テュルク馬

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結論を最初に書いてしまうと、16世紀から18世紀のサラブレッド黎明期にイギリスで「トルコ馬」(Turk)と呼ばれたウマは、現代のトルコ共和国のある辺りではなく、北カフカスの「トルクメニア」産のウマだったと考えられている。現代ではアハルテケ種の産地として有名な地方だ。

この「トルクメニア」はどこかっていうと、現代のトルクメニスタンの辺りではなく、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈の北方の高燥地帯のことだった。現代のチェチェンとかそこいら辺だ。北カフカス(北コーカサス)は現代の地域区分で言うとヨーロッパに属するけども、「トルコ馬」の歴史的な先祖は、中央アジアのモンゴルのウマただった。

実際には、16世紀から18世紀のイギリスに東洋種「トルコ馬」として持ち込まれた個体は、純粋トルコ馬というよりも、トルコ馬とアラブ馬の交雑種だったとも考えられている。

概要

サラブレッドの黎明期に登場する東洋種の3種、「トルコ馬」「アラブ馬」「バルブ馬」は、当時のイギリスでの呼称である。現代の血統登録された馬種である「アラブ種」「バルブ種」などとは、区別をしたほうがいいだろう。

当時のイギリス人は、「トルコ馬」はトルコ産、「アラブ馬」はアラビア産、「バルブ馬」は北アフリカ産だと信じていた。が、現在では、実際にはそれぞれの原産地は当時のイギリス人が信じたとおりではなかった、と考えられている。(日本人の感覚では、北アフリカは「東洋」じゃないけれど、ヨーロッパ人にとっては「西洋じゃないもの」が「東洋」だったのだ。)

「トルコ馬」については語義の混乱もある。現代英語では「Turkターク」というと、現在のトルコ共和国や、その前身であるオスマン帝国を想起させる。だが本来は、当時「トルコ馬」と呼ばれていたのは、実際には「Turkタークに似た」を意味する「Turkomanターコマン」のことだったという。

Turkターク」という単語は、古代ローマ時代の「Türkテュルク」を現代英語読みしたものだ。近代のイギリス人は、オスマン帝国をテュルク民族の国家だと勘違いをしていた。だから彼らを「Turkターク」と呼んだ。だがオスマン帝国の人々は、自分たちはアラブ人やペルシア人などの多民族国家だと認識していた。支配者である皇帝スルタンの一族はテュルク民族の後裔を称していたが。

「テュルク民族」は古代に中央アジアを席巻した遊牧騎馬民族で、モンゴル高原から西アジア一帯を縄張りとし、古代中国では「突厥」と呼ばれ、同じ頃ローマでは「テュルク」と呼ばれ恐れられていた。その後1500年のあいだに、テュルク系の直系国家は消滅し、その後裔である「テュルクに似た人々トゥルクメン」が、いまは中央アジアの国家トルクメニスタンに住んでいる。

一方、古代にテュルク民族が住んでいた、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈の北方の高原地帯のことを、ローマ人は「トルクメニア(トゥルクメニア)」と呼んだ。ここは現代ではロシア連邦の一部・北カフカス地方になっており、悪名高いチェチェン共和国をはじめ、北オセチアとか、イングーシとかがある。コーカサス山脈を挟んで南側にはグルジア・アゼルバイジャン・アルメニアが並び、危険極まりない紛争地帯と化している。

「テュルク民族の土地」を意味する「トルクメニア」(Turkmania)と、「テュルク民族に似た人」を意味する「トゥルクメン」(Turkman)は、単語としてはよく似ているのだが、別の場所に関連づいているのだ。しかもややこしいことに、現代では、「テュルク民族に似た人」を意味する「トゥルクメン」が住む「トルクメニスタン」では、自分たちの土地を「トルクメニア」と称している。古代の「トルクメニア」と現代の「トルクメニア」は場所が違うのだ。

したがって、古代ローマ人がTurk馬(テュルク馬)と呼んだ馬は、モンゴルから中央アジアを原産とする馬なのだ。だが、イギリス人が東洋種を求めた16世紀から18世紀はオスマン帝国の全盛期で、帝国の中心地はアナトリア地方(現代のトルコ共和国)だった。だから当時のイギリス人は、オスマン朝トルコが支配するアナトリアで、「トルクメニア原産のウマ」を買い、それを「トルコ馬」と呼んだのだ。



