレビジョン・ニュージーランドで放映された[9]

NZオンエアー社(en:NZ On Air)が製作費用として300万ニュージーランドドルを供出した[9]。この費用の大半は、ウマの登場シーンに費やされたという[9]。製作総指揮(executive producer)はシャーロット・パーディ(Charlotte Purdy)[9]。プロデューサーはデボラ・コープ(Deborah Cope)とカーメン・J・レオナード(Carmen J. Leonard)[45]

監督はトマス・ロビンス(Thomas Robins)といい[9]、『ロード・オブ・ザ・リング三部作』(2001-2003年)で「デアゴル」(Déagol[注 5]を演じていた人物[46]。脚本はジョン・バナス(John Banas)[47]、撮影監督はデヴィッド・ポール(David Paul)[45]

馬主兼調教師のスノー・ラプトン役はニック・ブレイク(Nick Blake)で[9]、映画『ホビット三部作』(2012-2014年)で湖の街エスガロスの門番役[45][注 6]。妻のアン・ラプトン役はアリソン・ブルース(Alison Bruce)、主戦騎手のジミー・キャシディ役にパトリック・キャロル(Patrick Carroll)[9]

映画の冒頭、1983年当時の状況として、(ニュージーランドの食肉大手の)Patea Freezing Works社の工場が不況で閉鎖になり、「ウェイバリーの町はどん底にあった」(town of Waverley is reeling)と背景が語られる[48]。その頃、ジミー・キャシディは高校卒業を控えた18歳で、教師から、才能のあるラグビーの道へ進むか、馬乗りになるかの選択を迫られる[48]

この作品は、2018年のニュージーランド撮影監督協会(New Zealand Cinematographers Society)で撮影のデヴィッド・ポールが銀賞(Silver Award)を受賞[49]、2019年ニュージーランドTVアワード(New Zealand television awards)で最優秀長編ドラマ賞(Best Feature Drama)にノミネートされた[48]


X

2

  • 引退後はラプトンの農場で余生を過ごした。[3]
  • 1995年に死亡し、農場に埋葬された。[3]
  • 墓碑にはただ「Kiwi, 1983 Melbourne Cup」(キーウィ、1983年メルボルンカップ)とのみ記されている。[3]
  • ウェイバリー競馬場にも、記念のplaque(飾り額、記念盾)が掲示されている。[3]
  • スノー・ラプトンは2001年12月に84歳で逝去、アンは2008年に75歳で逝去。[3]
  • スノーは84歳でHaweraの病院で逝去[17]
  • 15年ほど肺気腫を患ったあとだった。[17]
  • 農場は息子が後を継ぎ、遺灰は農場に撒かれた。[17]


  • キウイは1995年に死に、農場に埋葬した。[17]
  • 墓石には「Kiwi, 1983 Melbourne Cup」と刻まれた。[17]
  • アンは、その墓碑は「夫らしい」と言っている。[17]
  • アンによれば、夫のスノーは口数の少ないひと(non-fuss fellow)で、「ただキウイとだけ書いてあればそれで十分だったと思うわ」(If it had just Kiwi written on it, he would have been happy)[17]


  • [2]
  • WANGANUI NZ 1995/02/03 friday
  • thursday = 2/2
  • Melb C winner Kiwi , the horse that captured a nation's racing heart in the 1980's was found dead in his paddock today.
  • the 17 YO stayer apparently died of natural causes, part-owner and trainer Snow Luotin said.
  • " He had a bit of congestion in his lungs," lupton said "but otherwise he was in good health."
  • Lupton raced Kiwi with his wife Anne, who had bought the son of Blarney Kiss for $1000 at a Hamilton Sale.
  • the farming couple's dream became reality at Flemington in 1983.
  • Kiwi was a sensational winner of in the hands of Jim Cassidy, he came from seemingly hopeless position to win.
  • "You don't go in to races like that feeling confident.", Lupton said, "[but] we knew he was worth trying after he had proven himself at the distance in the Wellington Cup."
  • Kiwi saw out his retirement on Luoton's Waverly property.
  • He won 13 races and earned in excess of $425000 in his 60 start career.
  • 1995年2月2日(木)、余生を送っていたラプトンの農場の馬房で、死んでいるのが見つかった。明らかに自然死であった。
  • 17歳
  • スノー・ラプトンによると、「肺にわずかに鬱血があったけども、体調は良かったんだ。」
  • ハミルトンセールで1000ドルで購入[2]

