History
って、ポツダムは人口の半分近くを失った。
中世以前
タキトゥスによれば、青銅器時代はゲルマニアの一部であった。ゲルマン民族の民族移動時代後、スラヴ人が7世紀頃にHevelli部族の移住とし入って来た。オットー3世 (神聖ローマ皇帝)はその土地をクヴェードリンブルクの修道院に授与した際、初めて993年の文献にPoztupimiとして記述されている[1]。1317年までは小さな町として記述されていた。1345年に都市特権を得た。
7世紀 - 大化の改新
993年頃の日本 - 藤原道長の時代
都市特権 - Cityとして自治権、課税権など
1345年 - 室町時代(1336-)初期
1573年 - 戦国時代 織田信長が室町幕府を滅ぼす、武田信玄(三方原の戦い)
三十年戦争
1573年のポツダムは、人口2000人程度の小さな市場町であった。三十年戦争によって、ポツダムは人口の半分近くを失った。
三十年戦争とは
1618-1648
ドイツ周辺を戦地として起きたヨーロッパの戦争
新教徒・新興国 VS 旧教徒・ハプスブルク家
- スウェーデンバルト帝国
- フランス王国
- デンマーク=ノルウェー連合
- イングランド王国
- オランダ
- ザクセン選帝侯
- プファルツ選帝侯
- ブランデンブルクプロイセン選帝侯
- オスマン帝国
VS
- 神聖ローマ帝国
- スペイン
- ハンガリー
- クロアチア
宮殿
ブランデンブルク選帝侯
選帝侯というのは神聖ローマ帝国の貴族の称号。神聖ローマ帝国は有力貴族の会議によって王を決めることになっていて、(正確にはドイツ王を選挙で決め、そのドイツ王がさらに皇帝になる)、その議決権をもっている貴族を選帝侯という。
選帝侯の人数は時代によって違っていて、当初は6人(マインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク伯)だった。しかし投票が割れて戦争になることが度々あり、13世紀末にボヘミア王が加わって7人になった。
初代のブランデンブルク伯は1157年に就任したアルブレヒト熊公(Albrecht der Bär、1100?-1170)。(何がどう「熊」なのかは史料がなくわかっていない)
エルベ川の東へ進出して領地を築き、神聖ローマ皇帝のフリードリヒ1世(バルバロッサ)によって「ブランデンブルク辺境伯」の地位が創設された。その息子オットー1世はさらに領地を拡大、ポーランド、ベルリン、フランクフルト、シュテッティンなどを獲得した。
アルブレヒト熊公の家系(アスカニエン家)が14世紀に断絶すると、当時の神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世
辺境伯の地位はヴィッテルスバッハ家、ルクセンブルク家へ移る。そのルクセンブルク家から神聖ローマ皇帝のカール4世(1316-1378)が出て、
を転々とする。1415年にホーエンツォレルン家に移る。
ホーエンツォレルン家
ポツダムの命運が劇的に変わったのは、1660年にブランデンブルク=プロイセンの選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの狩猟館として選ばれてからである。その後、ホーエンツォレルン家の宮殿が置かれるなどプロイセン公国の拠点の一つとして発展した。1685年、フランスでルイ14世がナントの勅令(1598年に定められていた宗教寛容令)を廃止してユグノーの迫害を図ると、プロイセンはポツダム勅令を発表した。これにより、ポツダムはヨーロッパ移民の中心地となった。フランスのユグノーの亡命者のほか、ロシア、オランダ、ボヘミアなどから、移民がやってきた。移民をひきつけたのは、勅令によるその宗教的な自由度である。
- ↑ August Kopish, "Die Königlichen Schlösser u. Gärten zu Potsdam", Berlin, 1854, p. 18