ブランの戦い

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fr:Bataille de Blain(oldid=141996029) ブランの戦いフランス語bataille de Blain、843年5月24日)は、フランスブルターニュ地方で起きた戦いである。メサックの戦いで敗れたブルトン人連合軍が、フランク人に反撃してこれを打ち破ったもの。

戦いに至るまでの経緯

840年にカロリング朝西ローマ帝国ルートヴィヒ1世が崩御すると、息子たちは帝国の分割を巡って争いを始めた。841年にはフォントノワの戦いが起きた。当時ナント伯を務めていたヴィドー家Ricuinランベール2世の兄弟はシャルル2世にしたがって戦い、兄Ricuinは切り死にした。戦いはシャルル2世の勝利に終わったのだが、戦後、シャルル2世はRicuinの弟ランベール2世へのナント伯領相続を拒み、エルボージュ伯ルノーfrançais版にナント伯領を授けた。このためランベール2世はシャルル2世から離反した。

ランベール2世は兵を集め、ブルターニュ公ノミノエのもとへ身を寄せることにした。ルノーは両者が合流することをおそれ、先回りをしてブルターニュへ侵攻、ノミノエの子エリスポエが率いるブルトン人の一軍をヴィレーヌ川の畔で叩きのめした(メサックの戦い[注 1]

ブランでの戦闘

メサックの戦いで完勝したルノーは、ナントへ引き返すために南へ向かった。ルノーは、ブルターニュ軍は潰滅しており行動不能だと判断していた。しかしメサックの戦いの直後、ヴィレーヌ川でランベール2世の軍勢がエリスポエの軍と合流し、ルノー軍の追撃に転じていた。

そうとは知らないルノーは、843年5月24日、イサック川(Isac)を渡るブランで全軍に休息をとらせた。『ナント年代記français版』によれば、ルノーの将兵は、まったく無防備なままイサック川(Isac)の川岸の草地に寝転がっていたのだという。

そこをランベール2世率いる大軍が急襲した[1]。ランベール2世軍は油断していたルノーの兵を徹底的に打ちのめし、大殺戮を行った。このとき、ルノーも討ち取られた。ランベール2世自らルノーの首級をあげたという伝えと[2]、エリスポエとランベール2世の軍に加勢したヴァイキングのリーダー、ハステイン(Hastein)がルノーを仕留めたという伝えがある。

戦いのあと

正統なナント伯を自認するランベール2世はこのあとナントに入った。しかしナント司教を筆頭に、ランベール2世のナント伯位を認めない者がいた。ブリトン人とランベール2世は、これらの反対者たちに讐いるために、ヴァイキングがナントを掠奪することを許したという。ヴァイキングはナントを蹂躙し、司教ら多数が殺された。古文書の多くもこのとき失われた。(843年)

翌年、ルノーの子がポワトゥー伯とともに攻め込んできたが、ランベール2世とブルターニュの連合軍はこれを返り討ちにした。次はシャルル2世が自ら軍を率いてブルターニュ討伐にやってきたが、これもブルターニュ軍の前に敗れ去った(845年バロンの戦い)。851年にアンジェで両者の協定が結ばれ、シャルル2世はナントレンヌを正式にブルターニュ領として認めることになった。

脚注

注釈

  1. プリュムのレギノEnglish版(?年 - 951年)にによる年代記やいくつかの修道院に伝わる史料では、メサックの戦いの当時、ノミノエは重病に罹っていて、息子のエリスポエが全軍を率いていたという。

出典

  1. F.- C. Meuret, Annales de NantesGoogleBooks版), Université d'Oxford, Suireau, 1837, p57。
  2. Didacus Antoine Jérôme Marius de Bodard de La Jacopière, Chroniques craonnaisesGoogleBooks版), la New York Public Library, Impr. E. Monnoyer, 1871

書誌情報

関連図書

外部リンク

関連項目