3

  • 購入費は1000ドル[8]
  • 生涯13勝、総賞金は50万0839ドル以上[8]
  • スノー・ラプトンとアンにとって「お買い得」だった。[8]
  • メルボルンC優勝のあと、国内外のマスコミが産地ウェイバリーに殺到した。そんなことはウェイバリー史上はじめてだった。[8]


  • メルボルンC創設以来、ニュージーランド産馬の優勝は42回。過去50年では28回[8]


  • キーウィは1995年に死亡[8]
  • ウェイバリーにあるラプトン家の農場に埋葬された[8]


  • 1983年メルボルンカップの劇的な優勝から33年後の2016年、キーウィの銅像が製作されることになった。[8]
  • 「New Zealand is in a unique situation as a breeding ground for very good horses and it is important that people remember successes like Kiwi's,」ニュージーランドは、馬産地として特別な状況にあり、キーウィのような良質な馬を出す、ということを人々に思い起こさせることが重要だ[8]
  • →単にキーウィの優勝を祝うだけでなく、ニュージーランドが馬産地として優れていることを示すもの[8]
  • ハンソンによれば、ニュージーランドからは、メルボルンカップを12勝して「カップ・キング」と称されたバート・カミングス調教師をはじめ、ニュージーランドの気候や芝と土壌は、南半球におけるステイヤーの最良の産地だ。[8]


  • 製作者は、ニュープリマスの彫刻家で、競馬好きでもあるフリチョフ・ハンソン(Fridtjof Hanson)である。[8]
  • ハンソンは、もともとタラナキ島で外科医をしていた。[8]
  • ハンソンは、キーウィの大ファン[8]
  • ハンソンは、キーウィのメルボルンカップ制覇を、全ニュージーランド人が誇るべきものとして残すべきと考えた。[8]
  • ハンソンは「Kiwi's cup win should be celebrated at every opportunity,」ありとあらゆる機会にキーウィのメルボルンカップ優勝を祝うべきだ[8]


  • ハンソンは、一冬かけてキーウィの粘土彫刻をつくった。[8]
  • それをマートンの鋳物工場でブロンズに鋳造する[8]
  • ジミー・キャシディが騎乗し、キーウィが全力疾走しているところを描いている。[8]


  • 重さ11kg[8]
  • 台座は「タスマニアンブラックウッド」(Tasmanian Black Wood、)[8]
  • 学名Acacia melanoxylon(en:Acacia melanoxylon)。アカシアのなかで「材面の最も美しいものの一つ」[43]
  • まず、8番ワイヤー、粘土、金網で彫像をつくる。[8]
  • 次にゴムラテックスの型枠をつくりワックスを充填する[8]
  • 次にガスを逃がすための通気口をつくり、耐火材で型枠を覆う[8]
  • 次に溶かしたブロンズを流し込む[8]
  • これでワックスは焼き尽くされる[8]
  • 次に耐火材を破壊し、ブロンズ像を取り出す[8]
  • ハンソンの前作品は、(オリンピックで金メダルを3つ取った陸上選手の)ピーター・スネルの銅像[8]
  • オファーがあればキーウィの銅像をさらに作るつもり[8]


[4]
  • [4]
  • キウイの銅像製作が完成に近づいている。
  • 1983年11月1日のメルボルンカップ優勝馬
  • 同年のウェリントンカップも優勝、この両レースを制したのはキウイのみ
  • 等身大の粘土像 ジム・キャシディ騎手が乗り、全力疾走中のキウイ
  • ニュープリマスのアーティスト、Fridtjof Hansonによる
  • ウェイバリー町の補助金155,000ドルを支弁。これにより、原型からブロンズ像が作られる予定。
  • 委員長のBrian Rookは、Lower Huttの工場での銅像製作が完成に近づいているとコメント。「騎手」が乗るためブロンズ像の強度が必要で、現時点で、馬の耳、騎手のブーツを除いて各部品は完成しており、あとはこれらを溶接する段階。「ブーツ」を馬の側面に溶接し、そこに「騎手」を乗せる予定。
  • 製作委員会は、銅像の上に子どもが乗ることを懸念している。






