メサックの戦い
メサックの戦い(フランス語: bataille de Messac)は843年にフランス・ブルターニュ地方で起きた戦い。ナント伯の地位をめぐって、ブルトン人・フランク人の一派・ヴァイキングの連合軍と、別のフランク人一派とのあいだで起きた。戦場はイル=エ=ヴィレーヌ県のメサック周辺だった。
ブルトン人のリーダーはブルターニュ公ノミノエとその子エリスポエ、ヴァイキングのリーダーはハステイン(Hastein)、彼らと組んだフランク人のリーダーはランベール2世である。対するフランク人のリーダーはルノーであった。
目次
戦いに至るまでの経緯
西ローマ帝国の分割を巡る後継者の争い
814年にカロリング朝西ローマ帝国のカール大帝(在位:800年 - 814年)が没し、息子のルートヴィヒ1世が後継者として即位した(在位:814年 - 840年)。ところが即位から3年目の817年、ふとしたことから自身の死期が近いと感じたルートヴィヒ1世は[注 1]、息子たちへ帝国を分割して相続させることを発表した。息子たちは各々この分割案に不満をもっていて、830年についに長子ロタールが反乱を起こした。
帝国各地の諸侯や周辺の諸部族もこの争いに巻き込まれ、それぞれの目論見から誰かに肩入れした。ブルターニュの有力諸侯だったノミノエはルートヴィヒ1世を支持してブルターニュ公・ヴァンヌ伯に封じられ、ノミノエと対立していたヴィドー家のランベール1世(ナント伯で、ブルターニュ辺境伯領の代官でもあった)はロタール支援にまわった。
反乱は間もなく鎮められ、ロタールはイタリアへ遠ざけられた。ナント伯ランベール1世はナント伯位を剥奪され、ロタールに帯同してイタリアへ移った。ただしナント伯位は、ランベール1世の子、Ricuinへの承継が許されたという。
840年にルートヴィヒ1世が死去すると、帝国分割を巡って息子たちは戦いを始めた。彼らは長子ロタールと、弟のシャルル・ルートヴィヒの2派に分かれ、841年6月、フォントノワの戦いが起きた。
前段
フォントノワの戦いで、ナント伯Ricuin(Ricuin de Nantes)と弟のランベール2世は、シャルル2世の軍に加わって戦った。合戦はシャルル2世側の勝利に終わったものの、Ricuinは戦死した。弟ランベール2世はシャルル2世に対して、ナント伯位の正統な承継者として申出た。
ところがシャルル2世はランベール2世へのナント伯相続を認めず、ヴィドー家(Ricuinやランベール2世)と対立関係にあったポワトゥーのエルボージュ伯ルノーにナント伯位を与えてしまった。ランベール2世はシャルル2世への臣従をやめ、ブルターニュ公ノミノエに接近、シャルル2世に敵対姿勢をみせるようになった[1][2]。
メサックでの戦い
ナントの住民は、ランベール2世がブルトン人のノミノエと組んでナントへ攻め寄せてくるのではないかと危惧するようになった。そこで彼らは新ナント伯のルノーに対策を講じるよう依頼した。ルノーは自領地ポワトゥーからロワール川を渡ってナントへ入り、防禦を固めるように指示した。そこへ、ブルターニュ公ノミノエが重い病を患って伏せているとの情報が入った。ルノーはこれを好機ととらえ、先手を打ってブルトン人を叩くことにした。ルノーは一軍を率いてナント伯領から北のブルターニュ・アレ司教領へと侵攻した。
その頃、ランベール2世はアンジューで兵をまとめ、ノミノエと合流するために西へ向かっていた。
ナントから北のレンヌへ向かう街道がヴィレーヌ川にさしかかるメサックで、ルノー軍はブルターニュ公ノミノエの先遣隊であるエリスポエ(ノミノエの子)の部隊に出くわした。ルノー軍はエリスポエ軍を打ち負かし、ナントへの帰路についた。
その後
ルノー軍は悠々とナントへ引き揚げたが、その途上、ランベール2世軍と合流したエリスポエのブルターニュ軍の逆襲に遭い、壊滅した(ブランの戦い)。ルノー自身もこのとき討たれたという。この戦いにはヴァイキングのハステイン(Hastein)も、ブルトン人側で参戦したとも伝わる。
この戦いのあとランベール2世はナント伯を号してナントに入城したが、ナント司教をはじめナントの市民はランベール2世のナント伯位を認めなかった。そのためブルトン人たちは、ヴァイキングによるナント略奪を認めた。ヴァイキングによって蹂躙されたナントでは、ランべール2世を支持しない市民や、ナント司教Gohardが殺された[3][4]。このとき多数の古文書も失われたという。
翌844年にはルノーの子がポワトゥー伯を後ろ盾にしてブルターニュに攻め込んできたが、ランベール2世とブルターニュの連合軍に敗れて、両者とも討ち取られた。845年には西フランク王となったシャルル2世がブルターニュ征伐に乗り出したが、バロンの戦い(845年)で敗れ、ナントとレンヌと割譲し、ブルターニュ独立を承認するはめになった。
脚注
注釈
- ↑ ルートヴィヒ1世は非常に信心深い人物だった。817年の春、王宮の建物の一部が崩落すると、ルートヴィヒ1世はこれを神がルートヴィヒ1世の死が近いことを示した天啓だと信じ込んだ。ルートヴィヒ1世はその後23年あまり生きた。
出典
- ↑ Les classiques de l'Histoire de France Les Belles Lettres, Paris 1979, « Chronique de Saint-Maixent 751-1140 » p55
- ↑ Jean Renaud Les Vikings et les Celtes, Ouest-France, Rennes, 1992, ISBN 2-7373-0901-8,p121,note n°1
- ↑ Bruno Renoult, Les Vikings en Bretagne, Bretland, ediciones Nothung, Barcelone, 1985, ISBN 8476330057, « Nantes 843 » p18
- ↑ en:Janet L. Nelson, The Annals of St-Bertin, Manchester University Press, 1991, p55, 58