「トルコ馬」とはどこの馬か

サラブレッドの祖先は、大雑把に言うと、イギリス在来種と東洋種、すなわち「アラブ馬」(中東産)・「バルブ馬」(北アフリカ産)・「トルコ馬」の三種から創出されたという。ただしここでいう「トルコ」は、現在の「トルコ共和国」のことではない。もっと東方で、黒海よりも東、北コーカサスからカスピ海を挟んで中央アジアに至る広大な地域を指す。現代の国・地域の名前でいうと、カザフスタン、トルクメニスタン、チェチェン、オセチア、などに相当する。

世界地図を見ていただこう。現代の我々が「トルコ」といえば、それはもちろん、地中海の最奥部と黒海に挟まれたアナトリア半島を主要な領土とする、西アジアとヨーロッパの緩衝地帯に相当する、イスタンブールを首都とする、親日で有名な国家のことを指す。より正確にいうと「トルコ共和国」だ。世界史の古代を思い出してもらうと、この地域は古代ローマ人によって「小アジア」と呼ばれ、さらに古代ギリシア人は「アナトリア」と呼んでいた。

現代のトルコ共和国の前身はオスマン帝国だ。近代ヨーロッパ人はオスマン帝国を「トルコ」(Turkey)と称してきたが、これはヨーロッパ人がオスマン帝国はトルコ民族の国家だと信じ込んでいたからで、当のオスマン帝国は自分たちがトルコ人国家だとは思っていない。多民族国家だったのだ。オスマン帝国は600年以上の歴史を有し、「建国」は1299年に遡る。建国者はオスマン1世。テュルク系の人物だという。

「テュルク」(Türk)は、日本語では「トゥルク」とか「チュルク」と書き表すこともある。祖先は中央アジア・モンゴル高原の遊牧民族ではないかと考えられている。モンゴル人と同系統であるともいい、古代中国を脅かした匈奴がテュルク民族の先祖であるとも言う。いずれにせよ、西暦550年頃、彼らは再び力を蓄えてモンゴル高原の覇者となり、東方では随を侵し、西方では東ローマ帝国を脅かした。ローマ人は彼らを「テュルク」と呼び、中国人は彼らを「突厥」と呼んだ。

中国の言い伝えでは、彼らは匈奴と狼の末裔だという。あるとき、匈奴の一族が滅ぼされて皆殺しにされた。だがしかしその時、ある兵士が、わずか10歳の男の子を殺すのをためらった。そこで兵士は、この男児の両足の腱を切るだけで見逃した。この子は狼に育てられ、やがて成長すると、雌狼とまぐわった。まもなく、匈奴が一人だけ山奥で生き延びているという噂が伝わり、王はその男を見つけて確実に息の根をとめるように命じた。こうして最後の匈奴が殺されたが、妊娠した雌狼は逃げて、洞窟で10人の男子を産んだ。その10人が成長し、突厥の10部族の長となった。

やがてテュルク/突厥は大きくなりすぎて分裂した。テュルク系諸国は各所で数百年続いた。そのうち中央アジアの一派に、イスラム教が伝わった。11世紀にイスラム教に改宗したテュルク民族は、「テュルクに似た」を意味する「テュルクマン」(Turkman)と呼ばれた。これが現在の「トゥルクマン」(Turkmen、Turcoman)だ。当時の「トゥルクマン」が住んでいたのは、主にカスピ海の東側で、現在のトルクメニスタン(Türkmenistan)に相当する。トルクメニスタンという国名は「トゥルクマンの国」という意味だ。

そしてこれらとはまた別に、歴史的に「トルクメン」・「トルクメニア」と呼ばれた地域がある。黒海とカスピ海に挟まれた地帯のうち、コーカサス山脈の北側に位置する高燥地帯のことで、これは現在のロシアとジョージア(グルジア)・アゼルバイジャンとの国境地帯に相当する。「トルクメニア」というのはやはり「テュルク人の土地」を意味する言葉だ。この地域は、古代、おそらく紀元前10世紀以前から、ウマの産地として名高く、古くから競走馬の故郷として知られていた。なお現代では、この「トルクメニア」はロシアの一部になってしまっており、かつての「トルクメン民族」は現在のイラク北部に住んでいる。ややこしい。