ニュージーランドの国営放送

  • [9]
  • キウイの物語は、2018年にニュージーランドでTV映画『Kiwi』として映像化され、国営放送のテレビジョン・ニュージーランドで放映された。
  • ラプトン夫妻を演じた俳優は、スノー役にニック・ブレイク(Nick Blake)、妻アン役にアリソン・ブルース(Alison Bruce)。
  • 同一年にウェリントンCとメルボルンCを制した唯一の馬
  • 騎手はジミー・キャシディ(Jimmy Cassidy)
  • Victory in the Egmont Cup (2100m) was Lupton’s unorthodox springboard to Melbourne Cup success
  • エグモントC(2100メートル)を勝ってメルボルンカップへ挑むというのは、調教師ラプトンによる型破りなステップだった。
  • オーストラリアでの前哨戦を経ず、しかも農場で調教するなんてメルボルンCに挑むのは無理だと云われた。
  • 撮影資金はNZオンエアー社(en:NZ On Air)が300万ドルを出した。その多くはウマの登場シーンに充てられたという。
  • 製作総指揮( executive producer)はシャーロット・パーディ(Charlotte Purdy)
  • 監督はトマス・ロビンス(Thomas Robins
  • 撮影のためキウイ役に3頭のサラブレッドを用意した。

[47]

  • 監督はThomas Robins
  • 脚本はJohn Banas
  • [45]
  • 騎手役はPatrick Carroll
  • プロデューサーはDeborah CopeとCarmen J. Leonard
  • 撮影監督David Paul
  • Jimmy Cassidy - Patrick Carroll
  • 主演のニック・ブレイクは、ホビットでPercy役(湖の町エスガロスの門番で、スマウグを仕留めたバルドのを賛称し、バルドの仲間として五軍の合戦にも参加)
  • [49]
  • 2018年のニュージーランド撮影監督協会(New Zealand Cinematographers Society)の銀賞(Silver Award)を受賞。David Paul(撮影)
  • [48]
  • 作品の冒頭では、「(ニュージーランドの食肉大手の)1983年、ウェイバリーの町は、Patea Freezing Works社の工場が不況で閉鎖になり、どん底にあった」(It's 1983 and the small New Zealand town of Waverley is reeling from the recent closure of the Patea Freezing Works.)として始まる。
  • 2019 NZ TV Awards(New Zealand television awardsニュージランド・TVアワード)で最優秀長編ドラマ賞( Best Feature Drama)にノミネート。
  • 騎手は高校を出たばかりの18歳で、教師からは才能のあるラグビーの道へ進むか、馬乗りになりか、選ぶんだと選択を迫る

(It's time to make a decision.)

脚注

注釈

  1. 馬名の由来は北欧神話の女神イズン
  2. 1976年版の“Register of Throughbred Stallions of New Zealand Vol.Ⅸ”では、内訳の記載なく史獲得賞金を「97,009米ドル」としている[12]。1980年版の“Register of Throughbred Stallions of New Zealand Vol.Ⅺ”では内訳の記載入りで「80,161米ドル」としてあり[13]、ここでは1980年版の記述に従う。
  3. アメリカに残してきた産駒は6頭で、うち5頭が勝鞍をあげた[12]
  4. $ 549,839.00[18]など、通貨の換算レートにより異同がある。
  5. シリーズ3作めの『王の帰還』の冒頭シーン、釣りをしている2人組の一人で、川底から「一つの指輪」を拾い上げ、指輪を奪おうとした友人のスメアゴル(のちのゴラム)に殺される。
  6. 役名は「パーシー」(Percy)。はじめ、ホビット一行が町に侵入するのを見逃す。町を襲ったスマウグをバルドが退治するのを目撃、これを住民に訴えてバルドへの支持を集め、終盤ではバルドのもとで一隊を率いて「五軍の合戦」に参加する。

出典

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書誌情報

  • New Zealand Blood-Horse Ltd./編、“Register of Throughbred Stallions of New Zealand Vol.Ⅸ”、The New Zealand Throughbred Breeder's Association Inc./刊、1976
  • John M.Richardson/編、“Register of Throughbred Stallions of New Zealand Vol.Ⅺ”、The New Zealand Throughbred Breeder's Association Inc./刊、1980
  • アラン・シューバック(デイリーレーシングフォーム海外特派員)/著、『グローバルレーシング』(原著“Global Racing - The Complete Guide to the Greatest Foreign racecourse”)、(財)競馬国際交流協会、2010年。
  • 日本中央競馬会/編、『競馬百科』、みんと/刊、1976年。
  • ネヴィル・ペントン(Neville Penton)/著、草野純/訳、『オーストラリア競馬史』(原題:“A Racing Heart ― The Story of the Australian turf”、1987)、日本中央競馬会・国際室/刊、1993年。

関連図書

外部リンク

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関連項目

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