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現在のシリア北西部に位置するアレッポは、紀元前19世紀頃からアムル人王国の王都として栄えたという。この大都市の支配者は、ヒッタイト、アッシリア、ペルシア帝国、シリア王国、古代ローマ帝国、東ローマ帝国、ファティマ朝(エジプト)、セルジューク朝(テュルク)、アイユーブ朝(イスラム)、イルハン朝(モンゴル)、ティムール朝、そしてマムルーク朝(エジプト)と変遷していった。

1512年にオスマン帝国の第9代皇帝スルタンとなったセリム1世は、アナトリア半島から西アジア・中東へ侵攻、マムルーク朝と衝突した。最新兵器の火砲を駆使してマムルーク朝を圧倒したセリム1世は、1516年8月に、アレッポの北に広がるダービク平原でマムルーク朝を大敗させた。この戦いでは、マムルーク軍の一翼を担うアレッポ太守がセリム1世によって買収されており、その寝返りによってオスマン帝国はアレッポを無傷で手に入れた。

このときセリム1世は初めてアラブ馬を目にしたといい、その美しさに感銘をうけたセリム一世は、アラブ馬の輸出を禁じる勅令を出した。このため『ジェネラル・スタッド・ブック』には、17世紀にはアラブ馬は1頭も登録されていない。

ベドウィン族が生産するアラブ馬は、当時「アジル馬(Asil)」と呼ばれていて、50マイルから100マイルぐらいの「長距離」を走らせると世界一はやかった。これは何世紀もかけて砂漠で磨き上げられた能力だった。アレッポ北部と東部で生産されるアラブ馬は、この「長距離」よりももう少し短い距離に適し、当時、およそ2000年の歴史があった。

ニューカッスル公爵は、1667年に出版した『馬装の新しい方法と素晴らしい発明』(A New Method and Extraordinary Invention to Dress Horses)のなかで、74歳のときに、諸国漫遊の旅の途中で、「一頭だけ本物のアラブ馬を見た」と記している。それにもかかわらず、英国の生産者は、1665年にチャールズ2世(在位:1660-1685)が創設した王室賞 ― 中距離、4マイルの競走を反復するヒート戦で行われる ― を勝つのには、アラブ馬の血をいれるのがよいと信じ切っていた。

オスマン帝国の第19代皇帝であるメフメト4世(在位:1648-1687)のもとへ、チャールズ2世からアラブ馬の種馬がほしいとの要請があったが、メフメト4世はこれを無視した。メフメト4世はセリム1世が定めたアラブ馬禁輸の掟を遵守したのである。

トルコ在住の英国の大使、第3代ウィンチェルシー伯爵が、1666年2月24日に、ダーダネルス海峡に面するイスタンブールのペラ(Pera)地区(現在はベイオール(Beyoğlu))で、第2代リーヴェン伯爵アレクサンダ・ー・レズリー宛に、したためた手紙に、次のように書かれている。

 「貴殿からのお求めがあるところですが、故郷を遠く離れた私は、よい馬を1頭も買えません。というのも、宮廷はアドリアノープルにありますが、大臣ワズィール(Vizier)は(クレタ島の)クノッソス(中世名カンディア)にいて、良い馬はみな、宮廷か(ペロポネソス半島の港町)モレアに集められています。ここから13日を要するビクビザール(Byk Be Zar)の町にいくと、トルコマン馬を生産しており、そこへ行けばよい馬が手に入るやもしれません。私自身がどうにかしてアレッポまで行けばアラブ馬がもしかすると手に入るかもしれまんせんが、アレッポに派遣した私の部下によると、アラブ馬は入手できないと伝えてきております。もしも私が駿馬を手に入れた暁には、貴殿の邸宅へお送りするつもりではおります。」

競馬文化の焦点は、2000年さかのぼる。トルコマン馬の血は、「中距離」のスピードを育んできた。アレッポのアラブ馬が輸出禁止になってからは、太守は、以前は、ウィンチェルシー伯爵に、代わりのものを与えた。外交上の贈答品としてのアラブ馬のかわりに、トルコマン馬の種牡馬を。その馬体は、アラブ馬との交配によって、美しさが向上されていた。

幸運だったであろう。トルコマン馬の血脈が、王室賞に適した中距離のスピードを伝えたのは。これが、サラブレッドのスピードの、第三の・そして最後の、源泉になったのだ。

※第1はアイリッシュホビー種、第2はバルブ種。アラブ馬は中距離向きのスピードはない。